調べ物をしているとインターネットというのはとてもすばらしいなぁと本当に関心してしまいます。
ふとしたきっかけで、最後の海軍大将『井上成美』という偉人に興味をもちまして。
オーストラリアにいて、日本の偉人を調べられるのですから。
簡単なところでWikiを見てみると
最後まで三国同盟に反対で、日米開戦に最後まで反対したという。
海軍として日米開戦反対の旨は昭和天皇の元に上奏したが、親独派の働きもあって、聞き入れられず会戦へと突入。
彼は海軍兵学校の校長の任に着くが、敗戦を予感していた彼は、卒業生の今後のために普通学(数学、語学等)を軍事学より重視し、その一環として当時陸軍等に「敵性語」とされた英語教育廃止論を断固として退けた。
後のインタビューに、井上はこう答えている。
「あと2年もすれば日本がこの戦争に負けるのは決まり切っている。だけど公にそんなことを言うわけにはいきません。そんな顔をすることすら出来ない。名分の立たぬ勝ち目のない戦だと内心思っていても、勅が下れば軍人は戦うのです。新しく兵学校を巣立って行く候補生にだって、私の立場ではしっかりやって来いとしか言えない。軍籍にある者の辛いとこですよ。それならしかし、負けた後はどうするのか。とにかくこの少年達の将来を考えてやらねばいかん。皆で滅茶苦茶にしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与えておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ。そう思ったから、下の突き上げも上層部からの非難も無視して敢えてああいうことをやりました」
先を見越して、どんな圧力にも屈することなく、敢えて自分の信じる道に立つって、すごい。
そして、米内光政が海軍大臣に復帰すると井上が海軍次官として校長職から、中央に復帰。
海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。
1945年5月に大将に昇進したが、井上はこの人事には不満だった。
そして同年8月、敗戦を迎える。
戦後は公の場には出ず、英語を教えたりなどしていた。生活は困窮を極めるものだったらしい、しかし自分の財産を鎌倉に持参して売っては、英語を習いにくる子供たちに「おやつ」を振舞っていたという。
敗戦後は、隠居生活を送り、昭和天皇の使いが彼を訪れるが、面会に応じなかったという。
いやぁ、超人です。気高いです。
どうも、彼は第一次世界大戦後に数年欧州で生活をし、イギリスのジェントルマン教育というものを目指していたようです。
ジェントルマン教育とは何かというと
イギリスの一流大学における紳士教育のやり方だそうで、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人々が本当に勇敢に戦ったことを受けて、日ごろ国から優遇され、特権を受けているのだから、エリート教育を受けた大半の人達が活躍したと。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える』ということです。ジェントルマンが持っているデューティーとかレスポンシビリティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて重要なのはこれです。
と言っています。
騎士道のようなものでしょうか?
フランス語でいう「ノブレス・オブリージュ」=高貴なる義務
井上の持つ武士道と騎士道が相まって、彼の哲学を生み出していったような気がします。
わたしは「権力に負けず、自分の信念に人生を賭ける」的な話に滅法弱いので、感動しちゃいます。
ぜひ、彼の本を読んでみたいなぁと思っています。
ふとしたきっかけで、最後の海軍大将『井上成美』という偉人に興味をもちまして。
オーストラリアにいて、日本の偉人を調べられるのですから。
簡単なところでWikiを見てみると
最後まで三国同盟に反対で、日米開戦に最後まで反対したという。
海軍として日米開戦反対の旨は昭和天皇の元に上奏したが、親独派の働きもあって、聞き入れられず会戦へと突入。
彼は海軍兵学校の校長の任に着くが、敗戦を予感していた彼は、卒業生の今後のために普通学(数学、語学等)を軍事学より重視し、その一環として当時陸軍等に「敵性語」とされた英語教育廃止論を断固として退けた。
後のインタビューに、井上はこう答えている。
「あと2年もすれば日本がこの戦争に負けるのは決まり切っている。だけど公にそんなことを言うわけにはいきません。そんな顔をすることすら出来ない。名分の立たぬ勝ち目のない戦だと内心思っていても、勅が下れば軍人は戦うのです。新しく兵学校を巣立って行く候補生にだって、私の立場ではしっかりやって来いとしか言えない。軍籍にある者の辛いとこですよ。それならしかし、負けた後はどうするのか。とにかくこの少年達の将来を考えてやらねばいかん。皆で滅茶苦茶にしてしまった日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与えておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ。そう思ったから、下の突き上げも上層部からの非難も無視して敢えてああいうことをやりました」
先を見越して、どんな圧力にも屈することなく、敢えて自分の信じる道に立つって、すごい。
そして、米内光政が海軍大臣に復帰すると井上が海軍次官として校長職から、中央に復帰。
海軍省教育局長の高木惣吉海軍少将に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力する。
1945年5月に大将に昇進したが、井上はこの人事には不満だった。
そして同年8月、敗戦を迎える。
戦後は公の場には出ず、英語を教えたりなどしていた。生活は困窮を極めるものだったらしい、しかし自分の財産を鎌倉に持参して売っては、英語を習いにくる子供たちに「おやつ」を振舞っていたという。
敗戦後は、隠居生活を送り、昭和天皇の使いが彼を訪れるが、面会に応じなかったという。
いやぁ、超人です。気高いです。
どうも、彼は第一次世界大戦後に数年欧州で生活をし、イギリスのジェントルマン教育というものを目指していたようです。
ジェントルマン教育とは何かというと
イギリスの一流大学における紳士教育のやり方だそうで、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人々が本当に勇敢に戦ったことを受けて、日ごろ国から優遇され、特権を受けているのだから、エリート教育を受けた大半の人達が活躍したと。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える』ということです。ジェントルマンが持っているデューティーとかレスポンシビリティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて重要なのはこれです。
と言っています。
騎士道のようなものでしょうか?
フランス語でいう「ノブレス・オブリージュ」=高貴なる義務
井上の持つ武士道と騎士道が相まって、彼の哲学を生み出していったような気がします。
わたしは「権力に負けず、自分の信念に人生を賭ける」的な話に滅法弱いので、感動しちゃいます。
ぜひ、彼の本を読んでみたいなぁと思っています。