バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

冬期講習で文章を極める(日本語、英語)

2024-12-29 21:55:37 | 学習教室バネ
2024年の冬期講習、前半が終わった。
今年は中1.中2は合同クラスにした。

バネはほぼ個別指導でやっている。
学年混在クラスというだけでなく、同じ学年でも進度、理解度が異なるので個々に合わせて進めている。
板書で一斉説明して、
「ほいこの問題解いてみろ!」
スタイルならどんだけ楽か! とは思うが、なかなかそうはいかない。

あっちでは「先生、今日は電流勉強したいです」と言われ、こっちでは「図形の証明さっぱりわかりません」と言われ、さらに向こうからは「英検受けるんで、対策授業して下さい」なんて言われ、適宜対応しているから毎日が脳トレマックス状態。

しかし今年の冬期講習夜の部は一斉授業できそうだと判断した。
出席するのは中1、2生。
みんな一緒の内容で板書説明メインで進めようと思う。
このメンバーなら行けると思う。

何をやるかというと、それは英語の5文型。
中学生達be動詞と一般動詞の使い方理解していないし、そもそも「動詞って?」とか「形容詞、副詞って何?」なんて言われるから、中2にいつかしっかり時間取って5文型を説明しようと思っていた。学校の英語では文法を体系的に学習せず細切れ学習しているから、今何学習してるかすらもよくわからないと口々に言う。
幸いなことに中1は皆そこそこに英単語力あるから、中2と一緒の学習でなんとかなりそう。

冬期講習「5文型」用の教材を作った。
板書説明するエッセンスを大きめの文字で書き出しておき、必要に応じて各自が書き込んだり色を付けたりできるようにスペースあけてルーズリーフ用紙にプリントし、順を追って綴じていけるようルーズリーフファイルも渡した。
まじめな子は家でそのプリントを元に再整理すると思われる。もし書き込まないとしても、自分が使ったノートは学習記録として記憶に残りやすいし、後日活用しやすい。
近年タブレット学習が幅をきかせ中学生達がノートに鉛筆で書く行為がめっきり減っているから、ノートのよさ再発見なんて効果も期待して。

そうだ、どうせやるなら。
部活やら送り迎えの都合で開始時刻に皆が揃わないこともあるだろうから、それなら、授業冒頭に作文授業いれちゃおう。
これは事前告知なし。
今回は英語の文法中心に学習しますと伝えていたけど、最初の30分間自由に書く(日本語)時間としよう。

「まず最初に作文書いて下さい。書き方は自由です。ただし今日の出来事について書くこと」とだけ言い原稿用紙渡すと、「えー、作文嫌い!」
いいね。こういう反応する子がいて欲しかった。
20分で書くよう促すと先の作文嫌いっ子は原稿用紙2枚使ってなにからガシガシ書いている。
そして公開処刑ならぬ、全員の作文を先生が読む。
そしておもむろに「作文書き方のこつ」プリント配布。
これはバネの作文教室初回授業で配るもの。
そして「では、先生が書いた作文を読みます」

小学5年生の女子がファミレスで家族とメニュー決める創作話。

そして冬期講習本題の英語の5文型に入る。

まずは文の要素、S,V,C,Oを説明。
続いて品詞-名詞、動詞、形容詞、副詞を説明。
説明ばかりではと中1でもわかるようチョイスした動詞リストに、意味と自動詞、他動詞のチェックを付けていく。さらに自動詞は完全自動詞と不完全自動詞に分けるように説明する。

そして第1文型と第2文型を説明。
そして演習問題。
この時点で完全自動詞と不完全自動詞が区別つくようになり、さらに名詞と形容詞が見分けられるからスイスイと理解できている様子。
渡されたファイルをめくりながら単語や知識の確認もしている。

そして講習2日目。
やはり始まりは作文から。
制限時間20分。そして読み上げ、講評。
めんどくさいなど言いながらもカツカツ書き原稿用紙オカワリが出る。
昨日はほとんど書けなかった子が時間一杯かけて提出したそれは、今日の出来事をネタに自分の見解をまとめていた。
これって、「哲学じゃないですか!」 と言うと、他の子も「ウン、ウン」
そして先生の作文を披露。
それは昨日の続き。ファミレスでやっとの思いでメニュー注文した後、ドリンクバーを取りに行くシーン。

「先生、この女の子って、うちの妹のことみたいです」
って感想が寄せられた。

2日目は昨日の文の要素、品詞、文型おさらいして、もう一度動詞の分類練習して残りの第3.4.5文型を一気に説明。

とかく先生が説明頑張っているときは、一人芝居になりやすいのだけど今回は手応えあり。その証拠に、説明後の演習問題、結構できてる。ファイルも活用されている。

3日目は風邪や家庭の都合等の欠席がいたので、文型問題の演習問題中心に復習した。

予定通り2回の授業で説明しきることができた。
自分だけスッキリで終わらせないように、1月からの後半で学習内容の定着を図ろう。
それに創作文の続き、多分皆気にしているだろうから、正月休み中に続きをつくらないと。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 13 トレド二日目 アルタンカラの橋を描く

2024-12-29 21:33:57 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
13 1985年9月23日(月)晴れ 
 
   今日もトレドに行く。8:30のバスに乗るため7:50に宿を出る。
   地下鉄を間違えてしまい、忙しかった。月曜日のためか、バスは途中から乗る客が多く一時間半かかった。
昨日の場所はやめた。バス停から10分くらい歩いてトレドアルタンカラの橋を描くことにした。小山敬三の描いた橋である。疲れが出てきていた。
暑い太陽だった。日本の風景に比べると重々しい。なかなか石造りの重厚感が出ず、残念だった。よい勉強をした。フォルムが見えなかった。筆もやたらと使い、手も汚した。
夕食はおごって、一人2500円で食べた。
明日マドリードを出て、スペイン最南端へ発つ。

【追記】
【父は9/23は相当疲れていたのでしょう。上記日記は殴り書きで、文章はぶつ切れです。なんとか読み解きリライトしたけれど、随所不明点があります。ギリギリ読み取れたものを記載しました。】
前日と二日続けてトレドに行った。昨日の場所はあまり良くないということで、駅から歩いて行けるところで描くことにした。父は「こっちの方が絵になったかもしれないな」といい、「ちょっと待ってて」と言い、やおら立ったまま駅近く広場でスケッチした。
スケッチ場所を決め、アルタンカラの橋を描くために道路から斜面に降りた。そこは石やゴミで雑然としていた。車からドッサリとゴミを捨てていく人もいた。
じゃ私も絵を描こうかとアルタンカラの橋を描いた。
今日はここで本格的に描こうと画材を広げてしばらくすると、左の方から羊の群れがやってきた。ずんずんとこちらに向かってくる。いやな予感がして、あわてて荷物をまとめて斜面を登った。羊たちは牧羊犬と羊飼いに追い立てられながら通り過ぎた。その後には無数の糞が落ちていた。荷物を片付けないであのまま斜面にいたら惨憺たることになっただろう。父は、「ここはいつもあの羊たちの通り道だったんだ」と妙に納得し、「荷物どかしてよかったな」と笑っていた。
帰り際に「見せてみろ」と父は言うから、少し離れたところで描いていたアルタンカラの橋のスケッチを見せると、「ほー。ふーん」としか言わなかった。







都大路駅伝応援記

2024-12-26 17:33:32 | 感動
「そうだ、京都行こう」

ってノリで日帰りで京都に行くことにした。
年末の冬期講習直前の多忙な日であり、ギャラリー輝の企画展最終日であったにもかかわらず、強行突破で京都まで行くことにしたそのわけは。
それは、バドミントン部と一緒に米作りしている西武台千葉高校陸上部の面々が、なんと都大路駅伝に出場することになったからだ!
田んぼでは寡黙な青年たち。細っこくて、お尻の位置がキュっと高くて,声聞いたことない子たち。

マラソンの応援って沿道で旗振るあれ。それか、じっとスタジアムでモニター見ながら応援する、あれ? てな風で、具体的には駅伝応援ビギナーとしては応援のイメージ沸かず。

出発の日が近くなると、応援ポイントは、こことこことこことここです、なんて情報が入ってきた。
こことここと・・・って、京都の町を電車かなんかで移動するわけ? 人混みかき分け乗り継ぐわけ?
「スイカはしっかりチャージしておいた方がいいですよ」
先達からのアドバイスもあったから、寒い京都の町をワサワサと移動するイメージが、やっぱ行くのやめようかなとちょっとネガディブになったりしたけど、とはいえもう行くって宣言したことだし、とにかく行くだけ行くかと少し重くなった腰を持ち上げ東京駅に向かったのでした。

京都駅10:30着
男子のスタートまで2時間あるから観光の一つくらいしておこう! とまずは下鴨神社を目指した。
この神社にはなんとなくご縁があり、どういうわけか何度か訪れてそのたびおみくじは「大吉」だった。
初めて来たときは冬。
色を失った白と黒の幽玄な世界。
空に伸びる境内の杉の天空の隙間から、白い雪が放射状に落ちてくる様は忘れることができない絶景であった。
それ以来幾度となく下鴨神社を訪ねている。大阪に用事があって出かけたときも、わざわざ下鴨神社によるために京都駅からタクシーを飛ばした。

京都駅から下鴨神社の最寄り駅まで行くが、目指す神社には駅から数キロある。歩くしかない。しかし幸運なことに駅前で乗客を降ろしたタクシーを拾うことができた。
「お客さん、多分これが最後のタクシーですよ。この後ろは交通規制始まっていますよ」
と、幸先がいい。

おみくじは今回は「小吉」だった。しかし内容はすこぶるよかったので満足。

さてここから最初の駅伝応援ポイントに向かうことにした。
まずは「西大路御池」駅
警察が交通規制の準備始めている。最初は「ここ通るの?」ってくらい閑散としていた交差点に人が集まり始めいつの間にか人だかりができたころ、白バイ先頭にやってきましたよ、駅伝先頭集団。

おる、おる。目指す選手がその中に、おる。
目の前を先頭集団が走り抜けると隣の体の大きな男性が「よし、次! いくぞ!」

えっ? この瞬間私にはスイッチが入ってしまった。

周囲の皆は一斉に駅の階段を走り降りる。
そういうことか。次の応援ポイントにダッシュで移動するのが駅伝応援団のやり方なんだ!
それなら自分だって、と負けじと一緒に走る。
次に目指したのは「今出川」
二つ目の駅。
一瞬よぎった。近すぎるのではないか。電車より選手の方が速いのではないか?
案の定駅の階段を走り登りきり外へ飛び出すとお目当ての選手は通過した後だったようだ。
では次のポイントへとまた走る。
次に目指すは「国際会館」
途中で烏丸線に乗り換える。
この時点ですっごい人。乗り換え通路を人ぎっしり状態で通過し、ぎゅう詰め電車に乗り、そして降りるとホームから落ちんばかりの人。
ギューギューになりながら改札を出る。
人混みでスリスリとしか進まない中微妙に後ろの人に押されるから自分も前の人を押す形になり、ところてん状態で改札を出た。

階段を走り上がると、そこには人人人!
なんとか隙間見つけて顔出して応援する。

選手通過!
通過した後にそこにいつまでもいる意味がないんだ。すぐさま、ゴールとなっているスタジアムへと向かう。

そういえば昼食べたっけ? 何か飲んだ?
と何もかも忘れてしまう夢中状態で次のポイントへ。

スタジアムはだだ広く、すいていた。一番前を陣取ると他の応援団も近くに集まってきてお目当て選手の力走を声張り上げて応援した。

実はこう言うのチョット慣れているんです。
国技館で「ハクオーホー」って大声出し経験しているから、すんなり大声出せるんだよね。
大声出しまくって,おなかもすいて、京都駅で腹ごしらえして帰途人の人となったのでした。

帰りはぐったりで,就寝頃には足がつって、OS-1飲んでしのぎ,朝は犬に起こされるまでぐっすり寝たのでした。

伝統の京都駅伝。
応援の妙が体験できたから来年はもう少し効率的に動けるかも。
何より京都駅で,バス電車共通1日乗車券(1000円)買うのはマストだね。
そして今度はしっかり写真撮ろう。今回、一回もカメラ使わなかった。

だから、がんばれー、陸上部。
来年も頼むよ。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 12 待望のトレドでスケッチ

2024-12-17 15:17:49 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
12.1985年9月22日(日)晴れ

今日は待望のトレド行きだ。
地下鉄でバス停まで行く。トレドに行く客がすでに2、30人地下のバス停にいた。
バスは80㎞のスピードで郊外を突っ走る。日曜日のため途中からの客は少なく、他の車も少なく、快適だった。1時間でトレドに着く。時刻は10時半だった。
あらかじめ場所を写真で拾っておいたので、タクシーを拾い、タクシー運手に写真のスケッチを見せると頷いて承知してくれた。
街を外れて南の丘から街を展望できるところまで連れて行ってくれた。(300円) 帰りの迎えを予約(2時)しメモを渡す。承諾してくれた。
今日は主にスケッチを描くことに決め、道路から崖を登った。
山羊のフンが辺り一面散在していた。山羊の姿は見えない。
名声あるトレドも実際来てみると期待外れ。
大きすぎてつかみようがない。しかも黄赤茶色一色でもある。バルセロナ近辺のサラゴサ辺りの面白さからするとずっと劣る。何しろ色がない。またフォルムもない。

トレド全景


しかしだ、日本の絵描きの多くが絵にしているところを見ると、まんざら捨てたものでもないとも思うのであった。明日も来ることにしているので、今日はとりあえず絵の下絵をしたが、フォルムが決まらなかった。何枚もスケッチした。






トレドアルタンカラの橋スケッチ


描いている脇を日本のツアーバスらしき二台が通り過ぎる。こっちに来ては、東洋は中国、韓国見分けつかないので、挨拶はない。


帰りの予約したタクシーは30分過ぎても来なかった。待合していたところの売店の老夫婦が気の毒だという表情で、おんぼろライトバンで駅まで送ってくれたので助かった。夕方は闘牛に行くことになっているので気が気でなく、本当に助かる思いだった。謝礼を出したが親父さんは受け取らなかった。その時、知り合いの誰かがこの地に行くことを知ったら、日本の土産を託したいと思った。



タクシーを待つ

夕食を済ませて闘牛場(プラザ de Toros)に行くことにしていたが、昼間のハプニングで30分遅れて6時半に着いた。すでに一場面が終わったところであった。大喝采の拍手の中、満席を踏み分けるように案内人に引率されて中段の席に着く。周囲は日本人ツアーで一杯だった。(券は21日にすでに購入しておいた)
グランドに目をやると、ヒヅメで荒らされた地表や殺された牛の血をトンボで収めていた。5分も過ぎた頃、次の場面が始まった。闘牛手数名が手に赤いマントで牛の出を待つ。反対方向、暗闇の口から突如黒い牛が放り出さされるように飛び出す。急に明るみに出された牛は一瞬たじろぐ。場内の闘牛手が黄色い声で牛をおびき寄せる。けしかける。いらだった牛は地面を前足で蹴って、地響きあげる。赤マントを振りかざしてけしかけると、頭を地面すれすれに突進。すばやくかわす。そんなことを数回繰り返す中、反対側から馬に乗って槍で武装したのが出てくる。牛は馬の方にけしかけられると馬の腹に角を突き刺す。馬には厚い鎧が被されている。赤い布で目を覆われている馬は、角に押されたじろぎ転びそうになる。騎士は槍を肩口に突き刺す。傷められた牛は興奮している。しばらく騎士とのやりとりがあり、馬は下がる。牛を上手く扱い、槍の二回で仕留めているのもいれば、不慣れなのは4,5回刺してもだめで、角に突き上げられたりして転倒し、ヒヤリとする場面も幾度かあり、手に汗を握った。華麗に仕留めた騎手は貴賓席から何か褒美を授かっていた。死んだ牛は4頭の馬に引きずられていく。
日本人の家族連れの女性は見れずに退場していた。あまりの壮絶さで気持ち悪くなる。スペイン人のど根性を見せつけられる。
2場面から5番まで観て最後まで観ないで場外に出た。夜もすっかり深まり九時近かった。




【追記】
案の定というか、迎えのタクシーは依頼した時間には来なかった。今みたいに携帯電話などない。売店の老夫婦に事の次第を説明すると、「来るはずない」と言われ、駅まで送ってもらうことになった。父が助手席に乗ろうとすると、おじいさんは、「女性が前、おまえは後ろだ!」と。父は荷物の中に潜り込み、私は助手席へ。その床は抜け落ちていて、足を持ち上げて乗った。陽気なおじいさんだった。
闘牛のチケットはランクがいろいろあって、日陰と日向でも価格が異なった。よくわからないから価格が中位のものを求めたら、そこは日本人ツアー客に囲まれた席だった。
闘牛ショーは凄惨ではあったが、観客と「オーレ」と声を合わせ大声を出すのは快感でもあった。


今年の漢字

2024-12-14 21:51:01 | 学習教室バネ
日本漢字能力検定協会が主催する今年の漢字 「金」でしたね。

バネでは小中学生全員が今年の漢字応募しました。
「そういえば、先生、今年の漢字どうなりましたか?」
発表は12日ですよと伝える。
そして12日の夜、授業中、「先生、今年の漢字は何? 2時発表だったよね」
と発表の時間までチェックしているし。
「今日学校で今年の漢字なんだろうって言ってるの私だけでしたよ」
って、応募したから結果が気になるんだよね。

皆何を書いて応募したかコピー取らなかったから忘れてしまいましたが、確か「金」一人いましたね。「先生は何にしたの?」って、
それは「米」です。
今年は米が不作でした。
猛暑の影響でしょう。一緒に米作りしたバドミントン部と陸上部そして関係者、協力者への配分を苦慮したし、米余りだった日本が米不足になるなんてと、自分的には「米」が印象的でした。
農家の方も「こんなに少ないのは初めてだ」っていうくらいだったので、来年は品種変えることになるのかな?


小学生が書いたイソップ物語風ショートストーリー

2024-12-14 21:38:19 | パンセ
バネの作文教室「パンセ」での一コマ。

「北風と太陽」の話をして、この教訓は何だろうと問うと、
5年生男子が間髪をいれず、
「誉めて伸ばすでしょ」

では次は自分でもイソップ物語風に書いてみようということになった。
主人公は人間以外。そして人間社会への教訓が含まれること。
原稿用紙2枚で書くという宿題にした。

そして翌週提出した先の5年生男子の作文。
かいつまんで紹介すると。

三毛猫のミケがいつもの散歩コースを歩いていると、その途中でミケの大好きな白猫のシロちゃんと出会った。
「ネコといったら、やっぱ白色だよね」
と言われ、ミケは嫌われたくないので
「そうだよね。他の色とはしゃべりたくもないよ」

また歩いていると、ミケの先輩で黒い毛のクロちゃんと出会った。
クロちゃんは
「ネコと言ったら、やっぱ黒色だよね」
と言い、ミケは嫌われたくないから
「そうだね。他の色のネコは見たくないよ」

次の日もそこを通ったら、シロちゃんとクロちゃんが何かもめていた。
「ミケ!!」
「白色の毛は見たくないんだろ!」
「黒色の毛のネコとは話したくないんでしょ!」
「えーっと」
「嘘ついてたの!?」
「おまえは茶色のねことでも遊んでろ!」
「じゃーな」

タイトルは「それぞれの色」
この話を中学生に披露すると、「深い。すごい。天才!」

三毛猫だからシロ、クロ、チャというのも面白いね。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 11 プラド美術館、ゲルニカを観る

2024-12-14 10:36:02 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
11.1985年 9月21日(土)晴れ
疲れで朝8時頃まで二人とも寝入った。若者の遊び歩く喧噪が響く、賑やかな一夜であった。
朝のうち近くの北駅まで24日に発つ切符を買いに出た。その足で駅の近くのプラド美術館に行く。

14.5世紀からの作品が並び、ヴェラスケス、ゴヤ、グレコ、ブリューゲルなど。特にゴヤに激烈な印象を受けた。ピカソのゲルニカを見るために周辺を歩き回った。プラド美術館の裏に姉妹館があり、少し離れて21世紀美術館と呼ばれるものがあった。

ゲルニカを一室に一点のみ展示し、他の一室にはゲルニカのエスキースが多く展示された、二室で展示されている美術館である。実物を目の前でじっと見ることができた。
ゲルニカは灰色の階調が微妙に変化され美しい色彩のハーモニーが感じられた。カメラは禁止されていた。




プラド美術館前にて

疲れていたが、明日は日曜で店が戸締めのため、二人で買い物に出る。24日にはスペイン最南端に発つので汽車の中の分まで買い込んだ。
麻美は銭が不足したと言ってマドリード駅まで地下鉄で両替に走った。

夜はマヨール広場へ外食に出る。フラメンコを予定していたが、地図であたったりしたがなかなか見つからなかった。広場の向こう隅の通りに出たところにそれらしきところが見つかるが、腕に入れ墨をした男がたむろしていて、麻美は恐ろしがって入らなかった。後日ということにして宿に帰って10時過ぎに床につく。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 10 マドリードに着く

2024-12-07 10:02:41 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
10.1985年9月20日(金)晴れ
バルセロナを発ってマドリードに行く。手持ちの時刻表が変更されていて使えず。調度の特急がなく、駅で教えられたものは急行のため12時間かかる。それに乗って8:20に発った。
車窓からは、赤土色の崩れ落ちた廃墟風の集落が次々と展開する。大変面白い。ここはフランスへ入る折に再び通過するので、一カ所下車して描きたい。
スイスからバルセロナに入った時の列車は社内食堂に行ったりで変化があって良かったが、今日の列車は停車も多くゆっくりだ。しかし、停車の都度乗り降りする人が珍しく楽しかった。駅名はローマ字綴りで結構読むことができた。


バルセロナからマドリードへの車窓から、サラゴサ風景


不思議なことに乗車券の到着時刻は午後8時半と書かれているのに、マドリードに7時20分につき、狐につままれた思いだ。
ホテルは地下鉄でソル広場まで行った近くにあった。宿泊料は一人1900円。ホテルの女将からはバス(シャワー)の中で洗濯してはならん、ベットに腰掛けるべからずなどと注意を受けた。通りに面した部屋で、一晩中うるさかった。
夕食は宿から離れたところに歩いて行くが、目標としたところは店じまいしていて姿がなかった。近くの中国料理屋に入った。こちらに来て一週間は経っているので、東洋的な食事が恋しくなっていた。けれど料理も名前ばかりでおいしくない。メニューにはなかったが聞くと日本酒があるというので特注で注文したら、半分水で薄められていて飲めたものでない。そのくせ値段は高いときている。

帰りマヨール広場に行き昨日のようにテラスでビールを飲む。似顔絵描きで人だかりに混ざって見学する。後ろからスリがそっと寄ってくる光景も目の当たりにした。子供を連れた女が、子供のために恵んでくれと寄ってくる。麻美からはそしらぬ顔をしているのだと習った。



マヨール広場で冷たいビールを飲む



漢字検定、合格率80%達成!

2024-12-04 10:54:24 | 学習教室バネ
先日の漢字検定、結果出ました。
今回はバネとしては最低の合格率となるか!という状況だったのに、蓋を開けてみると

合格率80%!

前日まで合格ラインに達していなかった子たちが、何人も本番で自己最高得点マークしたのだから、本番に強いねと感心することしきりです。

逆に、この子は過去問の点数(自己申告制)から絶対合格の太鼓判枠にいた1人は、不合格。
その原因をよく探ると、これまでの自己採点が雑だったのです。大体合っていると判断し正解にし、間違った漢字のままスルーしていたのでした。
過去問やった後何点だったと聞くと、「164点です」ってどれだけミス見落としていたのか。
中学生だから大丈夫だろうと自己採点させたのがまずかった。
間違えた漢字でも形が似ていると気づかないんだね。
次回はこの子は先生が採点!と心に誓い。

中1で3級取った面々は、中学卒業までに2級だ!と躍起になっている。
なんか私も資格試験に挑戦したくなってきた。
と、気持ちだけはやる気あります。


バネの作文教室「パンセ」から作文賞受賞

2024-12-04 10:02:31 | パンセ
バネでは小学生対象の作文教室「パンセ」(月曜 月3回)を開いている。
これはバネ始めた当初から授業の中で作文指導をするうち、作文の人気が高まり作文に特化したクラスを独立させたものだ。

作文の点数化はできないしい、テストもない。
それじゃ目標設定としてコンクールに応募すっか!となり、タイミング、テーマ、ボリューム等が合うコンテストを選ぶ。
その結果「朝日小学生新聞社児童文学賞小学生部門」に応募し、バネの5年生が「朝日小学生新聞賞」を受賞した。
先生も一緒に大人部門に応募しようかな?なんてつぶやていたのをしっかり拾っていた子に、「先生の作文はどうなったの?」とニヤリと聞かれた。私はその時結局書きかけのまま仕上げることができなかった。

それ以降、通常の授業コマに別途作文教室枠を作ることが難しくなり、作文教室は閉めてしまった。やはり学校のテストや入試に直結する授業を優先することになってしまった。

でもやっぱり学力は作文からだよね。
と一念発起し、再度「パンセ」クラスを始めることにした。
そのためには他のクラスを削り、通常クラスの入塾生枠を絞りしてキープした作文教室枠。
もしこれで誰も作文教室に来なかったとしても、このまま授業枠キープし続けようと募集案内をバネ生のみに告知したところ、数名がやってきた。

そうやって続けてきた2年目となる今年の夏。
「読売新聞小中学生作文コンクール」に応募した。
そしてそのうちの1点が県の優秀賞に選ばれた。

大抵は作文は苦手、作文書くの嫌い、と言う。
そんな子たちにあの手この手でテーマ探し書く練習繰り返していると、原稿用紙2枚くらいならスラスラ書くようになる。
今回のコンクールでは原稿用紙20枚を目標とした。
「ムリー!」と叫ぶ子たちと伴走していくうち、「これって、いいんじゃね」というものが書き上がった。

そして清書。
手書きだから大変だ。挿入や移動があると最初から書き直し。そんなことを何度かやりできあがった。
この時点で子供たちは大いなる達成感ですよ。

そして受賞となると弾みがついて、「来年は最優秀ねらいます」だって。すでに頭の中に構想があるらしい。

あの時書きかけになってしまった私の作文(小説)の続きを書こうと思う、とつい子供たちに言ってしまった。また「先生の作文はどうなったの?」と聞かれてしまう日がまたやってくるのか?


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 9 バルセロナ1日目

2024-12-02 10:13:42 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
9.1985年 9月19日(木) 晴れ

宿は街の中心地で良いところに案内されていた。今日行く予定のピカソ美術館やガウディの塔が近くで良かった。

朝のうちに麻美は明日のマドリードの宿探しにバルセロナ駅へ地下鉄(30分)を使って電話しに行く。
ピカソ美術館へは10時に行くことにして、麻美が帰ってくる間コンテで窓越しの通りをスケッチした。


バルセロナホテル窓より

ピカソ美術館の道はわかりにくかった。道を行く人何人にも聞いた。美術館は細い奥まった暗い通りにあった。館内の写真は禁じられていたので、帰り際入り口のところでカメラに収めた。


ピカソ美術館入り口

ピカソ美術館入り口

作品では初期のものに興味があった。小品でも色がしっかりついて色面のしっかりしているところが、後の抽象画の仕事への動きとなっているように思った。絵はがきは今までに見ていないものを購入するようにした。
歩く道すがら、麻美が観音様(北向観音)で買ってバックに付けていたお守りを落としたと言うので、不安な気持ちになる。宿に帰ったらはずれてバックの中に落ちていたので不安感がぬぐわれた。

午後はバスでガウディの聖家族教会へ行く。らせん状階段530段を上った。
異様な雰囲気を持つ塔で、400年かけて建ち現在まだ建築中であと200年はかかるという。バルセロナの街、その奥に広がる地中海が一望できる。塔の300段目のところは横の棟への通路になっていて、足を踏み外すと危ない。麻美と互いに写真を取り合った。



聖家族教会前広場で午後の開館を待つ


塔を渡る通路


やっと渡った通路



地上に降り塔の前の広場でもう一度眺めた。一人旅の日本の青年に会った。元気で旅するように声を掛けると喜んでいた。その後は動物園にも足を運んだ。世界に一頭しか生存しないという突然変異の白ゴリラに麻美が興味を示していたからだ。動物園入り口で子どもたちが勝手にカメラを向けて撮る。帰りに覚えていてしつこく写真を買えと言って後をつけられて気味悪い。
スイスは気温15度前後で寒かったが、ここでは昼間はTシャツで過ごし、夜になっても20度くらいに感じる

夜の外食は20分近く歩き有名なランブラス通りまでやっとのことたどり着く。広場のレストラン野外テーブルの雰囲気を楽しむ。パエリヤを食べて美味かった。日本の米と違い扁平でパサつく。
食べるもの、買うもの、乗り物すべて麻美が払うのでわからないが、日本に比較すると比べものにならないくらい安いらしい。
ホテル代も食事代も安い。飲料水もまちまちでサイダー瓶が駅では200円、裏通りの食品店では100円もしていない。


パエリアは美味かった


追記:聖家族教会は昼休み3時間もあり、午後の開館を広場で午後3時まで待った。昼休みの長さに辟易。塔にはエレベーターがあり普通観光客はそれを使うが、エレベーター入り口が混雑していたこともあり階段で上ることにした。最初は広い螺旋階段だが、上るにつれ狭くなる。石段の高さがまちまちなので規則正しく足を運べない。そのうち上から降りてくる人とすれ違うのに苦労するほど狭くなる。左肩(右肩かもしれない。回転方向は失念)を塔の中心に付けてモクモクと上ると300段あたりで隣の塔への渡り通路に出た。石を積み重ねたでこぼこした通路を風が吹き抜ける。渡り抜けるのが怖くてキャーキャー言いながら渡った。次の塔の螺旋階段は先ほどと回転方向が逆になり、体のバランスがとりにくい。いよいよ上から降りてくる人とはすれ違えず、体をぴったり壁に付けて通り過ぎるのを待つようにしなければならないほど狭くなった。降りてくる人から、「あと1000段あるよー」などと言われ、「えー!」って返しながら上る。
上りきると石段に530段と記されていた。当然、帰りはすれ違うたびに「あと1000段あるよ」「えー!」って他の挑戦者との会話を楽しみながら降りた。