バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

褒めて育てる

2012-05-26 23:56:58 | バネ
 梅ちゃん先生こと、ウメちゃんがOGのOさんと一緒にやって来た。あのでかい体でグイグイと部屋に入って、窓際に陣取る。
 最近どう?なんて聞きもしないのに、子ども達とのやりとりをよどみなく語る。小学3年生のクラスの担任になった新米先生。へー、それはそれはとコーヒー用意しながら聞いていると,「やっぱり、子どもはほめなきゃダメですよね。」そうなんだけど、口先だけでほめるとそれはそれで見破られるよ、などと分別臭い忠告をはさみながら、そしてやかんの湯が沸いているのを気をかけながら、よどみないおしゃべりに耳を傾ける。
 先生になって2ヶ月の彼女。突っ走リ,内省し,チェンジしとものすごく濃い2ヶ月間であった様子。子ども達の様子を感じる繊細さ。さりとて給食のおかわりを子ども達と争奪し勝ち、食ってしまう豪快さ。きっと楽しいクラスなんだろうな。そんな話しを聞いているうちに、だんだんうらやましくなってきた。3年生っておもしろい年頃。分別あるけど,大胆。いいね。
 そんな二人を見送り,午後からバネの補習が始まった。
 んなわけで,しのごの言わずに今日は褒めますか、と新鮮な気持ちで子供達に対峙する。
 最初はいい。よくがんばってるね、とか今日はすごい集中力などと「おせじ」ではなく本心からの「褒め言葉」を連発するが、昨日説明したことをもう忘れてる。昨日指摘した箇所をまたミスる。まったくもう、という気持ちが「ほめる」気持ちの下から浮上し、いまや完全に脳みそ内叱咤充満。
 同じミスを何度も繰り返すのは徹底が足りない!などと低い声で強く語る自分がいて、「はい」とうなだれる子どもが目の前にいる。
 いかん、これではと思い直し,テスト練習プリントに切り替える。何度も同じミスするのを防ぐ為に、テスト形式で痛みを体験した方が良い。
 怒られても,ため息つかれても、それでもやって来る子ども達。

反応があれば料理は楽しい

2012-05-26 00:37:45 | バネ
 バネ生達。学校から直接寄る子達は皆空腹。以前は睡魔との戦いをどうするか、だったんだけど最近は空腹をどうするかに終始している。かといって全員の夕食を提供するなんてことはできない。そこで先日、新ジャガでフライドポテトを用意しておいた。入室順にむさぼり食うから、最後の子までは行き渡らず。
 このポテトにはちょっと工夫がある。子ども達に「うまい!」って言わせる為に手を抜いていない。
 すると、「これ、どうやって作ったんですか?」と期待通りの質問。聞いたからって自分で作るわけじゃないから、おべんちゃらかもしれないけど、こう聞かれると気分いいね。でも答えは「ひみつ」なんだけど。
 以前いた下宿人達は気に入ったおかず出ると作り方を聞いた。聞いたからって自分でつくるわけじゃないのに、「これ、どうやってつくるんすか?」
 ふわふわオムレツ出したら、次ぎは一緒に作ってみたいと言い、本当に自分で作った。
 そして高校卒業し、一人暮らしを始め自炊生活になった下宿人は、覚えた料理のいくつかを作ったらしい。
 いい日でしたね。

 工夫する。気を入れる。そこに気づいてもらう。これだけで済む。


子どもの理解にどこまで寄り添うべきか

2012-05-24 09:12:43 | バネ
 中2が今取り組んでいる図形の証明問題。多くの子が、苦手とする単元。自分も当時得意ではなかった。特に、穴埋め形式が。他人の着眼をなぞりながら埋めていく、あれ。バネでもそういう子多かった。「意外と面倒なんですよね、これ」って言っていた。
 しかし最近は違う。
 「証明ってどうやるんですか?」の質問に始まる。何度説明しても、論理的に理解できない。設問から仮定と結論すら抜き出せない。そしてテキストの例題そっくりに書き進める。「対応する辺は等しいから」って最後持っていく場合でも、例題で「対頂角は等しいから」となっている為、どの問題でも「対頂角は等しいから」を繰り返す。それは違うよと言っても納得しない。こういう状況の子は一人ではない。しょうがないから、テストに出そうな証明問題数問を丸暗記せよ、ってことになる。こういう子が証明問題で得点できるのは、穴埋めくらいになるから、穴埋めはラッキー問題ということになる。
 うーん、と実に重たい気持ちになる。

 中学生がミスしやすいポイントを先回りしながら、時には後出ししながら指摘してきた。おそらく学校の授業もそのように進んでいるんだろう。しかしこれではダメだと思う。ポイントはこれです、って指摘する箇所以前に多くの穴がある。「これは当然わかるだろう」といってスルーして、ポイントだけ指摘していては、結局何もわからなかったことになる。そして冒頭の「証明ってどうやるんですか?」を繰り返すのである。

 小学生は接続語の学習をした。簡単な単文をつなぐ練習で、使う言葉は選択肢として記しておいた。
 「私は医者になりたい。」「勉強をしたくない。」をつなぐ。この場合逆接の「しかし」を選ぶところ、順接の「だから」を選んでいた。え、まじ?って反応したくなるけど、いや待てよ、もしかしたら医者になるには、人一倍の努力と猛勉強が必要であると言う周知の事実が、共通認識としてないってことかもしれないと思った。「寝る前にたくさん飲んだ。」「おねしょをしなかった。」これは「しかし」で正解していた。

 子ども達に何かを教えるには、この状況をスルーしてはいけない。
 当然わかるだろうっていうことの範囲が急速に狭くなってきている。そこを押さえないと、「あの先生、何言ってるかわからない」ってことになってしまう。


トイレの問題

2012-05-22 16:37:39 | バネ
 先日の断水騒ぎで思ったことは、排泄物を水で流すという今の処理法は、この先危ういということ。
 とにかくいちいちそれなりの量の水を必用とする。人間の生命維持に必用な水でありながら、ゴミ(この場合排泄物)を捨てるために大量の水を使う。日頃当たり前に行っている行為が、かなりの水の無駄遣いであるということを実感。
 あれほどの水を使わずに、衛生的に、簡易に処理する方法はないのか。ダーっと風で浄化槽に送るなんてどうだろう。しかしこの場合、電気を必用とする。今さら昔のボットンには戻れないし。
 ボットンといえば、トイレの外に吊していた手洗い。下からチョンチョンとやると、使う分だけ水が出て。でも子どもがやると、たいてい脇の下まで水が流れ込んでしまう、あれ。今回は、あれほしかった。ちょっとの水で手軽に手を洗う。あれ、どこかに売ってないかな。

 なんか面倒だぞっていうことを「水に流してきた」これまでのやり方が、いろいろなところでほころび、「さぁどうする」って詰め寄られて立ち往生って感じかな、日本。
 
 などと、最近は電気の無駄遣いに目くじら立てていたけど、水の使い方にも気を配るようになった。

 あの断水の日、近所で洗車している人がいた。井戸水なんだろうけど、何も今日やらなくてもね。

 翌日、子ども達に断水の1日の様子を聞くと、たいしたことない様子だった。
 「おばあちゃんちの井戸水もらってきたから、トイレ困らなかった。」「うちは井戸だから、風呂はいれましたよ。」など。
 「先生は風呂どうしたんですか?」
 「翌朝はいったよ。」
 「えっ!」
 えっ!はないでしょ。ああいう日は風呂に入れないの、普通じゃん。


 


日食を見る

2012-05-21 12:44:46 | 感動
 断水に続き、本日は金環日食、そして明日はスカイツリー開業と何かとネタ続きです。
 断水のその後とか昨日の大相撲千秋楽の話なんかも触れておきたい。でも今日は日食のみで。

 金環日食、見ました。
 欠け初めからテラスにコーヒーと本置いて、時々メガネで確認しながら。
 そしてあと10分程度でリング完成というその時、近隣の小中学生は登校しているし。メガネ手に持っている様子なく、普通に登校。なんで?学校で何も言われないの?ちょっと残念な光景。

 テレビの孫悟空で夏目雅子さん演じる三蔵法師が妖怪におそわれ最大ピンチとなったその時、太陽を消す呪文を唱えあたりは暗くなりみんなびっくりというシーンがあった。源平の合戦で、金環日食について知らなかった源氏はうろたえたという景色の変わりよう、このあたりを体感しておきたかった。

 確かにあたりは少し薄暗くなった。が、太陽見ること優先で、あたりを客観的に見ることはあまりできず。晴れてたけどちょっと雲出てきたねっていうくらいの変化だったと認識する。それも急に暗くなるというわけではないから、妖怪や源氏をびっくりさせるなんて、ないよね。そして小鳥が鳴きやむどころか、バンのえさ狙うスズメが屋根でビービー鳴いたあげく、テラスに人がいるのに気づき甲高い声上げて逃げていった。肝心のバンは、足下まとわりつく程度でまったく普通。さっき通り過ぎていった小中学生と同じ。
 近所の人見ていないの?って風なんだけど、世紀の瞬間には頭上のあちらこちらから「キャー」「ヒャー」って声が上がる。みんな二階で見ているんだ。うちのテレビで見ればいいのに、わざわざどこかに集まってみんなでテレビ見ながらサッカーの応援する時みたいに、共有する人がいれば感動は増幅するよねってことで、近くで見ていた人がいるという事実に気を良くして、即フェイスブックに書き込み。写真はうまく撮れなかったから、載せられず。

 じわりじわりと太陽が欠け、満ちていくのが肉眼でわかる。地球の動きを確認できて感動。

 そんなゆったりした時を過ごしていると、バンの悲鳴が。
 お腹痛いみたい。
 ちょっと重たい気持ち。

断水を経験する

2012-05-20 15:25:14 | ライフスタイル
 水が出ないという非日常を体験した5月19日。いろいろなことがわかった。
 日頃から飲料水はミネラルウォーターにしているので、さしたる不便はなかった。
 1日程度の断水なら洗濯も風呂も問題なし。
 何が困るかと言えば、それはトイレ。

 うちにトイレは3つある。それぞれのタンクに水はたまっているから、3回は普通に使える。4回目からはどうするか考えないといけない、と思いながら一つ目のトイレに入る。これは自動流水だから、慌ててオフにする。
 昨年の大震災以来、ポリタンク一つに水をためて外に置きっぱなしにしている。容器外側はほこりをかぶり、中は底が緑になっている。もちろん飲むことはできないが、トイレには使える。泥だらけの容器を運び込み、これで流せるようにセッティング。庭で野趣を満喫しながらという、できそうでできないことは、穴は用意したけどやはりやめておこう。
 このポリタンクがあれば2日程度はなんとかなる。

 トイレはよしとして、次に不便するのは手を洗うこと。
 洗えないとなると、洗いたくなる。ポリタンク運び込んだ手。バンさわった手。穴掘った手。

 食器は?当面は紙皿と紙コップ、割り箸で生活だ。と思ったものの、つい癖で食器に盛りつけてしまう。

 結局1日の断水ですみ、朝早くに水が流れた。しかし茶色い。風呂をためておかなかったことを悔やんだので、入浴も兼ね即風呂をためる。入浴剤入れたかと思われるくらい、茶色の湯がたまる。

 昼前に野田市から防災メールが。しばらくは水が濁るので、洗濯や給湯器の使用は控えるようにと。もう遅いです。朝早くから、近所一帯洗濯物干してますから。前日の運動会の汗を流そうと、同じように風呂入った人だって多いでしょう。

 今回飲料水は事足りた。しかしこれが長期化し、飲み水をポリタンクでもらいに行くことになった場合、このポリタンクの確保と保管が問題になる。うちみたいに水入れっぱなしにしたタンクは中ゴシゴシ洗えないから、飲料用としてはもう使えない。一度使ったものを衛生的に保管することが難しいと思う。新品の場合だって、一度洗ってから使いたい。このようなことから、給水用の容器はそれ専用のビニール袋が良いと思う。タンクもそうだけど、衣装ケースや漬け物桶に水もらってもどうやって車に運び込むの。持ち上がらないでしょ。ビニール袋なら10リットル用がちょうど良い。今度買っておこう。

 水は出たけど、問題が根本的に解決したわけではないから、備えは早いほうがいいね。


水がでない

2012-05-19 17:46:34 | ライフスタイル
 夜11時過ぎに、明日のサタクラのスタッフが足りないとの連絡入る。どうにかならないかって言われてもこんな時間じゃどうすることもできないから、とりあえず明朝ということで。
 で、翌朝ザワザワと人の手配して事なきを得た。
 裏話を公開すると、川間小のスタッフを他会場に派遣することになったので、川間小はとんでもなく手薄になる。どうにかならないかと携帯アドレスをグルグル回し、ふと目に留まったのは川間ジュニアの初期の卒業生。
 早朝電話でたたき起こされた彼女は、ふにゃふにゃ言いながら体育館に入ってきた。教え子と一緒に子どもを教える幸福を味わおうって時に、何やら水道関係の人がやって来て、9時50分に断水します、とのこと。子ども達を9:35分に集め、「これから、川間小はあと15分で○○○○します。さてなんでしょう?」と言うと、バクハツ?などと物騒な言葉が飛び出す。最初の一文字は「だ」最後は「い」と教えたけど、正解でず。そんなこんなしているうちに断水の時間になるので、答えをオープン。すると、「ダンスイって何?」
 利根川でホルムアルデヒド検出のニュースをネットで見ながらも、サタクラの人手配に気を取られ、ニュースは素通りしていた。後になって思えばこのとき機転をきかせて水確保すべきだったんだけど。
 水が出なくなるってことだから、今のうちにトイレ行くようにと子ども達を促す。そしてあと2分のところで、じゃうちもトイレ行ってきますか、ってこの時点で既に水出ない。やっばいです。これからの1時間、トイレ我慢したままのサタクラ。ピンチヒッターの彼女もトイレ行きそびれる。水道関係の人が再度やって来て説明を受けると、どうやらこれは川間小だけのことではなく、野田市全域であるということが判明。さらにはいつ水が出るのか未定である。今からでは水は買えないだろう、等。
 家出る時に洗濯干してきたことに安堵し、風呂に水ためてないことを悔やみ、そんなことにおかまいなしに体育館内を走り回っている子ども達を見て、とりあえず残りの1時間は練習に集中することにした。
 参加者の半数は新メンバーなので、「楽しかった!」を印象づける大切な日だから、トイレだの風呂だのと考えてはいられないのだ。

 関宿地区はまだ水が出るとのことなので、とりあえず関宿のコンビニのトイレに駆け込む。ここは長蛇の列かと思いきや、なんでもなくすんなり入れた。

 水が出ない。この事態をどう乗り切るのか。
 とりあえず給水のためのポリタンク買うか、と近くのホームセンターに行くと、「ポリタンク売り切れ」と手書きの文字が。やっぱり。レジには漬け物桶や衣装ケースを抱えた人が並んでいる。そうだ、衣装ケースなら家にもある。とりあえず何も買わずに家に戻る。

 いつも思っていた。災害時いざとなったら、庭に穴掘って用足せばいいじゃん。
 しかし意外とそれは、いざとなってもできそうでできない。
 当面、困るのはトイレ。
 暗くなればなんとかいけそうだから、明るいうちにスコップもって家の回りグルグル物色する。
 後ろをピッタリバンがついて来る。
 2周したところで、よしこの辺りと穴を掘ると、バンが一緒になって掘る。
 どうすんだ、この状況。
 
 水が出ないという、非日常。


日食メガネに手を出す

2012-05-15 09:26:46 | ライフスタイル
 21日に首都圏で金環日食が見られるということで、あと1週間となりさすがにメディアでも取り上げる頻度が、スカイツリー開業くらいに多くなってきた。

 数年前、関東で皆既日食が見られるとのことで早々にネットで購入したフランス製の日食メガネ。ひとつ190円だったように記憶する。家族分を注文すると、忘れた頃にペラッとしたものがメール便で送られてきて、あまりのチャチさにびっくり。「本当にこれで大丈夫なのだろうか?」という不信感は、「粗悪品には気をつけろ」というメディア情報が後押しして、その日まで「これで太陽をのぞくべきか否か」と悩んだものだった。結局当日は曇りで妙にほっとしたのを覚えている。
 さて、あのメガネ。使われることのないまま机の上に置いたままの、あのメガネ。そういえば、どこ行った?

 金環日食まであと1週間となり、真剣にそこらを捜してみたが、みつからない。
 ないとなると、どうしても手に入れなければならない気持ちになって来る。
 つい先日、マックスバリューのレジ前に吊るしてあったけど、あの時は「家には既にある」という気持ちからチラ見でスルーしていた。
 もののついでで近くの店で捜す。見つからない。店員に尋ねる。「完売しました。」品切れとは言わず、「完売」とは。この表現には、もう仕入れの予定はない!という意志が込められているではないですか。ま、しょうがない縁がなかったね、と立去ろうとしたその時、主婦店員は親切にも「さっきあの店で買ったお客さんいましたよ」と別の店を紹介してくれた。こういう親切おせっかいができるのは、主婦ならではですね。で、紹介された店に行くと、まだたくさんある。あるにはあるけど、価格を見て、ビックリ!なんで一つ790円なの。しかもその隣には大きく「日本製」と張られた1280円のものも吊るされている。えー、何これ?と思って眺めていると、次々と高齢者がやってきて1280円の方を買っている。テレビでは今回も「粗悪品に気をつけろ」と流しているから、迷わずみんな高い方を選んでいるのですね。確かにここのところの高速バス事故やホテル火災といい、安かろう悪かろう事故が連続したから、高い方が安心であるのかもしれない。しかし、以前の190円物を知っている身としては、こっちの790円で十分しっかりしているし、高いんですけど。
 どっちを買うかではなく、買うか買わないかをしばらく悩んだ挙げ句、790円メガネを購入。
 レジに持っていくと、暇そうな店員が「ニヤッ」としたのを見過ごさなかったよ。
 
 まあ、いいか。こうして日本経済回るなら。


燃えよ青春

2012-05-15 07:29:37 | 感動
 土曜の朝日新聞beうたの旅人シリーズで、正やんこと伊勢正三さんのことをとりあげていた。それも2ページにわたり。
 あの名曲「なごり雪」と「22歳の別れ」が同時に作られたことを知った。同時に2曲とは簡単にスラッと作ったというわけではなく、特に22歳の方は徹夜で推敲を重ねたとのこと。作成秘話を知り、特に徹夜で推敲という追求の姿勢にひかれ、改めてこの2曲を聴いてみたくなった。

 当時この手の曲をなぜ遠ざけていたのかよくわからないけど、何となく好きじゃなかった。本当は好きなんだけど、好きってことを人に知られたくなかったような屈折した心情があったように思う。たぶん、みんなが好きというのが理由の一つだったろうし、優しいフォークは演歌チックで草食男子風なのが直感的に遠ざけた理由かもしれないと分析。
 聴き直してわかったのは、これはリアルすぎるってこと。ストレートすぎるってこと。

 小椋桂さんの「白い一日」を知り、詩にめざめ、文学に憧れたあの頃。言葉を紡ぎ、心をじわりとなぞる詩。
 東京に上京した18歳。1年間住んだアパートを出るその前日、押し入れのふすまに小さな字で詩を書きこんだ。次ぎ住む人が偶然気づくかもしれない程度の字で。都会に埋もれ顔をなくした自分のささやかな自己主張だったと思う。今みたいに絵描いていないし、ブログないから、自己表現の方法を知らなかった。
 ふすまに書き込んだあの時の気持ちが蘇った。



人の夢の話ほど、つまらないものはない

2012-05-11 13:19:54 | ライフスタイル
 夢を見た。
 こんな書き出しだと漱石の小説みたいだけど、今朝方見た夢はとてもリアルで、どうしてもこう書き出さないといられない。

 父に描きかけの絵を見てもらうことにした。見てほしい絵があると切り出したときの感情を思うと、自分が油絵を描いていることはそれまで父には伏せていたと思われる。一瞬「えっ」という反応をした父を車に乗せ、絵が置いてある建物まで行く。北関東の見たことあるような風景の中を走る。高速の下をくぐり、バイパスに出て、大きな工場と田園が広がる道を走る。行き慣れているはずなのに、途中なぜか道に迷う。ようやく到着し、部屋に案内すると、そこに置いたはずの絵がない。よく考えたら、家に置いてあることを思いだし、結局絵をみてもらうことなく、夢は終わってしまった。

 夢は深層心理を映し出すということなら、思い当たることはある。
 アマゾンで「池田満寿夫の人物デッサン」という本を購入したら、その読者レビューを記入してほしいとのメールが届いていた。メールタイトルの「池田」と「デッサン」という文字を見て、一瞬ドキッとした。たぶん、これだと思う。

 夢はいつも肝心なところで終わる。料理を食べずに終わるパターン。トイレに入れずに終わるパターン。もっともこれは終わってもらって助かるけど。
 辛辣でもいい。何を言われるか聞いてみたかった。というより、何かを言われてみたかった。それは、どうせ自分の心が作る言葉だから、自分の心が言葉がになるだけだろうけど、それでも聞いてみたかった。

こだわりをさりげなく主張

2012-05-07 07:35:06 | ライフスタイル
 連休最終日はホームパーティーを催す。
 うちは玄関からリビング、いたるところに絵がかけてある。しかし多くの人は絵をほとんど鑑賞しない。部屋に入ると「旅館みたい」とは言うけど、「この絵は、うーむ」と見入る人は少ない。見るどころか、そこに絵があることに気がつかない様に感じることもある。
 昨日は違う。入口から鑑賞。
 丁寧に1枚ずつ見てもらう。いいね。
 そして話しは我が家の年賀状のイラストに及ぶ。
 娘が1歳のときから、その年の成長の瞬間をイラストにしてきた。初めてアイスをスプーンですくって自分一人で食べたとき。それが感動を絵にしたスタートだった。翌年はピースサインができた時。そして次は補助輪自転車にまたがったとき。そして次は、ラケットを振った時。
「あれは雑に描いているようだけど、同じに描こうと思うけど描けないんだよね。」
 そこで作成裏話を公開。11月くらいにやればいいのに、年末ギリギリにならないと気持ちが乗らないからできないこと。雑に描く様に見えるけど、顔は点一つにも気を配って何度か修正して描いていること等。「ほー、気持ちを入れて描くんだ」と気持ちよく納得していただき、満足。
 続いて、窓越しの庭に話しはうつる。
 庭木の選別、配置。造園の本片っ端から読んで、研究に研究を重ねて育ててきた,雑木林風の庭。手をかけないから雑然としている部分多しなんだけど、さりとてわざと雑にしている部分もあり、そこここにこだわりがある、一見すると雑な庭。そこに気づいてもらえた感あり。

 表現って究極は自己満足のためにあるけど、共感を得ることで満足は増幅する。



「芸人の対話」

2012-05-07 07:06:51 | 別所温泉
 連休は別所温泉へ。
 ギャラリー輝で店番していると、フラリと入ってきた観光客。
 「すっごーい。この絵はあなたが?」父の作品だと告げると、「そうよねー。若い人には描けないわよね。」
 若い人ってフレーズに気を良くして、その言葉流してしまったけど、盛んに感激していた作品は、父が30代の頃のもの。
 この色、構図、表情。最も好きな作品の一つ。タイトルは「芸人の対話」。
 色が踊っている、走っている。色どうしが、そして作者と色が対話している。
 この激しさは若さならでは。
 「癒されるー」って感動しきりだったから、観光客の女性には余計なこと言わずゆっくり見ていただいた。
 「この絵は売らないの?」とか「そうよねー。1点ものだから、手放さないわよね。」「こんな大きい絵は、普通の家じゃ飾れないわよね。」などと一方的に結論出して帰っていった。
 一般的に、写真みたいな絵を「うまい」と言う人多い。でもさ、写真みたいに描くなら写真でいいわけじゃん。なのに、なぜわざわざ絵にするかなー。って,絵は人それぞれだから、他人の価値観を批判してはいけない。自分の感動をどう表現するかであって、表現方法はそれぞれというわけ。また感動の視点もそれぞれっていうわけ。
 先日柏の展覧会にフラリと入ってきてアドバイスを残していった、高名なルンペン先生。その先生の言葉に触発されたけど、でも何かしっくり来ないものがあった。
 やっぱり父の絵を見に帰ってよかった。
 
 

 
 「芸人の対話」 F120

水は低きに流れる

2012-05-02 10:39:00 | ライフスタイル
 まずい!と落胆した先日のコーヒー。
 まずいけど豆はタップリあるし、以前までの豆ないし、さりとてコーヒー飲みたいし。だから仕方なく2杯目飲む。
 すると二日目にはその味に慣れ、以前の美味しさを忘れつつある自分。
 今となっては美味いコーヒーとの違いを思い出せない。
 まさかこのままズルズルとこの味に甘んじるようにはなるまいって思うけど、たった二日で今みたいな状態なんだから、近い将来妥協を重ねまた以前のお気楽カップコーヒー生活になる?

 良いものはいつも身近にないと、良いものの基準さえわからなくなってしまう、ということですかね。

 これは何にでも通ずる。
 いつもいいプレー見ていないと、いいプレーがわからなくなる。
 追求に妥協が生まれる。
 いい絵を見に、帰ろう。
 

作品に添える評価の意味

2012-05-01 09:10:48 | 
 公募展最終日なので、新国立美術館へ行ってきた。隣でエルミタージュ美術館展やセザンヌ展やっていたからついそちらにも入りたくなるけど、はしごする時間なし。テラスでお茶の余裕もなく、乃木坂駅から美術館までの一歩も無駄な動きのない直線ルートで往復してきた。
 地下鉄乗っている最中は気にならないのに、乃木坂駅ホームに降りた途端、『私美術館行きまっせ』風の人が急激に増える。あの人はきっと芸術家だろうと思わせる、ポリシーのこもったファッションのおばさん。地味目に正装した中高年カップル。その人の流れでワーっと駅から美術館まで歩く。しかしそのほとんどは公募展ではなく、企画展に入っていった。連休だしね。これらはまだしばらくやっているから、またの機会に平日午前中ゆっくり見るっていうことで。
 絵の価値っていうのは実はよくわからない。この絵いい!って自分が感じればそれでいいんだろうけど、そういう意味では企画展は、既に社会的評価を得た作品群だから、皆信用して安心して「ホー」ってうなることができるのですよね。その点公募展となると、もちろん審査を通った作品ばかりだからある一定のレベルをクリアしているんだけど、自由に感じながら好きな絵を鑑賞することができ、これはこれで楽しいし勉強になる。しかし自由に感じればいいとはいえ、脇に○○大賞作品などと添えられていると、やはりその作品は格別に見えるのです。受賞理由はその作品に対しての評価だけではなく、作者の永年の実績に対するものが含まれるとしても、通りすがりの鑑賞者にはそのような作者の去年までの努力は知る由もない。
 
 ダッシュでの帰路となる。
 ショッピングセンター駐車場に止めたので、駐車代金無料にするためにとにかく最後にここで買い物しないといけない。5千円以上の購入で最高5時間まで無料というのだから、ということはあと1時間以内になにがしかの買い物をしないといけない。こういう状況になると、なぜか欲しいものが思いつかなくなる。店内ぐるぐる回っても、ない。そうこうしているうちにあと45分。仕方ないから1階で食料品買うかと売り場に向かうと、コーヒー豆売り場の前に出た。そうだ,うちの豆そろそろ終わりそうだからここで買うとするか。そこそこの人だかりできているから、それなりの店なんだろうとモカ200グラム豆で購入。ついで書店に向かう。やはりここにも、いざとなると買いたい本がみつからないけど、無理矢理雑誌を買う。5千円には未だ遠いけど、店員さん曰く、これで5時間無料ですっていうから、この時点で一目散に駐車場へ向かう。とにかく早く帰りたい。駐車場出るのに20分待ち。ここはいつもこう。これじゃ、5時間すぎちゃうじゃん、ってイライラしながら外に出て、ダッシュで帰宅。
 何をそんなに急ぐかって、絵を描くため。思いついたものを一気に描きたい。とりあえず色を置かないと。
 帰宅後1時間ほど描き込んだところで、乾かないとこれ以上先へいかれないから、本日はここまで。でも、かなりスッキリした。後は数日眺めて微調整していこう。

 そして購入した豆をひいてコーヒー飲むことにした。「豆のままでいいのですね?」と若いお姉さんに念押され、お店で真空パックにしてもらったアルミの袋にハサミを入れても、香りがしない。ん?挽いている最中も香ってこない。泡がいつもの半分程度しか立たない。いぶかしい気持ちで、いれたてをソムリエ風に口の中で転がす。まずい!なんじゃ、これ!
 すっごい無駄使いした。こんなことなら、普通にコインパーク止めて、普通に駐車代払った方がよかった。
 見てきた絵の脇の受賞札は,鑑賞者へのアドバイスになるけど、コーヒー豆屋のひとだかりは必ずしもそうでないっていうこと。