バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

父と娘のヨーロッパ貧乏旅行記 18 バルセロナの駅で野宿する危機一髪の夜

2025-02-07 11:57:21 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
18 1985年9月28日(土)

麻美に起こされる。

7:10発のバルセロナ行きの列車に乗る。この列車は今までで一番良い。6人の仕切られた部屋で片側は通路である。椅子を引き出すとベッドにもなった。音楽や照明の装置もあった。乗客の階級も良い。コンピューターの打ち違いで,席がかぶることが二度あり、車掌とのやりとりで車内がうるさい。

こっちの服装は二等車風であったので切符を切るまでは同室の人たちも変な顔をしていた。パスを見て,やれやれという様子だった。

スペインの汽車は時間がルーズなことを聞いていいたが、これのルーズさには肝を潰した。バルセロナが近くなった陽も西に傾いた頃、列車は遅れだす。あと1時間で終着のバルセロナに着こうとする時突然駅での停車が30分以上。車内放送もない。スピードも今までの半分に落ちる。バルセロナには2時間30分遅れで、夜中の11時半に着いた。

麻美がインフォメーションで宿を探す。不親切な対応だった。窓口の説明では駅の向かいあたりを探せという。重い荷物を背負い,あちこち足早に歩いて探す。汗びっしょりになる。結局見つからず、駅に戻って再びインフォメーションで聞くと,最初にバルセロナで泊まったホテルらしい。調度にタクシーが来て飛び乗った。運転手に話すと探しているホテルに連れて行ってくれた。しかしホテルは満杯でお払いをくった。

今日に限って現金は4000円余りしか手持ちになかった。予定では明日はフランスに入るので,安いホテルなら十分であるから・・・(と両替してなかった)
駅前には高級ホテルがあった。ホテルの親父は気の毒に思ってか運転手に別のホテルを教えてくれた。タクシーはどんどん田舎の寂しいところへ行く。明日の朝は早出なので心細くなってきた。次のホテルも満杯でシャットアウトをくらった。運転手が一緒に交渉してくれたがどこにも宿は見つからないので,とうとうタクシーは駅に戻った。

時刻は12:30だった。タクシー代825ペセタとチップを含め1000ペセタ払う。今夜の宿は駅と決めた。心細い。
駅を閉め出された数人が戸口で既に寝込んでいた。中は電話機などが荒らされるので,夜間は入れないとのことである。暗い中をのぞくと寝ている顔はジプシーに見え,恐ろしい気持ちで、麻美は怖がった。

アメリカの旅慣れた風の若い青年が来たので,一緒にいさせてもらった。大変安堵した。麻美の不寝番もあるので,朝まで寝なかった。麻美には防寒具を全部くるめてやった。コンクリートの壁に背を当てて寝て、ウツラウツラしていると午前2時頃、ふと目を開けると麻美の枕元に黒い肌の若いのが二人立っていた。目のみがギョロついていた。こっちと視線が合った時,二入の若者は暗い中に消えていったが,後になって恐ろしさで心臓がちぢみ上がる思いだった。それからも変なのがうろついていた。

夜が明け午前6時に駅が開いた。(ヨーロッパ時刻サマータイムが解かれた)

【追記】
マラガからの電車は遅れに遅れ,その日の最終到着列車になった。
バルセロナのインフォメーションは不親切だった。自分でホテルに電話して探せとリストを放り投げるように渡すとカウンターを閉じてしまった。駅前高級ホテルは全く我々を相手にせず,ポン引きに車に連れて行かれそうになり、調度来たタクシーに飛び乗りホテル探しを頼んだ。何軒回っても満室。ホテルフロアで交渉していると,中から宿泊している日本人青年が出てきて、「俺の部屋に泊まってもいいよ」と言ってくれた。ラッキーと思い,父を連れて来ると彼は怒ってドアを閉めてしまった。あーあって気持ちで駅に引き返し、どうせ明朝までの数時間、駅内で時間潰そうと思うが、それは思い通りにいかない。防犯のため無情にも駅員は全員閉め出すのだった。

そこへ調度人の良さそうなアメリカ人青年旅行者が同じように駅入り口で野宿当て込んでやってきたので、すぐ脇にいさせてもらい3人グループを装った。

始発電車は5:30だから、あと数時間ここで頑張れば駅が開く。
あと30分、あと10分など時計をにらみながら駅が開くのを待つと,なんとその日はサマータイムが終了する日。だから夜が1時間長かった日。
ヨーロッパの人にとっては1時間長く寝られる日。
結局そこからさらに1時間待ち、ようやく駅に入れた。
まずトイレに駆け込み,洗面を済ませると,隣でジプシーの女性が洗濯していた。なんだか妙に仲間意識がわいてきておしゃべりしながら並んで洗顔した。

怖いもの知らずとはこのことで,後に父の記録を読み返し,いかにあの時危険だったのか反省しきりである。そういえば翌朝駅に入って人心地着いた時に、父は「黒人やらが麻美の周りたむろしていた」ようなことをチラッと言ったが、それほど危険な状態とは思わずその話はスルーしていた。

この日はそんなわけで、写真もスケッチもない。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 17 マラガに一泊する

2025-02-01 11:51:17 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
17 1985年9月27日(金)晴れ

今日はマラガ行きだ。宿を出て外で朝食をとった。マラガにはバスで行った。11時に着く。
エステポナに比べて大きな賑やかな街で観光の街である。(ピカソの生地でもある)。港町でその反対の小高い丘は右に大きい城塞が建ち残っている。闘牛場もあった。城塞とカテラダを見ることにしていた。カテラダ(宗教的なところらしい)は行った時あいていなくて入れない。城塞に行った。
10何世紀のものか,中世の名残をとどめ外壁を残して小高い場所に残されている階段を登った。敵の侵入を防ぐ工夫がなされた構造に興味があった。中には遺跡展示室があって、見た。モザイク画の,深く落ち着いたものなど心に残る。
夕方、日も傾いていたが帰り際に夕陽の馬車に乗り45分間の遊覧を楽しんだ。日本人の姿はどこにもなく,遠い国にいる実感がわく。
今日のホテルは星二つで,二つ上のランクだった。今まで泊まった中で最高に良し。便所は消毒の匂いで気持ちよかった。


マラガスケッチ

ピカソ生家前



【追記】
マラガへの移動は順調だった。ホテルもすぐに見つかった。
マラガは大きな街で活気があった。ピカソの生家前で記念撮影した。
夕刻、観光馬車に乗った。乗り場で観光客の列に並び、自分たちの番に回ってきたのは薄汚れた馬車と白馬でちょっと残念。夕方の風が気持ちよく開放的な気分で馬車に揺られた。夕食を広場のテラスで取っていると,物売りの子供がポケットティッシュを売りに回ってきた。押し売りは即座に断っていたが,ポケットティッシュなら持っていれば便利だと父が言った。その後その子から買ったかどうかは記憶にない。