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バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 21 アルルで別行動

2025-04-13 14:05:54 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
21. 1985年10月1日(火)晴れ
 9月14日に日本を出て既に半月以上経ち残してきた家族のこと、畑の様子、女子短と様々頭の中に募ってきた。

 今度の宿では朝食を頼んでいないので,パンをかじって済ませた。麻美は街を一人で歩いてくると言うので、単独で街中を描きに出た。
街は小さいので,ローヌ川と闘牛場を目標にして歩いていれば迷うことはなかった。ローヌ川岸を下って橋まで行き、町中に入りたばことコーヒーを飲む。16.5フランだった。今日はチョークで描いた。画材屋があったので、フィクサチーフを買う。小瓶のスプレーだが36.5フランで手持ちは残り2.5フランだ。街の中程に遺跡を見つけ入った。その中でスケッチに夢中で昼の閉門を知らないでいた。門は閉ざされているので昼寝の門番を起こす。スペイン人の老婆が出てきて荒調子で喋るが言葉が一向に分からない。言っていることは感じで分かるので謝った。入場料を払えと言っている。残りの2.5フランを出すと料金版を指さして4フランだという。さんざんの思いで外に出してもらった。午後1時近かった。

 今日はチョークや鉛筆で描いてまわった。遺跡からの民家、闘牛場からの赤い屋根の風景、街の中心地にある大きい建物の中のヴィーナスに似た石膏のある一角風景。
 今日も疲れた。麻美が近くの中国料理屋で日本食品の類を買ってきて、食事は部屋で済ませた。


No.1099  アルル礼拝堂No.1075 


アルルの家並みNo.1060

 
アルルde Rhone

アルル闘牛場

アルルスケッチ

アルルローヌ川

アルル郊外スケッチ

【追記】
 この旅行記は父がノートやスケッチブックに現地で、そして帰国後書き直すなどして残した記録を文字起こししている。乱雑な文字で読みづらく,記憶を辿りながら、判じながら読み進めている。さらに書き残した作品や写真を探し当てはめている。この旅行記はまだ続くが,実は最後まで読んでない。その都度、1日1日を判読し,作品や画像を探し当て,1日分が完成したところから掲載している。だから明日はどんなことが書かれているのか、明日のことを今は知らない。
 同じ旅を共有していても、父の感想に触れ「へー、そうだったんだ」と今更ながらに知ることが多々ある。
 実はこの10月1日にたどり着きたくなかった。読みたくなかった。きっと私への批判を書いているだろうし、今この日のことを思うと後悔で一杯だからだ。そんな思いから10月1日がやってくるのが気が重かった。
 
 父が書いているように,日本を発ち半月経ったこの頃、私は二人旅に辟易していた。どこに行っても「親子なんですか!?」と驚かれ、中には「男女が旅行するのは普通は夫婦か恋人同士だ」などと言ってくる人もいて、奇異の目で見られているように感じていた。それだけではない。言葉が分からないからと常に頼られどこに行くのも一緒。私は父に「簡単な挨拶は覚えたら」と言い放った。いつも一緒に行動することに爆発しそうな気持ちを押し殺し,この日は一人アルルの街を彷徨うことにした。その時、父は父で大変な思いをしていたことを知ったのはこの日の午後だったか、どこかで合流してからだった。だからこの日の日記はどれだけ悪口書かれているかと恐る恐る読み解く自分。そのくせ自分も一人の時間を楽しく過ごせたわけではなかった。ゴッホの跳ね橋を目指すが途中野犬に襲われそうになり,警察官に助けられ駅まで送ってもらった。そして駅近くの遊覧船でローヌ川観光しようと乗船するが時間になっても一向に出発せず、結局他に客がいないからと欠航となり、何もしないで時間だけが過ぎたのだった。
 この後父とどこで合流したか記憶にない。ホテルの部屋か,街の中だったか。
 ホテルの近くにベトナム人がやっている惣菜屋があり、そこで色々買った。醤油ベースの味付けで久しぶりに「おいしいもの食べた。こうやって買って食べるのもいいな」と父は喜んでいた。しかし食事のことは日記ではさして触れていない。あの夜の食事では、父は父なりに私に気を使ったのだと分かった。
 これはどこでどうやって挽回すればいいのか。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 20 アルル2日目 闘牛場を描く

2025-03-28 11:51:51 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
20.1985年9月30日 (月)晴れ

朝食の時、他にも客が5名いた。10:30がチェックアウトなので、ローヌ川風景を窓から描いた。晩秋の太陽が淡く澄んでいた。川の中に,コンクリートの残された橋げたが,この地の歴史を語り,川岸を歩く点景の人がのどけさを与えてくれた、
昨夜の宿は二つ星で高価なので、麻美が前回来たときの宿が取れていたので,広場に近い宿に引っ越しした。
昨夜外食に出たときに見つけておいた闘牛場の外壁を描くことにした。F6号に取り組んだ。
今日一日はこれに決めた。外壁をぐるっと回った。日陰を見つけた。石造りの重量感にてこずり,色がぱっとしなかった。
今日の宿は女将が経営していて,落ち着いたホテルだった。










【追記】
スイスジュネーブ湖を起点とするローヌ側は,アルルで大ローヌと小ローヌに分岐して地中海に注ぐ。
前回アルルに来たときはミストラルが吹き荒れていて,川沿いを散歩する人影は見られなかった。今回は穏やかなローヌ川だ。ここアルルは老人が多い。
駅前広場で前回来たときとそっくりにペタンクに興じている老人たちがいた。あの時と同じ人かもしれない。同じように声かけられ,ベンチで話し込み、駅前スーパーで何とかという野菜を買えばおいしいよとしきりに言われた。
アルルには数日滞在するので,お気に入りホテルに落ち着くことができて良かった。ローヌ川沿いの教会を見て、父は「油絵はヨーロッパの景色を描くのに適してるのだな」と語っていた。スペインの黄土とは違った、街全体が色を抑えた石造り景色はどこを見ても絵になる。今日は一日闘牛場を描くと言いキャンパスを広げた。通行人に取り囲まれたりしながら描いていた。画面をのぞき込んで「うまいね」と言って行く人もいた。カフェのテラスでサンドイッチとコーヒーの昼食を済ませ、グレープフルーツジュースを頼んだ。皮ごと絞られていたのか,苦くて飲めなかった。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 19 ようやくフランスに入る

2025-03-01 16:41:25 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
19 1985年 9月29日(日)
 今日フランスのアルルに行くようになる。9:50発の電車を待った。昨夜の睡眠不足で駅で待つ間も電車に乗っても眠ってばかりいた。アルルは来るときに通過したところだ。途中から別れて入ったローヌ川がゆったり流れ,今までのスペインとはがらりと変わった。
 電車を降り歩いて5分くらいのところの宿を予定していたが満杯で駄目だった。そこは麻美が前回来たときに泊まったホテルで、ゴッホが住んでいた家を改築してホテルにしたもの。奥まったところに二つ星の宿が見つかる。宿の親父はスペイン人に見えた。フランスと聞けば作法のやかましいところと思ったが、この親父は良くなく、強引にひきづりこまれた。夕食を外で取るといったらホテルの親父が世話してくれた。そこもスペイン人経営だった。
【追記】
 前回一人旅でアルルに来たときに,ホテルの前のテラスでくつろぐ宿泊客の老夫婦に呼び止められた。ホテルを探していると言うと、「このホテルはいいよ。きれいだし,食事もおいしい。私たちはいつもここに泊まるよ」と声を掛けられ,幸いにもシングルルームが空いていたので即決した。フロントを出て,今部屋を取りましたと告げると,テラスのおばあさんは「よかった、よかった」ととても喜んだ。
 そのホテルは母と息子で営む,こじんまりしたホテルだった。その後アルルの街で知り合った同じように一人旅する卒業旅行の日本人男性が、今のホテルを変えたいと言い,他のホテルから引っ越してきた。それまで彼がいたホテルは、「地球の歩き方」で紹介されたからか日本人がたくさん宿泊していた。日本人に会うことなどほとんどない一人旅だったのに、なぜかそこにはたくさん日本人が居た。そこの親父さんが口やかましく辟易すると言っていた。彼を引き連れて来てもう一部屋取ると,女将さんは微笑ましいものを見るようにニコニコしていた。そんなんじゃないと全力で言い訳しておいた。

 今回は空きがなかったが,明日は空くとのことなので予約した。女将さんも息子さんも前回宿泊した私のことを覚えていてくれた。「一人で来た日本人だよね」と。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 18 バルセロナの駅で野宿する危機一髪の夜

2025-02-07 11:57:21 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
18 1985年9月28日(土)

麻美に起こされる。

7:10発のバルセロナ行きの列車に乗る。この列車は今までで一番良い。6人の仕切られた部屋で片側は通路である。椅子を引き出すとベッドにもなった。音楽や照明の装置もあった。乗客の階級も良い。コンピューターの打ち違いで,席がかぶることが二度あり、車掌とのやりとりで車内がうるさい。

こっちの服装は二等車風であったので切符を切るまでは同室の人たちも変な顔をしていた。パスを見て,やれやれという様子だった。

スペインの汽車は時間がルーズなことを聞いていいたが、これのルーズさには肝を潰した。バルセロナが近くなった陽も西に傾いた頃、列車は遅れだす。あと1時間で終着のバルセロナに着こうとする時突然駅での停車が30分以上。車内放送もない。スピードも今までの半分に落ちる。バルセロナには2時間30分遅れで、夜中の11時半に着いた。

麻美がインフォメーションで宿を探す。不親切な対応だった。窓口の説明では駅の向かいあたりを探せという。重い荷物を背負い,あちこち足早に歩いて探す。汗びっしょりになる。結局見つからず、駅に戻って再びインフォメーションで聞くと,最初にバルセロナで泊まったホテルらしい。調度にタクシーが来て飛び乗った。運転手に話すと探しているホテルに連れて行ってくれた。しかしホテルは満杯でお払いをくった。

今日に限って現金は4000円余りしか手持ちになかった。予定では明日はフランスに入るので,安いホテルなら十分であるから・・・(と両替してなかった)
駅前には高級ホテルがあった。ホテルの親父は気の毒に思ってか運転手に別のホテルを教えてくれた。タクシーはどんどん田舎の寂しいところへ行く。明日の朝は早出なので心細くなってきた。次のホテルも満杯でシャットアウトをくらった。運転手が一緒に交渉してくれたがどこにも宿は見つからないので,とうとうタクシーは駅に戻った。

時刻は12:30だった。タクシー代825ペセタとチップを含め1000ペセタ払う。今夜の宿は駅と決めた。心細い。
駅を閉め出された数人が戸口で既に寝込んでいた。中は電話機などが荒らされるので,夜間は入れないとのことである。暗い中をのぞくと寝ている顔はジプシーに見え,恐ろしい気持ちで、麻美は怖がった。

アメリカの旅慣れた風の若い青年が来たので,一緒にいさせてもらった。大変安堵した。麻美の不寝番もあるので,朝まで寝なかった。麻美には防寒具を全部くるめてやった。コンクリートの壁に背を当てて寝て、ウツラウツラしていると午前2時頃、ふと目を開けると麻美の枕元に黒い肌の若いのが二人立っていた。目のみがギョロついていた。こっちと視線が合った時,二入の若者は暗い中に消えていったが,後になって恐ろしさで心臓がちぢみ上がる思いだった。それからも変なのがうろついていた。

夜が明け午前6時に駅が開いた。(ヨーロッパ時刻サマータイムが解かれた)

【追記】
マラガからの電車は遅れに遅れ,その日の最終到着列車になった。
バルセロナのインフォメーションは不親切だった。自分でホテルに電話して探せとリストを放り投げるように渡すとカウンターを閉じてしまった。駅前高級ホテルは全く我々を相手にせず,ポン引きに車に連れて行かれそうになり、調度来たタクシーに飛び乗りホテル探しを頼んだ。何軒回っても満室。ホテルフロアで交渉していると,中から宿泊している日本人青年が出てきて、「俺の部屋に泊まってもいいよ」と言ってくれた。ラッキーと思い,父を連れて来ると彼は怒ってドアを閉めてしまった。あーあって気持ちで駅に引き返し、どうせ明朝までの数時間、駅内で時間潰そうと思うが、それは思い通りにいかない。防犯のため無情にも駅員は全員閉め出すのだった。

そこへ調度人の良さそうなアメリカ人青年旅行者が同じように駅入り口で野宿当て込んでやってきたので、すぐ脇にいさせてもらい3人グループを装った。

始発電車は5:30だから、あと数時間ここで頑張れば駅が開く。
あと30分、あと10分など時計をにらみながら駅が開くのを待つと,なんとその日はサマータイムが終了する日。だから夜が1時間長かった日。
ヨーロッパの人にとっては1時間長く寝られる日。
結局そこからさらに1時間待ち、ようやく駅に入れた。
まずトイレに駆け込み,洗面を済ませると,隣でジプシーの女性が洗濯していた。なんだか妙に仲間意識がわいてきておしゃべりしながら並んで洗顔した。

怖いもの知らずとはこのことで,後に父の記録を読み返し,いかにあの時危険だったのか反省しきりである。そういえば翌朝駅に入って人心地着いた時に、父は「黒人やらが麻美の周りたむろしていた」ようなことをチラッと言ったが、それほど危険な状態とは思わずその話はスルーしていた。

この日はそんなわけで、写真もスケッチもない。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 17 マラガに一泊する

2025-02-01 11:51:17 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
17 1985年9月27日(金)晴れ

今日はマラガ行きだ。宿を出て外で朝食をとった。マラガにはバスで行った。11時に着く。
エステポナに比べて大きな賑やかな街で観光の街である。(ピカソの生地でもある)。港町でその反対の小高い丘は右に大きい城塞が建ち残っている。闘牛場もあった。城塞とカテラダを見ることにしていた。カテラダ(宗教的なところらしい)は行った時あいていなくて入れない。城塞に行った。
10何世紀のものか,中世の名残をとどめ外壁を残して小高い場所に残されている階段を登った。敵の侵入を防ぐ工夫がなされた構造に興味があった。中には遺跡展示室があって、見た。モザイク画の,深く落ち着いたものなど心に残る。
夕方、日も傾いていたが帰り際に夕陽の馬車に乗り45分間の遊覧を楽しんだ。日本人の姿はどこにもなく,遠い国にいる実感がわく。
今日のホテルは星二つで,二つ上のランクだった。今まで泊まった中で最高に良し。便所は消毒の匂いで気持ちよかった。


マラガスケッチ

ピカソ生家前



【追記】
マラガへの移動は順調だった。ホテルもすぐに見つかった。
マラガは大きな街で活気があった。ピカソの生家前で記念撮影した。
夕刻、観光馬車に乗った。乗り場で観光客の列に並び、自分たちの番に回ってきたのは薄汚れた馬車と白馬でちょっと残念。夕方の風が気持ちよく開放的な気分で馬車に揺られた。夕食を広場のテラスで取っていると,物売りの子供がポケットティッシュを売りに回ってきた。押し売りは即座に断っていたが,ポケットティッシュなら持っていれば便利だと父が言った。その後その子から買ったかどうかは記憶にない。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 16 エステポナ2日目

2025-01-23 11:24:38 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
16 1985年9月26日(木)晴れ
午前中麻美が海で泳ぎ,貴重品の番をしながら海の風景を描く。午後は家並みの写生をした。夕食は外でした。


【追記】
この日は疲れたのか,これしか記録を残していない。その代わり油やスケッチをたくさん残している。気になる風景を写真に収めるでなく,その場でスケッチするのが輝流。











No.567 エステポナ(スペイン〕太陽海岸 F3




浜辺のそこここにトップレスの女性が日光浴していた。その中でも中年の白人3人組が目立っていた。二人の女性はトップレスで寝そべり、男性がオイルを塗ってあげていた。
父に荷物番を頼み海に入ると,遠浅の海の足下に鰯やタコが泳いでいるのが見えた。タコと一緒に泳ぐみたいで気持ち悪く,早々に浜辺に上がるとしつこい老人にまとわりつかれた。
「オイル塗ってやるから横になれ」といってしつこい。
父に助け船を求めようと思うが、肝心の父は防波堤で絵を描いている。仕方ないから少し日光浴して,すぐに引き上げた。
街には少し前に日本のサーカスが来たらしく、辻辻にポスターが張られていた。それでも日本人はかなり珍しいらしい。街を歩いていると大人も子供も振り返る。遠慮なく引き返してきて顔をのぞき込む男性もいた。遠慮がない。子供たちは「ハパン、ハパン」と声を合わせて後を付いて回って来た。なぜ日本人と分かるのか不思議だったが、昨日の洋品店のおじさん辺りから聞き出したのだろうか。
夕食にレストランに入ると、付いてきた子供たちがさらに友達を呼び、店の前でたむろして中をのぞき、一挙手一投足に一々歓声上げていた。
夜遅くなってもまだ外は明るく,通りでは子供たちが遊ぶ声がいつまでも響いていた。道路にチョークで線を描いて遊ぶ様子は,自分の子供の頃昭和の風景だった。
この日の父の日記はほとんど記載がないが、帰国後、海辺で寝そべりオイルを塗ってもらっている女性の様子を作品にしている。
「地中海の女」である。(S100)この作品の覚え書きが残っているので,併せて掲載しておく。

No.1「地中海〔アンダルシアの女)S100
2/3(1986.2.3) 【描きたい絵】
「スペインの南端エステポナで麻美が泳いだ。貴重品、衣類見がてらに防波堤の突端で湾越しの街並みを描くためイーゼルを構えた。描いてしばらくしてうしろむくと描いている背後1㍍そこそこの距離に年の瀬30歳は過ぎたか接客婦にもみえる女性二人が寝ころび、そこに側立つようにして男がいた。男は女よりも年若く、ひげを携えている。
女二人ブラジャーなし。下の方は細いT字形パンツ。
 女は代わる代わる男にマッサージさせている。30を超したスペインの女は、はぶたいもちのようにぶくぶくだ。おまけに日焼けした肌が怪物のようにマッサージで動く。乳首は梅干しで黒い。一方砂浜では40過ぎの女がノーブラで砂に寝て日光浴をしている。先の二人の女達よりまた異様な怪物様だ。焼け付く地中海の太陽の海と女達。このような様を絵にしたい。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 15 コスタデルソル、エステポナに到着

2025-01-19 11:48:54 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
15 1985年9月25日(水)晴れ

寝台車の中でワイン飲み過ぎて喉が渇き、3時頃目が覚めた。その後、6時頃までずっと眠った。こっちに来てからマドリードより朝明けるのが遅く7時半頃で、夕日の落ちるのは8時過ぎである。
夜が明け始めると、車窓からの風景が目に入ってくる。山間を進んでいた太陽が雲間に顔を出した様子はいかにもスペイン国らしい。荒々しさを感じ、これから着く最南端アルヘシラスの風情を感じ得ない。昨夜列車内の飲み過ぎた今までの疲れなのか,体の調子が狂ってくる。

アルヘシラスは漁と観光両者を兼ねた漁港でアフリカへ渡航1時間のところである。

駅から今日宿とするエステポナ村までバスに乗るのだが、バス停見つけで苦労する。ここではフランス語がほとんど通じない。
13キロのリュックを背負って暑い中30分は歩いた。

エステポナの町までバスで1時間で着いた。海水浴客で賑わう街で海岸は高級ホテルがひしめくように建っていた。

宿は一つ星のホテルが見つかった。
早速麻美は水着に着替え海に入った。午後一時近くだったが,泳ぐ人の姿はあまりなかった。







夕方は明日描く場所探しに本通りを北に入って、民家のある通りを歩きまくった。教会を除いては全て白い漆喰の建物である。
夕方だったので家の戸口の脇に老人が椅子を出して休んでいる光景があちこちに見られる。半分壊れた椅子に身を斜めにしてぽつねんと腰掛けている老人もいて,印象的であった。町並みや老人を何枚もカメラに収めた。カメラを向けるとポーズを取るものもあれば,嫌う人もいた。

宿は壁塗り職人の人たちが多く泊まっていた。ホテルのレストランで食事すると、皆の関心がこちらに集まった。


ポーズを撮る老人 

いつまでも明るい

【追記】
アルヘシラスからエステポナまで地中海に沿ってバスは走った。私の記憶では2時間くらいだと思うが,父の日記には1時間とある。座席は海岸側で最初は景色を楽しんだが,ずーっと単調であり、直射日光が厳しかった。後ろの席の人と無言でカーテンを取り合いながら日差しをよけた。

エステポナに着いてまず洋品店に駆け込み父は真夏の衣類を購入した。店の主人が、「そんな格好じゃ暑いべ」と言いながら,半袖短パンを見繕ってくれた。
ホテルは海岸沿いの安そうなところに決めた。入り口にシェパードが寝そべっていて,それをまたいでカウンターで手続きした。
坂道の路地突き当たりに老人が壊れかかけた椅子で夕涼みしていた。もう何年もそうしてそこにいるかのようなただずまいだった。写真を撮らせてほしいというと拒絶されたが,他の老人二人組は「俺たち撮っていいよ」と手招きしてポーズまでしてくれた。最初に断られた老人のたたずまいは非常に絵になっていたので,後で遠くから1枚撮った。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 14 マドリードから寝台車でスペイン最南端へ行く

2025-01-14 13:56:38 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
14 1985年9月24日(火)夕立あり

4日間使ったホテルを11時に出ることにして、朝の間にホテル窓越し風景をサム号に油で描く。
トレド橋の時はホワイトを使わないでやってみたが、今日は白を沢山くれて描いた。おもしろいのができた。西洋の建物では白が必要とされると思った。ただ、ホワイトの乱用にならねばよいが。





No.513 SM マドリードホテル窓より

正午には王宮の見学をする。時間待ちして入ってはみたが、各ツアーごとに英語ガイドがいて、一般の旅行者なるもには勝手が利かず、少し見るだけで出る。

ゴヤパンテオン横のレストランで昼食


マドリード王宮前

近くに華麗な壁面のゴヤ美術館なるものを見つけて入った。教会が美術館になっていて、部屋の上段にゴヤの墓らしきものが置かれ、天井壁画が素晴らしい。プラド美術館で見たものより色彩が生々しく新鮮だった。美術館を出る時夕立に遭った。暑い日続きたっだから、気持ちよかった。

スペイン最南端のアルヘシラスへ行く寝台車に乗るために、夜食を買い込み、マドリード駅へ戻る。
向かいのホームから出る同じアルヘシラス行きの普通車に、黒人の若者たちがひしめいていた。荒くれ者の囚人列車を思わせる様相に麻美は恐ろしがって行くのを取りやめようかと言いだした。予定の寝台車に乗り込む。勝手のわからずまごつく。
アルヘシラス行き寝台列車で夕食
寝台車ではフランス人の親子三人が同室となる。やたらとしゃべりまくる親子だった。列車は定刻の午後8時20分に発車する。フランス親子は一行に夕食の様子がないので、麻美とワインで済ませ、3階に登って寝てしまう。




【追記】寝台車は初体験だった。マドリード駅でアルヘシラス行きのホームにたどり着くと、途端に辺りは黒人だらけになった。ホーム全体が薄暗かった。向かいのホームから出る列車車両には人々が張り付くように群がっていた。ホームでは大声で話したり歌ったり、奇声を上げたり。なかには手招きして「こっち来て、この車両に乗れ」と話しかけてきたりする人もいた。アルヘシラスへ行くのをやめ、明るいマドリードのホームに戻りたくなった。私たちが乗るのは向かいから出る寝台車だと分かると,彼らは「あーあ」という様なことを言って誘うのを諦めた風でほっとした。
寝台車同室はフランス人のおばさんと中高生くらいの娘二人。フランス語を話す人でしかも女性でホッとした。3段ベッドが2列の6人乗りコンパートメント。最初は全員が1階座席部分でおしゃべりしめいめいに過ごしていたが、フランス人の母親に私たち二人に3階ベッドを譲ると言われ,父と私は嬉々として上に登った。まもなくそれはまちがいだとわかった。上はとても揺れる。あの人たちはだからいつまでも動かないで下にいたのだと後でわかったが仕方ない。一晩中、3階から振り落とされないように気をつけて寝ることになるのだった。

冬期講習で文章を極める(日本語、英語)

2024-12-29 21:55:37 | 学習教室バネ
2024年の冬期講習、前半が終わった。
今年は中1.中2は合同クラスにした。

バネはほぼ個別指導でやっている。
学年混在クラスというだけでなく、同じ学年でも進度、理解度が異なるので個々に合わせて進めている。
板書で一斉説明して、
「ほいこの問題解いてみろ!」
スタイルならどんだけ楽か! とは思うが、なかなかそうはいかない。

あっちでは「先生、今日は電流勉強したいです」と言われ、こっちでは「図形の証明さっぱりわかりません」と言われ、さらに向こうからは「英検受けるんで、対策授業して下さい」なんて言われ、適宜対応しているから毎日が脳トレマックス状態。

しかし今年の冬期講習夜の部は一斉授業できそうだと判断した。
出席するのは中1、2生。
みんな一緒の内容で板書説明メインで進めようと思う。
このメンバーなら行けると思う。

何をやるかというと、それは英語の5文型。
中学生達be動詞と一般動詞の使い方理解していないし、そもそも「動詞って?」とか「形容詞、副詞って何?」なんて言われるから、中2にいつかしっかり時間取って5文型を説明しようと思っていた。学校の英語では文法を体系的に学習せず細切れ学習しているから、今何学習してるかすらもよくわからないと口々に言う。
幸いなことに中1は皆そこそこに英単語力あるから、中2と一緒の学習でなんとかなりそう。

冬期講習「5文型」用の教材を作った。
板書説明するエッセンスを大きめの文字で書き出しておき、必要に応じて各自が書き込んだり色を付けたりできるようにスペースあけてルーズリーフ用紙にプリントし、順を追って綴じていけるようルーズリーフファイルも渡した。
まじめな子は家でそのプリントを元に再整理すると思われる。もし書き込まないとしても、自分が使ったノートは学習記録として記憶に残りやすいし、後日活用しやすい。
近年タブレット学習が幅をきかせ中学生達がノートに鉛筆で書く行為がめっきり減っているから、ノートのよさ再発見なんて効果も期待して。

そうだ、どうせやるなら。
部活やら送り迎えの都合で開始時刻に皆が揃わないこともあるだろうから、それなら、授業冒頭に作文授業いれちゃおう。
これは事前告知なし。
今回は英語の文法中心に学習しますと伝えていたけど、最初の30分間自由に書く(日本語)時間としよう。

「まず最初に作文書いて下さい。書き方は自由です。ただし今日の出来事について書くこと」とだけ言い原稿用紙渡すと、「えー、作文嫌い!」
いいね。こういう反応する子がいて欲しかった。
20分で書くよう促すと先の作文嫌いっ子は原稿用紙2枚使ってなにからガシガシ書いている。
そして公開処刑ならぬ、全員の作文を先生が読む。
そしておもむろに「作文書き方のこつ」プリント配布。
これはバネの作文教室初回授業で配るもの。
そして「では、先生が書いた作文を読みます」

小学5年生の女子がファミレスで家族とメニュー決める創作話。

そして冬期講習本題の英語の5文型に入る。

まずは文の要素、S,V,C,Oを説明。
続いて品詞-名詞、動詞、形容詞、副詞を説明。
説明ばかりではと中1でもわかるようチョイスした動詞リストに、意味と自動詞、他動詞のチェックを付けていく。さらに自動詞は完全自動詞と不完全自動詞に分けるように説明する。

そして第1文型と第2文型を説明。
そして演習問題。
この時点で完全自動詞と不完全自動詞が区別つくようになり、さらに名詞と形容詞が見分けられるからスイスイと理解できている様子。
渡されたファイルをめくりながら単語や知識の確認もしている。

そして講習2日目。
やはり始まりは作文から。
制限時間20分。そして読み上げ、講評。
めんどくさいなど言いながらもカツカツ書き原稿用紙オカワリが出る。
昨日はほとんど書けなかった子が時間一杯かけて提出したそれは、今日の出来事をネタに自分の見解をまとめていた。
これって、「哲学じゃないですか!」 と言うと、他の子も「ウン、ウン」
そして先生の作文を披露。
それは昨日の続き。ファミレスでやっとの思いでメニュー注文した後、ドリンクバーを取りに行くシーン。

「先生、この女の子って、うちの妹のことみたいです」
って感想が寄せられた。

2日目は昨日の文の要素、品詞、文型おさらいして、もう一度動詞の分類練習して残りの第3.4.5文型を一気に説明。

とかく先生が説明頑張っているときは、一人芝居になりやすいのだけど今回は手応えあり。その証拠に、説明後の演習問題、結構できてる。ファイルも活用されている。

3日目は風邪や家庭の都合等の欠席がいたので、文型問題の演習問題中心に復習した。

予定通り2回の授業で説明しきることができた。
自分だけスッキリで終わらせないように、1月からの後半で学習内容の定着を図ろう。
それに創作文の続き、多分皆気にしているだろうから、正月休み中に続きをつくらないと。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 13 トレド二日目 アルタンカラの橋を描く

2024-12-29 21:33:57 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
13 1985年9月23日(月)晴れ 
 
   今日もトレドに行く。8:30のバスに乗るため7:50に宿を出る。
   地下鉄を間違えてしまい、忙しかった。月曜日のためか、バスは途中から乗る客が多く一時間半かかった。
昨日の場所はやめた。バス停から10分くらい歩いてトレドアルタンカラの橋を描くことにした。小山敬三の描いた橋である。疲れが出てきていた。
暑い太陽だった。日本の風景に比べると重々しい。なかなか石造りの重厚感が出ず、残念だった。よい勉強をした。フォルムが見えなかった。筆もやたらと使い、手も汚した。
夕食はおごって、一人2500円で食べた。
明日マドリードを出て、スペイン最南端へ発つ。

【追記】
【父は9/23は相当疲れていたのでしょう。上記日記は殴り書きで、文章はぶつ切れです。なんとか読み解きリライトしたけれど、随所不明点があります。ギリギリ読み取れたものを記載しました。】
前日と二日続けてトレドに行った。昨日の場所はあまり良くないということで、駅から歩いて行けるところで描くことにした。父は「こっちの方が絵になったかもしれないな」といい、「ちょっと待ってて」と言い、やおら立ったまま駅近く広場でスケッチした。
スケッチ場所を決め、アルタンカラの橋を描くために道路から斜面に降りた。そこは石やゴミで雑然としていた。車からドッサリとゴミを捨てていく人もいた。
じゃ私も絵を描こうかとアルタンカラの橋を描いた。
今日はここで本格的に描こうと画材を広げてしばらくすると、左の方から羊の群れがやってきた。ずんずんとこちらに向かってくる。いやな予感がして、あわてて荷物をまとめて斜面を登った。羊たちは牧羊犬と羊飼いに追い立てられながら通り過ぎた。その後には無数の糞が落ちていた。荷物を片付けないであのまま斜面にいたら惨憺たることになっただろう。父は、「ここはいつもあの羊たちの通り道だったんだ」と妙に納得し、「荷物どかしてよかったな」と笑っていた。
帰り際に「見せてみろ」と父は言うから、少し離れたところで描いていたアルタンカラの橋のスケッチを見せると、「ほー。ふーん」としか言わなかった。







都大路駅伝応援記

2024-12-26 17:33:32 | 感動
「そうだ、京都行こう」

ってノリで日帰りで京都に行くことにした。
年末の冬期講習直前の多忙な日であり、ギャラリー輝の企画展最終日であったにもかかわらず、強行突破で京都まで行くことにしたそのわけは。
それは、バドミントン部と一緒に米作りしている西武台千葉高校陸上部の面々が、なんと都大路駅伝に出場することになったからだ!
田んぼでは寡黙な青年たち。細っこくて、お尻の位置がキュっと高くて,声聞いたことない子たち。

マラソンの応援って沿道で旗振るあれ。それか、じっとスタジアムでモニター見ながら応援する、あれ? てな風で、具体的には駅伝応援ビギナーとしては応援のイメージ沸かず。

出発の日が近くなると、応援ポイントは、こことこことこことここです、なんて情報が入ってきた。
こことここと・・・って、京都の町を電車かなんかで移動するわけ? 人混みかき分け乗り継ぐわけ?
「スイカはしっかりチャージしておいた方がいいですよ」
先達からのアドバイスもあったから、寒い京都の町をワサワサと移動するイメージが、やっぱ行くのやめようかなとちょっとネガディブになったりしたけど、とはいえもう行くって宣言したことだし、とにかく行くだけ行くかと少し重くなった腰を持ち上げ東京駅に向かったのでした。

京都駅10:30着
男子のスタートまで2時間あるから観光の一つくらいしておこう! とまずは下鴨神社を目指した。
この神社にはなんとなくご縁があり、どういうわけか何度か訪れてそのたびおみくじは「大吉」だった。
初めて来たときは冬。
色を失った白と黒の幽玄な世界。
空に伸びる境内の杉の天空の隙間から、白い雪が放射状に落ちてくる様は忘れることができない絶景であった。
それ以来幾度となく下鴨神社を訪ねている。大阪に用事があって出かけたときも、わざわざ下鴨神社によるために京都駅からタクシーを飛ばした。

京都駅から下鴨神社の最寄り駅まで行くが、目指す神社には駅から数キロある。歩くしかない。しかし幸運なことに駅前で乗客を降ろしたタクシーを拾うことができた。
「お客さん、多分これが最後のタクシーですよ。この後ろは交通規制始まっていますよ」
と、幸先がいい。

おみくじは今回は「小吉」だった。しかし内容はすこぶるよかったので満足。

さてここから最初の駅伝応援ポイントに向かうことにした。
まずは「西大路御池」駅
警察が交通規制の準備始めている。最初は「ここ通るの?」ってくらい閑散としていた交差点に人が集まり始めいつの間にか人だかりができたころ、白バイ先頭にやってきましたよ、駅伝先頭集団。

おる、おる。目指す選手がその中に、おる。
目の前を先頭集団が走り抜けると隣の体の大きな男性が「よし、次! いくぞ!」

えっ? この瞬間私にはスイッチが入ってしまった。

周囲の皆は一斉に駅の階段を走り降りる。
そういうことか。次の応援ポイントにダッシュで移動するのが駅伝応援団のやり方なんだ!
それなら自分だって、と負けじと一緒に走る。
次に目指したのは「今出川」
二つ目の駅。
一瞬よぎった。近すぎるのではないか。電車より選手の方が速いのではないか?
案の定駅の階段を走り登りきり外へ飛び出すとお目当ての選手は通過した後だったようだ。
では次のポイントへとまた走る。
次に目指すは「国際会館」
途中で烏丸線に乗り換える。
この時点ですっごい人。乗り換え通路を人ぎっしり状態で通過し、ぎゅう詰め電車に乗り、そして降りるとホームから落ちんばかりの人。
ギューギューになりながら改札を出る。
人混みでスリスリとしか進まない中微妙に後ろの人に押されるから自分も前の人を押す形になり、ところてん状態で改札を出た。

階段を走り上がると、そこには人人人!
なんとか隙間見つけて顔出して応援する。

選手通過!
通過した後にそこにいつまでもいる意味がないんだ。すぐさま、ゴールとなっているスタジアムへと向かう。

そういえば昼食べたっけ? 何か飲んだ?
と何もかも忘れてしまう夢中状態で次のポイントへ。

スタジアムはだだ広く、すいていた。一番前を陣取ると他の応援団も近くに集まってきてお目当て選手の力走を声張り上げて応援した。

実はこう言うのチョット慣れているんです。
国技館で「ハクオーホー」って大声出し経験しているから、すんなり大声出せるんだよね。
大声出しまくって,おなかもすいて、京都駅で腹ごしらえして帰途人の人となったのでした。

帰りはぐったりで,就寝頃には足がつって、OS-1飲んでしのぎ,朝は犬に起こされるまでぐっすり寝たのでした。

伝統の京都駅伝。
応援の妙が体験できたから来年はもう少し効率的に動けるかも。
何より京都駅で,バス電車共通1日乗車券(1000円)買うのはマストだね。
そして今度はしっかり写真撮ろう。今回、一回もカメラ使わなかった。

だから、がんばれー、陸上部。
来年も頼むよ。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 12 待望のトレドでスケッチ

2024-12-17 15:17:49 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
12.1985年9月22日(日)晴れ

今日は待望のトレド行きだ。
地下鉄でバス停まで行く。トレドに行く客がすでに2、30人地下のバス停にいた。
バスは80㎞のスピードで郊外を突っ走る。日曜日のため途中からの客は少なく、他の車も少なく、快適だった。1時間でトレドに着く。時刻は10時半だった。
あらかじめ場所を写真で拾っておいたので、タクシーを拾い、タクシー運手に写真のスケッチを見せると頷いて承知してくれた。
街を外れて南の丘から街を展望できるところまで連れて行ってくれた。(300円) 帰りの迎えを予約(2時)しメモを渡す。承諾してくれた。
今日は主にスケッチを描くことに決め、道路から崖を登った。
山羊のフンが辺り一面散在していた。山羊の姿は見えない。
名声あるトレドも実際来てみると期待外れ。
大きすぎてつかみようがない。しかも黄赤茶色一色でもある。バルセロナ近辺のサラゴサ辺りの面白さからするとずっと劣る。何しろ色がない。またフォルムもない。

トレド全景


しかしだ、日本の絵描きの多くが絵にしているところを見ると、まんざら捨てたものでもないとも思うのであった。明日も来ることにしているので、今日はとりあえず絵の下絵をしたが、フォルムが決まらなかった。何枚もスケッチした。






トレドアルタンカラの橋スケッチ


描いている脇を日本のツアーバスらしき二台が通り過ぎる。こっちに来ては、東洋は中国、韓国見分けつかないので、挨拶はない。


帰りの予約したタクシーは30分過ぎても来なかった。待合していたところの売店の老夫婦が気の毒だという表情で、おんぼろライトバンで駅まで送ってくれたので助かった。夕方は闘牛に行くことになっているので気が気でなく、本当に助かる思いだった。謝礼を出したが親父さんは受け取らなかった。その時、知り合いの誰かがこの地に行くことを知ったら、日本の土産を託したいと思った。



タクシーを待つ

夕食を済ませて闘牛場(プラザ de Toros)に行くことにしていたが、昼間のハプニングで30分遅れて6時半に着いた。すでに一場面が終わったところであった。大喝采の拍手の中、満席を踏み分けるように案内人に引率されて中段の席に着く。周囲は日本人ツアーで一杯だった。(券は21日にすでに購入しておいた)
グランドに目をやると、ヒヅメで荒らされた地表や殺された牛の血をトンボで収めていた。5分も過ぎた頃、次の場面が始まった。闘牛手数名が手に赤いマントで牛の出を待つ。反対方向、暗闇の口から突如黒い牛が放り出さされるように飛び出す。急に明るみに出された牛は一瞬たじろぐ。場内の闘牛手が黄色い声で牛をおびき寄せる。けしかける。いらだった牛は地面を前足で蹴って、地響きあげる。赤マントを振りかざしてけしかけると、頭を地面すれすれに突進。すばやくかわす。そんなことを数回繰り返す中、反対側から馬に乗って槍で武装したのが出てくる。牛は馬の方にけしかけられると馬の腹に角を突き刺す。馬には厚い鎧が被されている。赤い布で目を覆われている馬は、角に押されたじろぎ転びそうになる。騎士は槍を肩口に突き刺す。傷められた牛は興奮している。しばらく騎士とのやりとりがあり、馬は下がる。牛を上手く扱い、槍の二回で仕留めているのもいれば、不慣れなのは4,5回刺してもだめで、角に突き上げられたりして転倒し、ヒヤリとする場面も幾度かあり、手に汗を握った。華麗に仕留めた騎手は貴賓席から何か褒美を授かっていた。死んだ牛は4頭の馬に引きずられていく。
日本人の家族連れの女性は見れずに退場していた。あまりの壮絶さで気持ち悪くなる。スペイン人のど根性を見せつけられる。
2場面から5番まで観て最後まで観ないで場外に出た。夜もすっかり深まり九時近かった。




【追記】
案の定というか、迎えのタクシーは依頼した時間には来なかった。今みたいに携帯電話などない。売店の老夫婦に事の次第を説明すると、「来るはずない」と言われ、駅まで送ってもらうことになった。父が助手席に乗ろうとすると、おじいさんは、「女性が前、おまえは後ろだ!」と。父は荷物の中に潜り込み、私は助手席へ。その床は抜け落ちていて、足を持ち上げて乗った。陽気なおじいさんだった。
闘牛のチケットはランクがいろいろあって、日陰と日向でも価格が異なった。よくわからないから価格が中位のものを求めたら、そこは日本人ツアー客に囲まれた席だった。
闘牛ショーは凄惨ではあったが、観客と「オーレ」と声を合わせ大声を出すのは快感でもあった。


今年の漢字

2024-12-14 21:51:01 | 学習教室バネ
日本漢字能力検定協会が主催する今年の漢字 「金」でしたね。

バネでは小中学生全員が今年の漢字応募しました。
「そういえば、先生、今年の漢字どうなりましたか?」
発表は12日ですよと伝える。
そして12日の夜、授業中、「先生、今年の漢字は何? 2時発表だったよね」
と発表の時間までチェックしているし。
「今日学校で今年の漢字なんだろうって言ってるの私だけでしたよ」
って、応募したから結果が気になるんだよね。

皆何を書いて応募したかコピー取らなかったから忘れてしまいましたが、確か「金」一人いましたね。「先生は何にしたの?」って、
それは「米」です。
今年は米が不作でした。
猛暑の影響でしょう。一緒に米作りしたバドミントン部と陸上部そして関係者、協力者への配分を苦慮したし、米余りだった日本が米不足になるなんてと、自分的には「米」が印象的でした。
農家の方も「こんなに少ないのは初めてだ」っていうくらいだったので、来年は品種変えることになるのかな?


小学生が書いたイソップ物語風ショートストーリー

2024-12-14 21:38:19 | パンセ
バネの作文教室「パンセ」での一コマ。

「北風と太陽」の話をして、この教訓は何だろうと問うと、
5年生男子が間髪をいれず、
「誉めて伸ばすでしょ」

では次は自分でもイソップ物語風に書いてみようということになった。
主人公は人間以外。そして人間社会への教訓が含まれること。
原稿用紙2枚で書くという宿題にした。

そして翌週提出した先の5年生男子の作文。
かいつまんで紹介すると。

三毛猫のミケがいつもの散歩コースを歩いていると、その途中でミケの大好きな白猫のシロちゃんと出会った。
「ネコといったら、やっぱ白色だよね」
と言われ、ミケは嫌われたくないので
「そうだよね。他の色とはしゃべりたくもないよ」

また歩いていると、ミケの先輩で黒い毛のクロちゃんと出会った。
クロちゃんは
「ネコと言ったら、やっぱ黒色だよね」
と言い、ミケは嫌われたくないから
「そうだね。他の色のネコは見たくないよ」

次の日もそこを通ったら、シロちゃんとクロちゃんが何かもめていた。
「ミケ!!」
「白色の毛は見たくないんだろ!」
「黒色の毛のネコとは話したくないんでしょ!」
「えーっと」
「嘘ついてたの!?」
「おまえは茶色のねことでも遊んでろ!」
「じゃーな」

タイトルは「それぞれの色」
この話を中学生に披露すると、「深い。すごい。天才!」

三毛猫だからシロ、クロ、チャというのも面白いね。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 11 プラド美術館、ゲルニカを観る

2024-12-14 10:36:02 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
11.1985年 9月21日(土)晴れ
疲れで朝8時頃まで二人とも寝入った。若者の遊び歩く喧噪が響く、賑やかな一夜であった。
朝のうち近くの北駅まで24日に発つ切符を買いに出た。その足で駅の近くのプラド美術館に行く。

14.5世紀からの作品が並び、ヴェラスケス、ゴヤ、グレコ、ブリューゲルなど。特にゴヤに激烈な印象を受けた。ピカソのゲルニカを見るために周辺を歩き回った。プラド美術館の裏に姉妹館があり、少し離れて21世紀美術館と呼ばれるものがあった。

ゲルニカを一室に一点のみ展示し、他の一室にはゲルニカのエスキースが多く展示された、二室で展示されている美術館である。実物を目の前でじっと見ることができた。
ゲルニカは灰色の階調が微妙に変化され美しい色彩のハーモニーが感じられた。カメラは禁止されていた。




プラド美術館前にて

疲れていたが、明日は日曜で店が戸締めのため、二人で買い物に出る。24日にはスペイン最南端に発つので汽車の中の分まで買い込んだ。
麻美は銭が不足したと言ってマドリード駅まで地下鉄で両替に走った。

夜はマヨール広場へ外食に出る。フラメンコを予定していたが、地図であたったりしたがなかなか見つからなかった。広場の向こう隅の通りに出たところにそれらしきところが見つかるが、腕に入れ墨をした男がたむろしていて、麻美は恐ろしがって入らなかった。後日ということにして宿に帰って10時過ぎに床につく。