バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

今年の漢字

2024-12-14 21:51:01 | 学習教室バネ
日本漢字能力検定協会が主催する今年の漢字 「金」でしたね。

バネでは小中学生全員が今年の漢字応募しました。
「そういえば、先生、今年の漢字どうなりましたか?」
発表は12日ですよと伝える。
そして12日の夜、授業中、「先生、今年の漢字は何? 2時発表だったよね」
と発表の時間までチェックしているし。
「今日学校で今年の漢字なんだろうって言ってるの私だけでしたよ」
って、応募したから結果が気になるんだよね。

皆何を書いて応募したかコピー取らなかったから忘れてしまいましたが、確か「金」一人いましたね。「先生は何にしたの?」って、
それは「米」です。
今年は米が不作でした。
猛暑の影響でしょう。一緒に米作りしたバドミントン部と陸上部そして関係者、協力者への配分を苦慮したし、米余りだった日本が米不足になるなんてと、自分的には「米」が印象的でした。
農家の方も「こんなに少ないのは初めてだ」っていうくらいだったので、来年は品種変えることになるのかな?


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 11 プラド美術館、ゲルニカを観る

2024-12-14 10:36:02 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
11.1985年 9月21日(土)晴れ
疲れで朝8時頃まで二人とも寝入った。若者の遊び歩く喧噪が響く、賑やかな一夜であった。
朝のうち近くの北駅まで24日に発つ切符を買いに出た。その足で駅の近くのプラド美術館に行く。

14.5世紀からの作品が並び、ヴェラスケス、ゴヤ、グレコ、ブリューゲルなど。特にゴヤに激烈な印象を受けた。ピカソのゲルニカを見るために周辺を歩き回った。プラド美術館の裏に姉妹館があり、少し離れて21世紀美術館と呼ばれるものがあった。

ゲルニカを一室に一点のみ展示し、他の一室にはゲルニカのエスキースが多く展示された、二室で展示されている美術館である。実物を目の前でじっと見ることができた。
ゲルニカは灰色の階調が微妙に変化され美しい色彩のハーモニーが感じられた。カメラは禁止されていた。




プラド美術館前にて

疲れていたが、明日は日曜で店が戸締めのため、二人で買い物に出る。24日にはスペイン最南端に発つので汽車の中の分まで買い込んだ。
麻美は銭が不足したと言ってマドリード駅まで地下鉄で両替に走った。

夜はマヨール広場へ外食に出る。フラメンコを予定していたが、地図であたったりしたがなかなか見つからなかった。広場の向こう隅の通りに出たところにそれらしきところが見つかるが、腕に入れ墨をした男がたむろしていて、麻美は恐ろしがって入らなかった。後日ということにして宿に帰って10時過ぎに床につく。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 10 マドリードに着く

2024-12-07 10:02:41 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
10.1985年9月20日(金)晴れ
バルセロナを発ってマドリードに行く。手持ちの時刻表が変更されていて使えず。調度の特急がなく、駅で教えられたものは急行のため12時間かかる。それに乗って8:20に発った。
車窓からは、赤土色の崩れ落ちた廃墟風の集落が次々と展開する。大変面白い。ここはフランスへ入る折に再び通過するので、一カ所下車して描きたい。
スイスからバルセロナに入った時の列車は社内食堂に行ったりで変化があって良かったが、今日の列車は停車も多くゆっくりだ。しかし、停車の都度乗り降りする人が珍しく楽しかった。駅名はローマ字綴りで結構読むことができた。


バルセロナからマドリードへの車窓から、サラゴサ風景


不思議なことに乗車券の到着時刻は午後8時半と書かれているのに、マドリードに7時20分につき、狐につままれた思いだ。
ホテルは地下鉄でソル広場まで行った近くにあった。宿泊料は一人1900円。ホテルの女将からはバス(シャワー)の中で洗濯してはならん、ベットに腰掛けるべからずなどと注意を受けた。通りに面した部屋で、一晩中うるさかった。
夕食は宿から離れたところに歩いて行くが、目標としたところは店じまいしていて姿がなかった。近くの中国料理屋に入った。こちらに来て一週間は経っているので、東洋的な食事が恋しくなっていた。けれど料理も名前ばかりでおいしくない。メニューにはなかったが聞くと日本酒があるというので特注で注文したら、半分水で薄められていて飲めたものでない。そのくせ値段は高いときている。

帰りマヨール広場に行き昨日のようにテラスでビールを飲む。似顔絵描きで人だかりに混ざって見学する。後ろからスリがそっと寄ってくる光景も目の当たりにした。子供を連れた女が、子供のために恵んでくれと寄ってくる。麻美からはそしらぬ顔をしているのだと習った。



マヨール広場で冷たいビールを飲む



漢字検定、合格率80%達成!

2024-12-04 10:54:24 | 学習教室バネ
先日の漢字検定、結果出ました。
今回はバネとしては最低の合格率となるか!という状況だったのに、蓋を開けてみると

合格率80%!

前日まで合格ラインに達していなかった子たちが、何人も本番で自己最高得点マークしたのだから、本番に強いねと感心することしきりです。

逆に、この子は過去問の点数(自己申告制)から絶対合格の太鼓判枠にいた1人は、不合格。
その原因をよく探ると、これまでの自己採点が雑だったのです。大体合っていると判断し正解にし、間違った漢字のままスルーしていたのでした。
過去問やった後何点だったと聞くと、「164点です」ってどれだけミス見落としていたのか。
中学生だから大丈夫だろうと自己採点させたのがまずかった。
間違えた漢字でも形が似ていると気づかないんだね。
次回はこの子は先生が採点!と心に誓い。

中1で3級取った面々は、中学卒業までに2級だ!と躍起になっている。
なんか私も資格試験に挑戦したくなってきた。
と、気持ちだけはやる気あります。


バネの作文教室「パンセ」から作文賞受賞

2024-12-04 10:02:31 | パンセ
バネでは小学生対象の作文教室「パンセ」(月曜 月3回)を開いている。
これはバネ始めた当初から授業の中で作文指導をするうち、作文の人気が高まり作文に特化したクラスを独立させたものだ。

作文の点数化はできないしい、テストもない。
それじゃ目標設定としてコンクールに応募すっか!となり、タイミング、テーマ、ボリューム等が合うコンテストを選ぶ。
その結果「朝日小学生新聞社児童文学賞小学生部門」に応募し、バネの5年生が「朝日小学生新聞賞」を受賞した。
先生も一緒に大人部門に応募しようかな?なんてつぶやていたのをしっかり拾っていた子に、「先生の作文はどうなったの?」とニヤリと聞かれた。私はその時結局書きかけのまま仕上げることができなかった。

それ以降、通常の授業コマに別途作文教室枠を作ることが難しくなり、作文教室は閉めてしまった。やはり学校のテストや入試に直結する授業を優先することになってしまった。

でもやっぱり学力は作文からだよね。
と一念発起し、再度「パンセ」クラスを始めることにした。
そのためには他のクラスを削り、通常クラスの入塾生枠を絞りしてキープした作文教室枠。
もしこれで誰も作文教室に来なかったとしても、このまま授業枠キープし続けようと募集案内をバネ生のみに告知したところ、数名がやってきた。

そうやって続けてきた2年目となる今年の夏。
「読売新聞小中学生作文コンクール」に応募した。
そしてそのうちの1点が県の優秀賞に選ばれた。

大抵は作文は苦手、作文書くの嫌い、と言う。
そんな子たちにあの手この手でテーマ探し書く練習繰り返していると、原稿用紙2枚くらいならスラスラ書くようになる。
今回のコンクールでは原稿用紙20枚を目標とした。
「ムリー!」と叫ぶ子たちと伴走していくうち、「これって、いいんじゃね」というものが書き上がった。

そして清書。
手書きだから大変だ。挿入や移動があると最初から書き直し。そんなことを何度かやりできあがった。
この時点で子供たちは大いなる達成感ですよ。

そして受賞となると弾みがついて、「来年は最優秀ねらいます」だって。すでに頭の中に構想があるらしい。

あの時書きかけになってしまった私の作文(小説)の続きを書こうと思う、とつい子供たちに言ってしまった。また「先生の作文はどうなったの?」と聞かれてしまう日がまたやってくるのか?


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 9 バルセロナ1日目

2024-12-02 10:13:42 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
9.1985年 9月19日(木) 晴れ

宿は街の中心地で良いところに案内されていた。今日行く予定のピカソ美術館やガウディの塔が近くで良かった。

朝のうちに麻美は明日のマドリードの宿探しにバルセロナ駅へ地下鉄(30分)を使って電話しに行く。
ピカソ美術館へは10時に行くことにして、麻美が帰ってくる間コンテで窓越しの通りをスケッチした。


バルセロナホテル窓より

ピカソ美術館の道はわかりにくかった。道を行く人何人にも聞いた。美術館は細い奥まった暗い通りにあった。館内の写真は禁じられていたので、帰り際入り口のところでカメラに収めた。


ピカソ美術館入り口

ピカソ美術館入り口

作品では初期のものに興味があった。小品でも色がしっかりついて色面のしっかりしているところが、後の抽象画の仕事への動きとなっているように思った。絵はがきは今までに見ていないものを購入するようにした。
歩く道すがら、麻美が観音様(北向観音)で買ってバックに付けていたお守りを落としたと言うので、不安な気持ちになる。宿に帰ったらはずれてバックの中に落ちていたので不安感がぬぐわれた。

午後はバスでガウディの聖家族教会へ行く。らせん状階段530段を上った。
異様な雰囲気を持つ塔で、400年かけて建ち現在まだ建築中であと200年はかかるという。バルセロナの街、その奥に広がる地中海が一望できる。塔の300段目のところは横の棟への通路になっていて、足を踏み外すと危ない。麻美と互いに写真を取り合った。



聖家族教会前広場で午後の開館を待つ


塔を渡る通路


やっと渡った通路



地上に降り塔の前の広場でもう一度眺めた。一人旅の日本の青年に会った。元気で旅するように声を掛けると喜んでいた。その後は動物園にも足を運んだ。世界に一頭しか生存しないという突然変異の白ゴリラに麻美が興味を示していたからだ。動物園入り口で子どもたちが勝手にカメラを向けて撮る。帰りに覚えていてしつこく写真を買えと言って後をつけられて気味悪い。
スイスは気温15度前後で寒かったが、ここでは昼間はTシャツで過ごし、夜になっても20度くらいに感じる

夜の外食は20分近く歩き有名なランブラス通りまでやっとのことたどり着く。広場のレストラン野外テーブルの雰囲気を楽しむ。パエリヤを食べて美味かった。日本の米と違い扁平でパサつく。
食べるもの、買うもの、乗り物すべて麻美が払うのでわからないが、日本に比較すると比べものにならないくらい安いらしい。
ホテル代も食事代も安い。飲料水もまちまちでサイダー瓶が駅では200円、裏通りの食品店では100円もしていない。


パエリアは美味かった


追記:聖家族教会は昼休み3時間もあり、午後の開館を広場で午後3時まで待った。昼休みの長さに辟易。塔にはエレベーターがあり普通観光客はそれを使うが、エレベーター入り口が混雑していたこともあり階段で上ることにした。最初は広い螺旋階段だが、上るにつれ狭くなる。石段の高さがまちまちなので規則正しく足を運べない。そのうち上から降りてくる人とすれ違うのに苦労するほど狭くなる。左肩(右肩かもしれない。回転方向は失念)を塔の中心に付けてモクモクと上ると300段あたりで隣の塔への渡り通路に出た。石を積み重ねたでこぼこした通路を風が吹き抜ける。渡り抜けるのが怖くてキャーキャー言いながら渡った。次の塔の螺旋階段は先ほどと回転方向が逆になり、体のバランスがとりにくい。いよいよ上から降りてくる人とはすれ違えず、体をぴったり壁に付けて通り過ぎるのを待つようにしなければならないほど狭くなった。降りてくる人から、「あと1000段あるよー」などと言われ、「えー!」って返しながら上る。
上りきると石段に530段と記されていた。当然、帰りはすれ違うたびに「あと1000段あるよ」「えー!」って他の挑戦者との会話を楽しみながら降りた。