バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

バネの作文教室「パンセ」から作文賞受賞

2024-12-04 10:02:31 | パンセ
バネでは小学生対象の作文教室「パンセ」(月曜 月3回)を開いている。
これはバネ始めた当初から授業の中で作文指導をするうち、作文の人気が高まり作文に特化したクラスを独立させたものだ。

作文の点数化はできないしい、テストもない。
それじゃ目標設定としてコンクールに応募すっか!となり、タイミング、テーマ、ボリューム等が合うコンテストを選ぶ。
その結果「朝日小学生新聞社児童文学賞小学生部門」に応募し、バネの5年生が「朝日小学生新聞賞」を受賞した。
先生も一緒に大人部門に応募しようかな?なんてつぶやていたのをしっかり拾っていた子に、「先生の作文はどうなったの?」とニヤリと聞かれた。私はその時結局書きかけのまま仕上げることができなかった。

それ以降、通常の授業コマに別途作文教室枠を作ることが難しくなり、作文教室は閉めてしまった。やはり学校のテストや入試に直結する授業を優先することになってしまった。

でもやっぱり学力は作文からだよね。
と一念発起し、再度「パンセ」クラスを始めることにした。
そのためには他のクラスを削り、通常クラスの入塾生枠を絞りしてキープした作文教室枠。
もしこれで誰も作文教室に来なかったとしても、このまま授業枠キープし続けようと募集案内をバネ生のみに告知したところ、数名がやってきた。

そうやって続けてきた2年目となる今年の夏。
「読売新聞小中学生作文コンクール」に応募した。
そしてそのうちの1点が県の優秀賞に選ばれた。

大抵は作文は苦手、作文書くの嫌い、と言う。
そんな子たちにあの手この手でテーマ探し書く練習繰り返していると、原稿用紙2枚くらいならスラスラ書くようになる。
今回のコンクールでは原稿用紙20枚を目標とした。
「ムリー!」と叫ぶ子たちと伴走していくうち、「これって、いいんじゃね」というものが書き上がった。

そして清書。
手書きだから大変だ。挿入や移動があると最初から書き直し。そんなことを何度かやりできあがった。
この時点で子供たちは大いなる達成感ですよ。

そして受賞となると弾みがついて、「来年は最優秀ねらいます」だって。すでに頭の中に構想があるらしい。

あの時書きかけになってしまった私の作文(小説)の続きを書こうと思う、とつい子供たちに言ってしまった。また「先生の作文はどうなったの?」と聞かれてしまう日がまたやってくるのか?


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 9 バルセロナ1日目

2024-12-02 10:13:42 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
9.1985年 9月19日(木) 晴れ

宿は街の中心地で良いところに案内されていた。今日行く予定のピカソ美術館やガウディの塔が近くで良かった。

朝のうちに麻美は明日のマドリードの宿探しにバルセロナ駅へ地下鉄(30分)を使って電話しに行く。
ピカソ美術館へは10時に行くことにして、麻美が帰ってくる間コンテで窓越しの通りをスケッチした。


バルセロナホテル窓より

ピカソ美術館の道はわかりにくかった。道を行く人何人にも聞いた。美術館は細い奥まった暗い通りにあった。館内の写真は禁じられていたので、帰り際入り口のところでカメラに収めた。


ピカソ美術館入り口

ピカソ美術館入り口

作品では初期のものに興味があった。小品でも色がしっかりついて色面のしっかりしているところが、後の抽象画の仕事への動きとなっているように思った。絵はがきは今までに見ていないものを購入するようにした。
歩く道すがら、麻美が観音様(北向観音)で買ってバックに付けていたお守りを落としたと言うので、不安な気持ちになる。宿に帰ったらはずれてバックの中に落ちていたので不安感がぬぐわれた。

午後はバスでガウディの聖家族教会へ行く。らせん状階段530段を上った。
異様な雰囲気を持つ塔で、400年かけて建ち現在まだ建築中であと200年はかかるという。バルセロナの街、その奥に広がる地中海が一望できる。塔の300段目のところは横の棟への通路になっていて、足を踏み外すと危ない。麻美と互いに写真を取り合った。



聖家族教会前広場で午後の開館を待つ


塔を渡る通路


やっと渡った通路



地上に降り塔の前の広場でもう一度眺めた。一人旅の日本の青年に会った。元気で旅するように声を掛けると喜んでいた。その後は動物園にも足を運んだ。世界に一頭しか生存しないという突然変異の白ゴリラに麻美が興味を示していたからだ。動物園入り口で子どもたちが勝手にカメラを向けて撮る。帰りに覚えていてしつこく写真を買えと言って後をつけられて気味悪い。
スイスは気温15度前後で寒かったが、ここでは昼間はTシャツで過ごし、夜になっても20度くらいに感じる

夜の外食は20分近く歩き有名なランブラス通りまでやっとのことたどり着く。広場のレストラン野外テーブルの雰囲気を楽しむ。パエリヤを食べて美味かった。日本の米と違い扁平でパサつく。
食べるもの、買うもの、乗り物すべて麻美が払うのでわからないが、日本に比較すると比べものにならないくらい安いらしい。
ホテル代も食事代も安い。飲料水もまちまちでサイダー瓶が駅では200円、裏通りの食品店では100円もしていない。


パエリアは美味かった


追記:聖家族教会は昼休み3時間もあり、午後の開館を広場で午後3時まで待った。昼休みの長さに辟易。塔にはエレベーターがあり普通観光客はそれを使うが、エレベーター入り口が混雑していたこともあり階段で上ることにした。最初は広い螺旋階段だが、上るにつれ狭くなる。石段の高さがまちまちなので規則正しく足を運べない。そのうち上から降りてくる人とすれ違うのに苦労するほど狭くなる。左肩(右肩かもしれない。回転方向は失念)を塔の中心に付けてモクモクと上ると300段あたりで隣の塔への渡り通路に出た。石を積み重ねたでこぼこした通路を風が吹き抜ける。渡り抜けるのが怖くてキャーキャー言いながら渡った。次の塔の螺旋階段は先ほどと回転方向が逆になり、体のバランスがとりにくい。いよいよ上から降りてくる人とはすれ違えず、体をぴったり壁に付けて通り過ぎるのを待つようにしなければならないほど狭くなった。降りてくる人から、「あと1000段あるよー」などと言われ、「えー!」って返しながら上る。
上りきると石段に530段と記されていた。当然、帰りはすれ違うたびに「あと1000段あるよ」「えー!」って他の挑戦者との会話を楽しみながら降りた。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 8 バルセロナに夜到着する

2024-11-30 14:46:43 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
8.1985年 9月18日(火)晴れ

今日はスペイン行きの列車に乗る。
発車が午前11時半ゆえに、10時までローヌ川に立つ水上レストランの風景を描く。
こちらに来て油は初めて。(F3号)印象派風の絵になったかも。
「ジュネーブ湖からローヌ川源流の地」


ジュネーブホテル部屋の窓より(油絵 F3)

スペインバルセロナ行きに乗る。(カタランタルゴ)

フランスの入国手続きは簡単だった。名に聞く新幹線室内は絨毯で豪華である。途中フランスを経由したのでフラン入国手続きをしたが、いとも簡単であった。食堂車で食事を取る。ここでは大分おごって、一人4000円である。
一等車内を意識した麻美は食事マナーについてやたらやかましいことを言う。


カタランタルゴの食堂車

途中アヴィニオン、アルルを通過した。帰りに降りる駅である。

スペイン国境のポルトブーという名の駅では、スペイン警察の厳しい検問にあった。こちら二人には当たりは柔らかかった。赤のパスポートをちょっと見せるだけで軽くパスするが、日本から来た関西なまり商社風の男3人と後ろの席のスペインジプシーの女に目を付けていたと見え、乗り込んでくるや問いもせず、網棚の荷を勝手に引き下ろして中身を調べ回った。何も異常はなかったが、殺気じみた雰囲気であった。

車窓から見るフランス国境からバルセロナまでの風景が素晴らしく、乾いた広陵として、黄赤褐色の地に白い集落が点々と目に入る。列車の窓が汚れていて写真に撮れなかった。


スペイン国境の小さな村(色紙)

スペイン国境の小さな村 (No.1068 コンテ 四つ切り)

バルセロナには夜の9時半に着いた。延々と10時間だ。夜だったので宿探しで苦労する。電話で30分探し、予約したホテルに向かうと、タクシー運転手はもっと安いところ知っていると言い不安があったが言われるままに動いた。いちいちと聞き返したいのだが言葉が通じなかったのでどこに連れて行かれるのか不安だった。

着いたところはずいぶん駅から離れたところに来たと思ったが、すぐ近くにも大きな駅があり、その前の宿であった。星は一つだがバストイレが付いていた。同じような宿泊客でうごめいた感じであった。通りに面した賑やかなところで1階はレストランで便利である。50半ば過ぎの肉太りの親父が一人で中やテラスの客15.6人をこなしていた。
名物のサングリアを飲んで満腹となり、12時に就寝する。夜半でも部屋がうるさい。
 

追記:タクシー運転手に連れて行かれたのは、ターミナル駅前のチェックイン時前払いの安宿。パスポート預けるように言われたような記憶がある。若い旅行者が多く、活気があり、わさわさしていた。1階のレストランバーでサングリアを注文すると、金魚鉢ほどの大きさの容器にドリンク、フルーツなど次々と何かが投げ込まれる。店主は鼻歌で嬉しそうに。店内の陽気なスペイン人の注目がどんどん集まってきた。ドンと目の前に置かれた金魚鉢サングリアは見た目と異なりアルコールが強く、私はグラス1杯も飲めずクラクラしてきて部屋に退散した。その後父一人でどうしたのか翌朝聞くと、一人で飲んだのだと言う。注目しているおじさん達に振る舞えば良かっただろうにと悔やまれた。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 7 ジュネーブで1泊する

2024-11-21 15:03:56 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
7.1985年 9月17日(火)晴れ
 睡眠不足で頭がボーッとしていた。
麻美の具合は大分収まったが、食事は口を通らない。
麻美にしてみると今度の旅のメインであるアルプス行きを懸念する。
昨夜の不吉な夢の話をすると断念した方が良いということで、惜しくもアルプス登頂をとりやめ下山する。

よく晴れ渡った空に山が立ち並んでそれを見る麻美であった。
途中までは昨日の路線を戻りさらに西に向かって、ベルン経由でジュネーブに着く。
麻美は汽車の中でキャラメルと果物(キウイ)を食べたら急に元気を回復し、本当に良かったと思う。
もしここで病んだものならどうしようものか。








惜しい気持ちで見つめるユングフラウヨッホ


ベルンからジュネーブ行きの列車の中のじいさん


ベルンからジュネーブ行きの一等列車内

ジュネーブの街は国際会議を持つ都市だけのことはあって活気に満ちている、日本のツアーも目立ち始め、日本人向けの店もあり、日本語の広告が目に入った。
時計店がやたらに目についた。
電気製品のほとんどが日本製品であるのには驚く。
乾物屋で日本の品のみを扱う店もあった。
駅のインフォメーションで見つけた宿は歩いて15分のところで、ロマン湖から出るローヌ川河岸通りに面したところだった。


ジュネーブホテル外観


ジュネーブホテル部屋のドア

乗り合わせたロマン湖畔遊覧船は湖畔の一部を遊覧するもので一時間ほどであった。
南湖岸には岡先生(岡鹿之助氏は父の師匠)の描いた建物が森の中に静かに佇んでいた。


ホテル部屋の窓から 湖面に浮かぶのはレストラン

ジュネーブホテル部屋の窓から


遊覧船

遊覧船 気持ちよかった

【追記】
ジュネーブに着き、湖畔の屋台でオレンジを買い食べた私は、果汁が体全体に染み入り急速に元気に取り戻すことができた。その後遊覧船に乗り、湖面の輝きと陽を浴びた時は、本当に気持ちよかった。



献立セットに右往左往

2024-11-21 10:07:23 | ライフスタイル
ネット広告で流れてきた、2人分5日間献立お試しセットに申し込んだ。
食材到着2日前メールが。
画像付きで。
冷蔵庫のこのスペース空けておくようにと。

なに? そんなに空けるのか!
というわけで賞味期限切れていたり、まだ食べれそう等と食べないだろうけど作り置きしておいたものを月曜の朝潔く廃棄し、冷蔵庫3段すっからかんにして宅配到着を待機。

すると、なんてことはない。
それらは野菜庫1/4とチルドルーム半分程度で収まったではないか。
これで5日分の食材? が第一印象。足りるのだろうか。
大急ぎで冷蔵庫収納してから、添付説明よく読むと、今回届いた食材に到着日書いてシール貼るようにと。
あわてて再度全部出して、シール貼る。
これにより、すでに冷蔵庫にあった食材と間違うことがない、なんてかゆいところに手が届くしかけができていた。

メインと副食の計3品が30分でできるという。
調味料は自前ということで、レシピ読むと「ケチャップ」
え? ケチャップー!
ケチャップなんて日頃使わない。だから1本買えば1年はなくならない。多分、今ない。あわてて夫にケチャップのみ購入を頼む。

バネ終了後の20:30から作り始める。
初めて作るメニューばかりで、レシピ読みながら、冷蔵庫行ったり来たりしながら悪戦苦闘。
ニラ1/4、三つ葉1/3だの、パプリカ1/4だのと使用量が指定されている。取り出した食材の必要量を準備し残りをパッキングし直し冷蔵庫に戻すのに手間がかかる。

これって、いつもなら1袋買えば一度に使っちゃうよね。取り置きすると次使わなかったりするから、全部一度にざっと洗って、ザクザク切ってた。
ということで、今までどんだけうちでは食材使い過ぎていたのか、食べ過ぎていたのかということを知るのである。

なかには聞いたことない食材があった。
「カブッコリー」
見た目はカボチャだから多分ブロッコリーとカボチャのミックスなんでしょう。生食できるらしい。
うちのブランは純粋なるミックス犬。母はミックス、父不明。で、山羊にもキツネも似ているからブランはさしずめドッグ、山羊、フォックスのミックスで「ドヤックスか!?」なんて肩揺らしながらカボッコリーを切る。

夫が「どうせ俺は半端な仕事だけなんだろ」と言いながら手作りエプロンつけてコンロの前に立つので、焼き物担当してもらう。
こちらはレシピ通りに時間きっちり計り、フライパンの前でじっと待っている。

その間次のメニューへ順番通りに進める。
調味料はケチャップに酢に、砂糖、マヨネーズ等等。
そして次のメニュー。また酢。そして次。またケチャップ。
ケチャップと酢の登場回数多くね?って感じで25分で完成!

盛り付けると、オーって感じ。普段食べないメニュー。こういう味付け家で出せるんだと驚き。全国のこだわり食材お取り寄せと書いてあるからなのか、心なしか食材の味がいい。
来週から3日分にして注文する? と夫と話し合う。

2日目は事前に野菜をカットしタッパーに用意し、20:35からスタート。この日は事前準備もあったことから一人でやっても20分。しかも、冷蔵庫で以前からあった食材活用せねばと、オリジナル追加レシピ2品つけた。

バネの小学生が暗算タイムレースで高得点はじき出し、椅子に立ち上がり「ドンダケー」って風邪引いてハスキーな声張り上げ指振っていた。そう、あの姿を今再現したい。20分で完成、ドンダケーって。
一人分をプレートに載せ食卓に置くと、夫が「スゲー、定食屋みたい」って。

3日目。今日のメインはエビか。
エビ、夫食べられない。何かわかりになる食材をと思い久しぶりにスーパーに行く。
エビの代わりになるものの他、度々登場する調味料で切れそうな酢、なくなりそうなオリーブオイルとマヨネーズ買うために行ったのに、ついでにブランのおやつ、おいしそうなコーヒー等等ついつい買ってしまい、何じゃこの金額!ってびっくりするほどで決済。

さて3日目の調理は、やはりまたケチャップと酢か。なんだかこの味付けうんざり。たまにはあっさり生野菜にポン酢、冷や奴におかかにポン酢なんてメニューがいい、と思い始めた。が、レシピ通り作る。
こんなんで足りるの?と思った料理が、3日目は食べ残してしまった。
味付けに飽きたというのもあるし、意外にも量が多い。
しかも、指示の細かすぎるレシピにうんざりしながら、使ったことのない計量スプーン使ってみたりして作ったせいか、二人でやったのに30分きっちりかかった。
さらに、さらには、いつもなら作りながら調理器具等洗ってしまうからできあがり時にはキッチンがすっきりしているのに、そんな余裕なく作るから食後のシンクが大変なことになっている。油モノの使用量多いから、汚れ物も半端なく、片付けにうんざり。

こういうの、だめた。
まずなんでもレースになってしまう自分に向かない。
30分でできるという文言がいけない。
30分でできないと駄目だし、だったらそれより早く作ってやる!ってタイムレースになってしまうのがいけない。
そして、できあがりまでの工程が頭に入っていないので、同時進行3品くらできることだって一々レシピ読みながら一つずつ進めるから効率的でない。
普段だって15分程度あればとんかつ、付け合わせ、副食2品、味噌汁くらいできるじゃないですか。

あー、疲れた。残り二日はテキトーにやろう。
そういえば、レシピ用紙の端にセンチメモリが印字されていた。なにこれ?って思ったけど、どうやら野菜カット長さのメモリに使うらしい。
日頃調味料計量したり時間計ることもなくカンでやっているものにとっては全く不要です。
ということは、この商品は料理初心者向けだったのかな。
夫が「若い人の味付けだな」と。
これにて定期購入しないことが決定です。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 6 ユングフラウヨッホを目指す

2024-11-16 08:29:27 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
6.1985年 9月16日(月) 小雨
宿を出る時小雨で肌寒くブルッた。
明日はアルプスに登るので、途中のウエンゲンという谷間の街まで行くことになる。

ルチェルン駅

電車は乗り換えごとに小型になり、アプト式で急坂を登る。雲の合間から手に取るようにアルプスの連山が雪をスッポリかぶる姿が見え隠れする。
高原の駅ウエンゲンに到着。
駅の看板の案内でホテルを見つけ、電話で依頼する。
ホテルから(迎えの)電動リヤカーが来て、それに乗せられて山間の木造のホテルに運ばれた。

ウエンゲン駅

ウエンゲンのホテル



夕食後麻美が胃の異常を訴える。
胃炎らしい。
機内の食事から昨日にかけて食べるらしく食べていない。
出発前会社の仕事が多忙で胃の調子を崩していたという。
苦しむが医者もない。
胃薬を飲ませ、背中をさすってやる。
そのほか施す術がなし。
不安がのしかかる。
病気保険に入っておくべきと痛切に感じる。


麻美は多少収まって眠った様子。麻美が動けなくなった時のことを考えると眠れない。一時間おきに目を覚ます。
朝になって麻美の様子は昨夜より大分良い様子だが一向に食事は口を通っていない。


ウエンゲンの町並み


【追記】
ルチェルンの街は花祭りだった。小雨が降っていたこともあり13度で肌寒い。
日本を発ったときは残暑。いきなり寒く手がかじかんだ。
雨がそぼ降る湖畔で、父はいきなりスケッチを始めた。
その後、登山鉄度でユングフラウヨッホを目指した。
持参した衣類をすべて重ね着した。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行5 スイス、ルチェルンで1泊

2024-11-09 15:03:50 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
5.1985年9月15日(日) 天気曇り ルチェルンにて

空港を出るとこれからの行動のため麻美は次々に駆け廻って手続きをとる。
ドイツ語標示で苦しむ。
言葉はフランス語で通じるのでことはスムースに運ぶ。
ここでも荷物の番であった。

列車に乗り込みある街に行くことになる。
麻美に聞いたが疲れていたのですぐに忘れてしまう。
ユーレイルパス券の初使いである。
駅には、日本のような切符切りもなければ改札もない。
ゆったりとした車掌がユーモアのある態度で検札にきた。



列車は湖水のほとりに沿って突き走る。
風景はスイスだけのことあって、信州の風景に似たところがあるけれど、民家が漫画的なところが違う。
飛行機を降りたときは日本人はたくさんいたが、どこにその姿を消したか、ちりぢりに散り、どこにも見当たらなかった。不思議に思った。

日曜で観光案内所が開いていいないため、自力で今晩の宿探しが始まる。
目星を付けておいたので、早く見つかるが13キロの荷物を背負って30分は歩く。
夜から雨が降り出し、肌寒い。日曜とあって店は閉じている。歩き回ってファミリーレストラン的なところを見つけた。飛行機の疲れで早めに寝る。


【追記】
まず1泊目はスイスのルチェルン
私は20代だったこともあり時差ぼけはなかった。(今は無理だと思う)
スイスに着いたのが朝だから、その日はスイス時間の夜になるまで頑張って起きていて、夜ぐっすり眠れば翌日から普通に動けると思っていた。当時54歳の父にも同じようにしてもらった。
今にして思えば、父は時差ぼけは大丈夫だったのだろうか。
かなり無理したのではないだろうか。
ルチェルンの街で立ったままスケッチしたこの絵は、いずこに?

【下の3点は、このブログアップ後に発見したスケッチ画です。】
ルチェルン湖畔でのスケッチ
雨の中描いている




高台のホテル前の坂道より

※この旅行記作成しながら、実家倉庫からいくつものスケッチブック発見。そこにはスケッチや日記が書き込まれていました。
そのうちの一つが雨のルチェルン湖畔で立ったまま描いているこのスケッチブック。
このときのスケッチをはじめとして、いくつかのスケッチを追加します。


今日は漢字検定

2024-11-08 16:44:19 | バネ
今日は秋の漢字検定の日。
11月最終日程に設定したのは、皆学習時間が足りないと感じたから。

バネでは検定2ヶ月前から対策学習を始める。
受験級が決まったら、まず1回過去問で今の得点力をチェックする。
その際、すでに余裕の人には、一つ上の級に挑戦する、もしくはダブル受験を勧める。
今回も一つ上の級にチャレンジする人が一人いた。

模擬テストはこの後数回やる。
最初は2ヶ月前
十分学習した頃を見計らって2回目は1ヶ月前。
その後は間隔を詰めて2週間、1週間、3日おき、連日と異なる過去問で得点力をチェックする。

大抵最初は合格ラインに達していなくとも、徐々に点数上がり、最終的には160点程度とれるようになることが多い。
200点満点140点以上で合格で、初回80点台でも合格することもある。
しかし60点台の場合は、2ヶ月の学習では合格可能性低く、次の機会を進めることにしている。
さて、今回はいかに。

以前協会から、「いつも合格率高いけれどどのような学習していますか?」の問い合わせがあった。
子供たちには、それくらいバネではほとんど合格すると伝えている。

なのに、なのに。

今回は、厳しい。
点数がなかなか上がらない。

過去問で実力チェックする。
不正解をやり直し、満点取れるように練習した上で後日再度同じ問題を解く。
そしてしばらくは弱点を中心にテキストで学習したうえで、次の過去問にチャレンジし、得点力をチェックする。

この流れでいけばいいのに。

先日過去問チェックで128点。
「もう1回お願いします」
しばらく復習して同じ問題出すよと言ったら、
「違う問題で!」

それじゃ練習しないで、試合ばっかりやりたがるのと同じでしょ。
試合だけやってうまくなる場合もあるけど、普通はしっかりトレーニングしたら弱点はノック練習したり、フットワークみっちりやるでしょう、と言うと。

「わたし、練習してますよ。ノック一杯やりますよ」
って、例え話の意味通じていない。
実体験を通じてわかりやすく説明するために部活ネタにもちこんだのに、逆に通じにくかったのか。
小学生はこういうことが多い。例え話にむきになるから例えのチョイスは気をつけなければいけない。
しかしこれは中学生。
自分はいかにフットワークや基礎練習みっちりやっているかを執拗に語り、らちあかないのでそのままスルーしていると、さっきの間違えた問題繰り返し解いていた。

さて、このようなお子様も含め、本日の漢字検定の結果やいかに。



父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 4 日本出発

2024-11-08 11:17:08 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
4.1985年9月14日(土)
麻美のは12キロ、おれが13キロのリュックを背に、玄関先で写真を撮り午前九時に下宿を発つ。(成田発PM一時半で2時間前に空港に入るため)




成田の空港では、空港拡張反対派の動きを制するために検査が重なってずいぶん時間がとられた。
麻美の肩がけバックは金属類が多く入っていたので検査にひっかかった。

麻美は手際よく小早に動き廻る。おれには荷物の番がせいぜいだった。
飛行機は韓国機で定時の13時30分に発った。
ジェット機内が珍しいのできょろついていて麻美に注意を受ける。
夏休みが終わっているので学生の姿はなく、社用族、それに科学万博帰りの韓国の人の姿が目に付く。

ソウルで3時間停まる。

ソウルを発つと日もとっぷり落ちサウジアラビヤのバーレンに向かう。気流が荒れ、夜中揺れて眠れなかった。
バーレンでは一時停泊で、麻美は二度来られるところでないからと言って、飾り品を買い込んだ。


今も拙宅リビングアクセントとなっている、バーレンの飾り物


バーレンの後はダッカに降りる。ここは警戒が厳しく機内で一時間缶詰にされた。酒・たばこが禁じられた。
(英語やらいくつかの言語の機内アナウンスの後、最後に日本語で「お酒飲まさせませ~ん、たばこ吸わさせませ~ん」と流れた。)

スイスのチューリッヒには翌15日の朝8時に着く。(日本時間15日午後3時)
成田を発って27時間。
機内での食事は飛行場を発つたびに出るので5回などと寝てる間がなかった。麻美は機内で酔って、酔い止め薬を服用して良くなった。
出る食事にはほとんど手つかずで、心配でもあった。

席はやや後方よりの中央4列の中。一番右席にヨーロッパの日本人学校にいて夏休みで日本からの帰りだという高校2年の女の子。その隣がおれ。となりに麻美。一番左は外交でヨーロッパに行かれるという40代の男性。

ソウル空港を発つとき買い込んだマイルドセブン(税抜き200本1200円)を席で吸ったが、途中禁煙を注意されてからは後ろへ立って吸った。

夜通しの飛行で外の風景は眺められなかったが、チューリッピに着くときには日の出の時刻。
上空からの眺めは見事であった。アルプスの山肌に浴びる太陽の光に映え、なんとも素晴らしい現象。

空港を出るときのチェックは簡単だった。
パスポートを見せると60歳くらいの老係官に「ゴクロウサン」と笑顔で言われちょっと面食らう。
一方心和む思いをする。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 3 出発前日

2024-11-07 14:50:44 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年9月13日(金)晴れ
出発前日

明日14日はヨーロッパ旅行で成田を発つため、麻美の下宿に今晩は泊まるようになり、特急2時36分上田発に乗る。
麻美はいろいろ手続きがあると言って、すでに午前中に帰っていた。

塩田の田んぼの稲は黄ばみ、車中からの浅間山が心に残った。

出発すると今まで気持ちの中に堆積していた不安感のようなものが一掃。天気が良いので一層のことだ。

No.865 「追分浅間」F8 379×459㎜


東武東上線車内アナウンス

2024-11-04 20:27:12 | 旅行
先日ギャラリー輝の取材を受けるために、金曜に日帰りした。
午後早い時間で取材を終え、帰路は別所線に乗り上田駅を目指した。
兄は上田駅まで送る風な様子だったけど、いつもガラガラ電車でなので少しは貢献しようと思うのと、色々考えていたことを車内でゆっくりまとめようと思ったからあえて電車を選んだ。








案の定ガラガラ。
しかし途中からそこそこに乗車があった。
下之郷からも何人か乗り、隣に座った。
しばらくすると隣の少年が電車のアナウンスを始めた。
リュックにキャップ姿なので少年かと思いきや、チラ見すると少年と言うより、青年でもなくもう少し歳いった人だった。

でもここでは青年ということで。
その青年のアナウンスはまるで本物そっくり。
イントネーションもリズムも。
さらに英語バージョンも入り、さらにさらに乗客への注意事項も織り込まれる。英語なんかメチャ発音いい。

別所線車内の肉声アナウンスや声優バージョンの録音アナウンスとの三重奏になったりもした。

青年のアナウンスは東武東上線のものだった。
各駅停車の上り線。それとなく流して聞いていると、「大宮・春日部方面の方はお乗り換えです」と言った。
えっ? 東上線から東武野田線ってつながってた?
聞き間違いかな? ちょっとお兄さんと呼び止めて確認したいと思うが、そういうことはできず、流して聞いていると、朝霞台まで来た。
「武蔵野線の方はお乗り換えです」
そうそう、ここで武蔵野線乗り換えたことある。あの頃昼の時間帯は1本逃したら2時間なかった。

以前住んでいたのは下赤塚。
成増まで来たからあと一歩、というところで別所線は上田に着いたので東上線アナウンスはこれにて終了。

今度ゆっくり東上線乗ってみよう。



父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行「準備」

2024-10-30 16:51:55 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
2.出発準備

今のようにインターネットで旅の情報が収集できる時代ではない。
どうやって行程を決め、チケットを取ったかはとんと記憶にないが、無我夢中で計画を立てたあの時の気分は覚えている。

希望する行き先、パスポート準備、旅の支度について話し合うために数回長野に帰省した。
父は行きたい気持ちは強いものの、どこに行きたいは具体的にはなく、「任せる」の一言。
ただ、観光ではなく絵を描くのが目的であるということだけははっきりしていた。

では、いつでもどこでもスケッチができるように、スケッチ用具一式を入れる布製バッグを自作した。
どんな画材を持ち歩くのか確認しサイズを決め、身長に合わせて紐を付けた。服装に合うようにと黄土色のキルティングの布とグレーの紐。
帰省準備の合間に縫うのだから時間はない。ざっくり確認後いきなり布にハサミを入れるのを見た父は、「すげえな」と言い残し、アトリエに戻った。
この時の父の言葉はずっと私の勲章となっている。
(その後スケッチ旅行にはいつもこのバッグを持参していた。バッグには旅の記録が記載されている。)
父娘の旅行きっかけとなった私の一人旅はバックパックのケチケチ貧乏旅行。これがベースになっているのだから、最初からスーツケースでの旅をイメージしていない。スーツケースを転がし、日本から星がいくつか付くホテルを予約する旅では、本当の旅ではないなどと粋がっていたのだから、今回の父娘旅もバックパックの行き当たり旅。
今にして思えば54歳になる父はどう思っていたのだろう。手作り貧乏旅行に少し自慢気味だったように思える。

そうこうして大きなリュックを背負い、スケッチバックを斜めがけした50代半ばになる男の旅支度が完成したのである。

さて、ここからは父本人の日記が残っている。
スケッチブックにびっしりと書き込まれている。
これをベースに旅の話を進めよう。




家電特訓修理法

2024-10-28 11:51:44 | ライフスタイル
家電は壊れると学習したのはいつのことだったか。
昭和生まれの私は,家電はめったに壊れないという印象を持っていたが、寿命があると知ったのはいつのことだったか。

洗濯機は使用頻度によって異なるが、「10年もてば随分頑張った方ですよ」などと家電量販店の人に言われ,買い換え、エアコン、冷蔵庫などと立て続けに買い換えた。
このエアコンついこの間買ったばかりじゃんと思い保証書探すと,意外にも10年経っていたりして。
だから家中の家電に購入日と購入店舗書いたシールを貼り付けた。

その時、買ったばかりの調子がいいコードレスクリーナーにシール貼り忘れていた。

コードレス掃除機は超便利。特に机や椅子が多い教室掃除には重宝する。
ということでジャパネットでダイソンの掃除機買った。
これが問題もので,すぐ故障。ジャパネットに言わず,直接ダイソンに言うと故障部パーツが交換で届いた。そしてまたすぐ壊れた。
すると次は交換部品到着に時間がかかるということで,代わりにと最新機種が届いた。
その後は問題なく動き続ける。
しかし,吸引力がいまいちでペットの毛は吹き上げるだけのことが多いので,次は自宅用に別メーカーのコードレス掃除機をネットで買った。

その掃除機が壊れた。
ゴミカップ洗って乾燥し、さて使おうと思うと。
電源入る。吸い込む。しかしゴミを感知すると赤ランプがつくはずが終始グリーンのままでおかしいなとは思った。そして一通りリビング掃除し終えてゴミ確認すると。
全く入っていない。犬の毛1本、ほこりのひとかけらも入っていない。

取説確認し全て対策するも,全くゴミ吸わない。
購入日確認すると調度1年半前。

メーカーに問い合わせると,「故障ですね」
延長保証つけていないので有償修理、概算18000円(送料込み)になるとのこと。

本体とスタンド式充電セット価格とほぼ同じじゃん。
納得いかないが、「高い消耗品ですね」と一言嫌み言い,修理断り電話を切った。

スイッチは入る。本体のモーターは動く。
納得いかないから廃棄前に分解してやろうと思う。
どうせ捨てるんだからテキトーに分解してみよう。
と思うものの、捨てるには未練があり、どうせ捨てるんだから、だったら
本体をバシバシ叩いてみた。
昭和生まれは家電は叩けば直ると学習しているのですよ。

そして、ホースもゴミカップも外し、本体吸い込み口に手のひらを押しつけて吸わせてみた。
ぐいぐい手のひら吸う。
吸引力もしっかりしている。
ん? 途中でモーター音が変わった? 吸い込み強くなった?
手のひらがへこむ。

再度ゴミカップとホースす装着し、スイッチ入れると。

赤ランプついた。
絨毯のゴミ、ジャンジャン吸う。
どっさりゴミ溜まる。

かくして何もなかったかのように毎日働いている。

モーターに負荷かけたのが良かったのかもしれない。


こうして、「父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行」は始まった

2024-10-26 15:19:19 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記

1.こうして、「父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行」は始まった

父は53歳で教員を退職した。
これから自然の光の下で絵が描けると喜んだ。
当時私は東京で就職し、埼玉のアパートに一人暮らししていたので退職後の父の様子は後に兄から聞いたのだが。
私は学生時代フランス語をかじったので、武者修行のつもりで卒業旅行にフランスに一人旅した。
帰国後土産話を待ち構えていた父に、「今度通訳で連れて行ってあげるよ」などと大口をたたいたのがいけなかった。
その時何のリアクションもなかったが、父の中ではフランス行きは確定していたらしい。

父の退職後2ヶ月が過ぎた時、6月に突然父から電話がかかってきた。
どこの親子もそうだと思うが、父と年頃の娘が面と向かって話すことはめったにない。たいていは母親が通訳のように間に入り、必要なことは母の口から伝えられるものだ。ましてや電話で直接話すなどそれまで皆無だったと思う。
仕事から帰るとアパートの電話が鳴った。電話口は父だった。意外な人からの電話であった。

開口一番、
「おい、いつ行くだ」

いつになったらフランスに行くのだというのだった。
全く寝耳に水。就職して2年目。いろいろ任され始めた時のことである。すぐ行けるはずがない。
私はなんと答えたのだろう。
なにかフランス行きに否定的な言葉を言ったと思う。仕事の問題もあるが、父と二人だけの旅なんてあり得ないととっさに思った。
私の返答に対する父の憤りはストレートだった。「なんだ、あれは嘘だったか」などと言われた。電話口から伝わる父の憤りに対し、あわてて「すぐには無理だけど、秋頃に行けるように計画するから」などと言い直した。
秋に行くなんて。実現の根拠は全くない。しかし先延ばししてはいけないと思わせる何かがあった。
電話だから父の様子はわからなかったが、私の一言を信じ切った父は、「待ってる」と言い電話を切った。

これが私と父とのヨーロッパスケッチ旅行の始まりである。
受話器を置いたその日から3ヶ月後、二人でヨーロッパに向かった。

1985年9月のことである。
父は旅の日記を克明に残している。それによると9月14日から10月11日、27日間の旅であった。父は旅の写真を撮る代わりにスケッチを描いたり油絵を描いた。帰国後もヨーロッパ旅の作品を多数制作している。
私の記憶が拾えるうちに、父のスケッチや油絵を交えながら「父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行」なる記録文を書き残そうと思う。

そして全体がまとまったら、ギャラリー輝で作品とエッセイを展示してみたい。



輝クロニクル第2期展 始まります

2024-10-24 10:46:28 | ギャラリー輝
【企画展】輝クロニクル第2期展

2024年10月26日(土)~12月22日(日) ※開館は期間中の土日 
10:00~16:00

企画展準備、何とかここまでできました。
準備中,長く閉館していましたが、いよいよ週末から開館です。
作家が挑んだ制作のなかでも,特に代表作を多く残した13年間を紹介します。
上田、別所温泉にお越しの際は是非お立ち寄りください。




池田輝の画業50年を紐解くと3つのステージに分けられます

第1期 初期から春陽会準会員となるまで( ~1971年39歳)
第2期 春陽会準会員後から教員を退職するまで(1972年40歳~1984年53歳)
第3期 教員退職後から画業を閉じるまで(1985年54歳~2005年74歳)

今回の展示は第2期です。第1期展では春陽会準会員推挙までを展示しました。
 第2期展は準会員となった39歳から3年後42歳で会員となり、51歳で春陽会記念展賞を受賞し、53歳で教職を退くまでの13年間を紹介いたします。

「いったん会員となったらはずされることはないのだが、だからこそ素晴らしい絵を描かなくてはならない」と、また、出展が近づくと徹夜を続ける自分を「毎年受験生のようだ」と語っていました。輝独特の赤が表現され、作家の画風として定着したのはこの時期です。しかしその後自らの作風を破り、油絵では難しいとされる黒を中心色とした作品に挑戦しました。絵と戦い挑戦し続けた躍動の13年間です。雑誌表紙を飾り、賞を受賞するなど代表作が多いのもこの期間です。作家の挑戦を語る代表作のいくつかは他館所蔵ゆえギャラリー輝での展示はかないませんが、紙面やWEBでは画像で紹介いたします。二階小ホールにて第2期13年間の小品を展示しています。(一部制作年不詳故、同時期作品と推測されるものが含まれます。)


第2期のキーワードは『挑戦』


作家の画風が定着した後、
わざわざ作風を破る挑戦 赤から黒へ


 自由に描いてきた第1期を経て,2期では春陽会会員を目指し、そして作風の定着へと向かう。輝のフレンチバーミリオンやカーマインレッドの赤を基調とする人物シリーズが完成したのは第2期初まりの頃である。当初からの「ピエロ」を通じた人間の哀感を表現しつつも、躍動する人物像ではなく,正面を見据えどっしりと構える人物シリーズへと変遷した。その後、40代後半に定着を破ると言い、黒を基調とした画面構成に挑戦した。50歳になるというのに挑戦するのはたいしたものだと仲間は賞賛したが、輝は賞賛を目的として作風を破ったのではない。春陽会会員となった時(42歳)はこれからが大変だと自分に追い打ちをかけ、作風が定着した後はわざわざ作風を破った。挑戦をやめない作家が描く人物の目は鋭い。作品と正対すると「おいはそれでいいだか」と常に心をのぞき込んでくる。いつもこの作品をまっすぐ見返すことのできる自分でありたいと思わせる。