バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 16 エステポナ2日目

2025-01-23 11:24:38 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
16 1985年9月26日(木)晴れ
午前中麻美が海で泳ぎ,貴重品の番をしながら海の風景を描く。午後は家並みの写生をした。夕食は外でした。


【追記】
この日は疲れたのか,これしか記録を残していない。その代わり油やスケッチをたくさん残している。気になる風景を写真に収めるでなく,その場でスケッチするのが輝流。











No.567 エステポナ(スペイン〕太陽海岸 F3




浜辺のそこここにトップレスの女性が日光浴していた。その中でも中年の白人3人組が目立っていた。二人の女性はトップレスで寝そべり、男性がオイルを塗ってあげていた。
父に荷物番を頼み海に入ると,遠浅の海の足下に鰯やタコが泳いでいるのが見えた。タコと一緒に泳ぐみたいで気持ち悪く,早々に浜辺に上がるとしつこい老人にまとわりつかれた。
「オイル塗ってやるから横になれ」といってしつこい。
父に助け船を求めようと思うが、肝心の父は防波堤で絵を描いている。仕方ないから少し日光浴して,すぐに引き上げた。
街には少し前に日本のサーカスが来たらしく、辻辻にポスターが張られていた。それでも日本人はかなり珍しいらしい。街を歩いていると大人も子供も振り返る。遠慮なく引き返してきて顔をのぞき込む男性もいた。遠慮がない。子供たちは「ハパン、ハパン」と声を合わせて後を付いて回って来た。なぜ日本人と分かるのか不思議だったが、昨日の洋品店のおじさん辺りから聞き出したのだろうか。
夕食にレストランに入ると、付いてきた子供たちがさらに友達を呼び、店の前でたむろして中をのぞき、一挙手一投足に一々歓声上げていた。
夜遅くなってもまだ外は明るく,通りでは子供たちが遊ぶ声がいつまでも響いていた。道路にチョークで線を描いて遊ぶ様子は,自分の子供の頃昭和の風景だった。
この日の父の日記はほとんど記載がないが、帰国後、海辺で寝そべりオイルを塗ってもらっている女性の様子を作品にしている。
「地中海の女」である。(S100)この作品の覚え書きが残っているので,併せて掲載しておく。

No.1「地中海〔アンダルシアの女)S100
2/3(1986.2.3) 【描きたい絵】
「スペインの南端エステポナで麻美が泳いだ。貴重品、衣類見がてらに防波堤の突端で湾越しの街並みを描くためイーゼルを構えた。描いてしばらくしてうしろむくと描いている背後1㍍そこそこの距離に年の瀬30歳は過ぎたか接客婦にもみえる女性二人が寝ころび、そこに側立つようにして男がいた。男は女よりも年若く、ひげを携えている。
女二人ブラジャーなし。下の方は細いT字形パンツ。
 女は代わる代わる男にマッサージさせている。30を超したスペインの女は、はぶたいもちのようにぶくぶくだ。おまけに日焼けした肌が怪物のようにマッサージで動く。乳首は梅干しで黒い。一方砂浜では40過ぎの女がノーブラで砂に寝て日光浴をしている。先の二人の女達よりまた異様な怪物様だ。焼け付く地中海の太陽の海と女達。このような様を絵にしたい。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 15 コスタデルソル、エステポナに到着

2025-01-19 11:48:54 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
15 1985年9月25日(水)晴れ

寝台車の中でワイン飲み過ぎて喉が渇き、3時頃目が覚めた。その後、6時頃までずっと眠った。こっちに来てからマドリードより朝明けるのが遅く7時半頃で、夕日の落ちるのは8時過ぎである。
夜が明け始めると、車窓からの風景が目に入ってくる。山間を進んでいた太陽が雲間に顔を出した様子はいかにもスペイン国らしい。荒々しさを感じ、これから着く最南端アルヘシラスの風情を感じ得ない。昨夜列車内の飲み過ぎた今までの疲れなのか,体の調子が狂ってくる。

アルヘシラスは漁と観光両者を兼ねた漁港でアフリカへ渡航1時間のところである。

駅から今日宿とするエステポナ村までバスに乗るのだが、バス停見つけで苦労する。ここではフランス語がほとんど通じない。
13キロのリュックを背負って暑い中30分は歩いた。

エステポナの町までバスで1時間で着いた。海水浴客で賑わう街で海岸は高級ホテルがひしめくように建っていた。

宿は一つ星のホテルが見つかった。
早速麻美は水着に着替え海に入った。午後一時近くだったが,泳ぐ人の姿はあまりなかった。







夕方は明日描く場所探しに本通りを北に入って、民家のある通りを歩きまくった。教会を除いては全て白い漆喰の建物である。
夕方だったので家の戸口の脇に老人が椅子を出して休んでいる光景があちこちに見られる。半分壊れた椅子に身を斜めにしてぽつねんと腰掛けている老人もいて,印象的であった。町並みや老人を何枚もカメラに収めた。カメラを向けるとポーズを取るものもあれば,嫌う人もいた。

宿は壁塗り職人の人たちが多く泊まっていた。ホテルのレストランで食事すると、皆の関心がこちらに集まった。


ポーズを撮る老人 

いつまでも明るい

【追記】
アルヘシラスからエステポナまで地中海に沿ってバスは走った。私の記憶では2時間くらいだと思うが,父の日記には1時間とある。座席は海岸側で最初は景色を楽しんだが,ずーっと単調であり、直射日光が厳しかった。後ろの席の人と無言でカーテンを取り合いながら日差しをよけた。

エステポナに着いてまず洋品店に駆け込み父は真夏の衣類を購入した。店の主人が、「そんな格好じゃ暑いべ」と言いながら,半袖短パンを見繕ってくれた。
ホテルは海岸沿いの安そうなところに決めた。入り口にシェパードが寝そべっていて,それをまたいでカウンターで手続きした。
坂道の路地突き当たりに老人が壊れかかけた椅子で夕涼みしていた。もう何年もそうしてそこにいるかのようなただずまいだった。写真を撮らせてほしいというと拒絶されたが,他の老人二人組は「俺たち撮っていいよ」と手招きしてポーズまでしてくれた。最初に断られた老人のたたずまいは非常に絵になっていたので,後で遠くから1枚撮った。


父と娘のヨーロッパ貧乏旅行記 14 マドリードから寝台車でスペイン最南端へ行く

2025-01-14 13:56:38 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
14 1985年9月24日(火)夕立あり

4日間使ったホテルを11時に出ることにして、朝の間にホテル窓越し風景をサム号に油で描く。
トレド橋の時はホワイトを使わないでやってみたが、今日は白を沢山くれて描いた。おもしろいのができた。西洋の建物では白が必要とされると思った。ただ、ホワイトの乱用にならねばよいが。





No.513 SM マドリードホテル窓より

正午には王宮の見学をする。時間待ちして入ってはみたが、各ツアーごとに英語ガイドがいて、一般の旅行者なるもには勝手が利かず、少し見るだけで出る。

ゴヤパンテオン横のレストランで昼食


マドリード王宮前

近くに華麗な壁面のゴヤ美術館なるものを見つけて入った。教会が美術館になっていて、部屋の上段にゴヤの墓らしきものが置かれ、天井壁画が素晴らしい。プラド美術館で見たものより色彩が生々しく新鮮だった。美術館を出る時夕立に遭った。暑い日続きたっだから、気持ちよかった。

スペイン最南端のアルヘシラスへ行く寝台車に乗るために、夜食を買い込み、マドリード駅へ戻る。
向かいのホームから出る同じアルヘシラス行きの普通車に、黒人の若者たちがひしめいていた。荒くれ者の囚人列車を思わせる様相に麻美は恐ろしがって行くのを取りやめようかと言いだした。予定の寝台車に乗り込む。勝手のわからずまごつく。
アルヘシラス行き寝台列車で夕食
寝台車ではフランス人の親子三人が同室となる。やたらとしゃべりまくる親子だった。列車は定刻の午後8時20分に発車する。フランス親子は一行に夕食の様子がないので、麻美とワインで済ませ、3階に登って寝てしまう。




【追記】寝台車は初体験だった。マドリード駅でアルヘシラス行きのホームにたどり着くと、途端に辺りは黒人だらけになった。ホーム全体が薄暗かった。向かいのホームから出る列車車両には人々が張り付くように群がっていた。ホームでは大声で話したり歌ったり、奇声を上げたり。なかには手招きして「こっち来て、この車両に乗れ」と話しかけてきたりする人もいた。アルヘシラスへ行くのをやめ、明るいマドリードのホームに戻りたくなった。私たちが乗るのは向かいから出る寝台車だと分かると,彼らは「あーあ」という様なことを言って誘うのを諦めた風でほっとした。
寝台車同室はフランス人のおばさんと中高生くらいの娘二人。フランス語を話す人でしかも女性でホッとした。3段ベッドが2列の6人乗りコンパートメント。最初は全員が1階座席部分でおしゃべりしめいめいに過ごしていたが、フランス人の母親に私たち二人に3階ベッドを譲ると言われ,父と私は嬉々として上に登った。まもなくそれはまちがいだとわかった。上はとても揺れる。あの人たちはだからいつまでも動かないで下にいたのだと後でわかったが仕方ない。一晩中、3階から振り落とされないように気をつけて寝ることになるのだった。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 13 トレド二日目 アルタンカラの橋を描く

2024-12-29 21:33:57 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
13 1985年9月23日(月)晴れ 
 
   今日もトレドに行く。8:30のバスに乗るため7:50に宿を出る。
   地下鉄を間違えてしまい、忙しかった。月曜日のためか、バスは途中から乗る客が多く一時間半かかった。
昨日の場所はやめた。バス停から10分くらい歩いてトレドアルタンカラの橋を描くことにした。小山敬三の描いた橋である。疲れが出てきていた。
暑い太陽だった。日本の風景に比べると重々しい。なかなか石造りの重厚感が出ず、残念だった。よい勉強をした。フォルムが見えなかった。筆もやたらと使い、手も汚した。
夕食はおごって、一人2500円で食べた。
明日マドリードを出て、スペイン最南端へ発つ。

【追記】
【父は9/23は相当疲れていたのでしょう。上記日記は殴り書きで、文章はぶつ切れです。なんとか読み解きリライトしたけれど、随所不明点があります。ギリギリ読み取れたものを記載しました。】
前日と二日続けてトレドに行った。昨日の場所はあまり良くないということで、駅から歩いて行けるところで描くことにした。父は「こっちの方が絵になったかもしれないな」といい、「ちょっと待ってて」と言い、やおら立ったまま駅近く広場でスケッチした。
スケッチ場所を決め、アルタンカラの橋を描くために道路から斜面に降りた。そこは石やゴミで雑然としていた。車からドッサリとゴミを捨てていく人もいた。
じゃ私も絵を描こうかとアルタンカラの橋を描いた。
今日はここで本格的に描こうと画材を広げてしばらくすると、左の方から羊の群れがやってきた。ずんずんとこちらに向かってくる。いやな予感がして、あわてて荷物をまとめて斜面を登った。羊たちは牧羊犬と羊飼いに追い立てられながら通り過ぎた。その後には無数の糞が落ちていた。荷物を片付けないであのまま斜面にいたら惨憺たることになっただろう。父は、「ここはいつもあの羊たちの通り道だったんだ」と妙に納得し、「荷物どかしてよかったな」と笑っていた。
帰り際に「見せてみろ」と父は言うから、少し離れたところで描いていたアルタンカラの橋のスケッチを見せると、「ほー。ふーん」としか言わなかった。







父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 12 待望のトレドでスケッチ

2024-12-17 15:17:49 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
12.1985年9月22日(日)晴れ

今日は待望のトレド行きだ。
地下鉄でバス停まで行く。トレドに行く客がすでに2、30人地下のバス停にいた。
バスは80㎞のスピードで郊外を突っ走る。日曜日のため途中からの客は少なく、他の車も少なく、快適だった。1時間でトレドに着く。時刻は10時半だった。
あらかじめ場所を写真で拾っておいたので、タクシーを拾い、タクシー運手に写真のスケッチを見せると頷いて承知してくれた。
街を外れて南の丘から街を展望できるところまで連れて行ってくれた。(300円) 帰りの迎えを予約(2時)しメモを渡す。承諾してくれた。
今日は主にスケッチを描くことに決め、道路から崖を登った。
山羊のフンが辺り一面散在していた。山羊の姿は見えない。
名声あるトレドも実際来てみると期待外れ。
大きすぎてつかみようがない。しかも黄赤茶色一色でもある。バルセロナ近辺のサラゴサ辺りの面白さからするとずっと劣る。何しろ色がない。またフォルムもない。

トレド全景


しかしだ、日本の絵描きの多くが絵にしているところを見ると、まんざら捨てたものでもないとも思うのであった。明日も来ることにしているので、今日はとりあえず絵の下絵をしたが、フォルムが決まらなかった。何枚もスケッチした。






トレドアルタンカラの橋スケッチ


描いている脇を日本のツアーバスらしき二台が通り過ぎる。こっちに来ては、東洋は中国、韓国見分けつかないので、挨拶はない。


帰りの予約したタクシーは30分過ぎても来なかった。待合していたところの売店の老夫婦が気の毒だという表情で、おんぼろライトバンで駅まで送ってくれたので助かった。夕方は闘牛に行くことになっているので気が気でなく、本当に助かる思いだった。謝礼を出したが親父さんは受け取らなかった。その時、知り合いの誰かがこの地に行くことを知ったら、日本の土産を託したいと思った。



タクシーを待つ

夕食を済ませて闘牛場(プラザ de Toros)に行くことにしていたが、昼間のハプニングで30分遅れて6時半に着いた。すでに一場面が終わったところであった。大喝采の拍手の中、満席を踏み分けるように案内人に引率されて中段の席に着く。周囲は日本人ツアーで一杯だった。(券は21日にすでに購入しておいた)
グランドに目をやると、ヒヅメで荒らされた地表や殺された牛の血をトンボで収めていた。5分も過ぎた頃、次の場面が始まった。闘牛手数名が手に赤いマントで牛の出を待つ。反対方向、暗闇の口から突如黒い牛が放り出さされるように飛び出す。急に明るみに出された牛は一瞬たじろぐ。場内の闘牛手が黄色い声で牛をおびき寄せる。けしかける。いらだった牛は地面を前足で蹴って、地響きあげる。赤マントを振りかざしてけしかけると、頭を地面すれすれに突進。すばやくかわす。そんなことを数回繰り返す中、反対側から馬に乗って槍で武装したのが出てくる。牛は馬の方にけしかけられると馬の腹に角を突き刺す。馬には厚い鎧が被されている。赤い布で目を覆われている馬は、角に押されたじろぎ転びそうになる。騎士は槍を肩口に突き刺す。傷められた牛は興奮している。しばらく騎士とのやりとりがあり、馬は下がる。牛を上手く扱い、槍の二回で仕留めているのもいれば、不慣れなのは4,5回刺してもだめで、角に突き上げられたりして転倒し、ヒヤリとする場面も幾度かあり、手に汗を握った。華麗に仕留めた騎手は貴賓席から何か褒美を授かっていた。死んだ牛は4頭の馬に引きずられていく。
日本人の家族連れの女性は見れずに退場していた。あまりの壮絶さで気持ち悪くなる。スペイン人のど根性を見せつけられる。
2場面から5番まで観て最後まで観ないで場外に出た。夜もすっかり深まり九時近かった。




【追記】
案の定というか、迎えのタクシーは依頼した時間には来なかった。今みたいに携帯電話などない。売店の老夫婦に事の次第を説明すると、「来るはずない」と言われ、駅まで送ってもらうことになった。父が助手席に乗ろうとすると、おじいさんは、「女性が前、おまえは後ろだ!」と。父は荷物の中に潜り込み、私は助手席へ。その床は抜け落ちていて、足を持ち上げて乗った。陽気なおじいさんだった。
闘牛のチケットはランクがいろいろあって、日陰と日向でも価格が異なった。よくわからないから価格が中位のものを求めたら、そこは日本人ツアー客に囲まれた席だった。
闘牛ショーは凄惨ではあったが、観客と「オーレ」と声を合わせ大声を出すのは快感でもあった。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 11 プラド美術館、ゲルニカを観る

2024-12-14 10:36:02 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
11.1985年 9月21日(土)晴れ
疲れで朝8時頃まで二人とも寝入った。若者の遊び歩く喧噪が響く、賑やかな一夜であった。
朝のうち近くの北駅まで24日に発つ切符を買いに出た。その足で駅の近くのプラド美術館に行く。

14.5世紀からの作品が並び、ヴェラスケス、ゴヤ、グレコ、ブリューゲルなど。特にゴヤに激烈な印象を受けた。ピカソのゲルニカを見るために周辺を歩き回った。プラド美術館の裏に姉妹館があり、少し離れて21世紀美術館と呼ばれるものがあった。

ゲルニカを一室に一点のみ展示し、他の一室にはゲルニカのエスキースが多く展示された、二室で展示されている美術館である。実物を目の前でじっと見ることができた。
ゲルニカは灰色の階調が微妙に変化され美しい色彩のハーモニーが感じられた。カメラは禁止されていた。




プラド美術館前にて

疲れていたが、明日は日曜で店が戸締めのため、二人で買い物に出る。24日にはスペイン最南端に発つので汽車の中の分まで買い込んだ。
麻美は銭が不足したと言ってマドリード駅まで地下鉄で両替に走った。

夜はマヨール広場へ外食に出る。フラメンコを予定していたが、地図であたったりしたがなかなか見つからなかった。広場の向こう隅の通りに出たところにそれらしきところが見つかるが、腕に入れ墨をした男がたむろしていて、麻美は恐ろしがって入らなかった。後日ということにして宿に帰って10時過ぎに床につく。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 10 マドリードに着く

2024-12-07 10:02:41 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
10.1985年9月20日(金)晴れ
バルセロナを発ってマドリードに行く。手持ちの時刻表が変更されていて使えず。調度の特急がなく、駅で教えられたものは急行のため12時間かかる。それに乗って8:20に発った。
車窓からは、赤土色の崩れ落ちた廃墟風の集落が次々と展開する。大変面白い。ここはフランスへ入る折に再び通過するので、一カ所下車して描きたい。
スイスからバルセロナに入った時の列車は社内食堂に行ったりで変化があって良かったが、今日の列車は停車も多くゆっくりだ。しかし、停車の都度乗り降りする人が珍しく楽しかった。駅名はローマ字綴りで結構読むことができた。


バルセロナからマドリードへの車窓から、サラゴサ風景


不思議なことに乗車券の到着時刻は午後8時半と書かれているのに、マドリードに7時20分につき、狐につままれた思いだ。
ホテルは地下鉄でソル広場まで行った近くにあった。宿泊料は一人1900円。ホテルの女将からはバス(シャワー)の中で洗濯してはならん、ベットに腰掛けるべからずなどと注意を受けた。通りに面した部屋で、一晩中うるさかった。
夕食は宿から離れたところに歩いて行くが、目標としたところは店じまいしていて姿がなかった。近くの中国料理屋に入った。こちらに来て一週間は経っているので、東洋的な食事が恋しくなっていた。けれど料理も名前ばかりでおいしくない。メニューにはなかったが聞くと日本酒があるというので特注で注文したら、半分水で薄められていて飲めたものでない。そのくせ値段は高いときている。

帰りマヨール広場に行き昨日のようにテラスでビールを飲む。似顔絵描きで人だかりに混ざって見学する。後ろからスリがそっと寄ってくる光景も目の当たりにした。子供を連れた女が、子供のために恵んでくれと寄ってくる。麻美からはそしらぬ顔をしているのだと習った。



マヨール広場で冷たいビールを飲む



父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 9 バルセロナ1日目

2024-12-02 10:13:42 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
9.1985年 9月19日(木) 晴れ

宿は街の中心地で良いところに案内されていた。今日行く予定のピカソ美術館やガウディの塔が近くで良かった。

朝のうちに麻美は明日のマドリードの宿探しにバルセロナ駅へ地下鉄(30分)を使って電話しに行く。
ピカソ美術館へは10時に行くことにして、麻美が帰ってくる間コンテで窓越しの通りをスケッチした。


バルセロナホテル窓より

ピカソ美術館の道はわかりにくかった。道を行く人何人にも聞いた。美術館は細い奥まった暗い通りにあった。館内の写真は禁じられていたので、帰り際入り口のところでカメラに収めた。


ピカソ美術館入り口

ピカソ美術館入り口

作品では初期のものに興味があった。小品でも色がしっかりついて色面のしっかりしているところが、後の抽象画の仕事への動きとなっているように思った。絵はがきは今までに見ていないものを購入するようにした。
歩く道すがら、麻美が観音様(北向観音)で買ってバックに付けていたお守りを落としたと言うので、不安な気持ちになる。宿に帰ったらはずれてバックの中に落ちていたので不安感がぬぐわれた。

午後はバスでガウディの聖家族教会へ行く。らせん状階段530段を上った。
異様な雰囲気を持つ塔で、400年かけて建ち現在まだ建築中であと200年はかかるという。バルセロナの街、その奥に広がる地中海が一望できる。塔の300段目のところは横の棟への通路になっていて、足を踏み外すと危ない。麻美と互いに写真を取り合った。



聖家族教会前広場で午後の開館を待つ


塔を渡る通路


やっと渡った通路



地上に降り塔の前の広場でもう一度眺めた。一人旅の日本の青年に会った。元気で旅するように声を掛けると喜んでいた。その後は動物園にも足を運んだ。世界に一頭しか生存しないという突然変異の白ゴリラに麻美が興味を示していたからだ。動物園入り口で子どもたちが勝手にカメラを向けて撮る。帰りに覚えていてしつこく写真を買えと言って後をつけられて気味悪い。
スイスは気温15度前後で寒かったが、ここでは昼間はTシャツで過ごし、夜になっても20度くらいに感じる

夜の外食は20分近く歩き有名なランブラス通りまでやっとのことたどり着く。広場のレストラン野外テーブルの雰囲気を楽しむ。パエリヤを食べて美味かった。日本の米と違い扁平でパサつく。
食べるもの、買うもの、乗り物すべて麻美が払うのでわからないが、日本に比較すると比べものにならないくらい安いらしい。
ホテル代も食事代も安い。飲料水もまちまちでサイダー瓶が駅では200円、裏通りの食品店では100円もしていない。


パエリアは美味かった


追記:聖家族教会は昼休み3時間もあり、午後の開館を広場で午後3時まで待った。昼休みの長さに辟易。塔にはエレベーターがあり普通観光客はそれを使うが、エレベーター入り口が混雑していたこともあり階段で上ることにした。最初は広い螺旋階段だが、上るにつれ狭くなる。石段の高さがまちまちなので規則正しく足を運べない。そのうち上から降りてくる人とすれ違うのに苦労するほど狭くなる。左肩(右肩かもしれない。回転方向は失念)を塔の中心に付けてモクモクと上ると300段あたりで隣の塔への渡り通路に出た。石を積み重ねたでこぼこした通路を風が吹き抜ける。渡り抜けるのが怖くてキャーキャー言いながら渡った。次の塔の螺旋階段は先ほどと回転方向が逆になり、体のバランスがとりにくい。いよいよ上から降りてくる人とはすれ違えず、体をぴったり壁に付けて通り過ぎるのを待つようにしなければならないほど狭くなった。降りてくる人から、「あと1000段あるよー」などと言われ、「えー!」って返しながら上る。
上りきると石段に530段と記されていた。当然、帰りはすれ違うたびに「あと1000段あるよ」「えー!」って他の挑戦者との会話を楽しみながら降りた。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 8 バルセロナに夜到着する

2024-11-30 14:46:43 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
8.1985年 9月18日(火)晴れ

今日はスペイン行きの列車に乗る。
発車が午前11時半ゆえに、10時までローヌ川に立つ水上レストランの風景を描く。
こちらに来て油は初めて。(F3号)印象派風の絵になったかも。
「ジュネーブ湖からローヌ川源流の地」


ジュネーブホテル部屋の窓より(油絵 F3)

スペインバルセロナ行きに乗る。(カタランタルゴ)

フランスの入国手続きは簡単だった。名に聞く新幹線室内は絨毯で豪華である。途中フランスを経由したのでフラン入国手続きをしたが、いとも簡単であった。食堂車で食事を取る。ここでは大分おごって、一人4000円である。
一等車内を意識した麻美は食事マナーについてやたらやかましいことを言う。


カタランタルゴの食堂車

途中アヴィニオン、アルルを通過した。帰りに降りる駅である。

スペイン国境のポルトブーという名の駅では、スペイン警察の厳しい検問にあった。こちら二人には当たりは柔らかかった。赤のパスポートをちょっと見せるだけで軽くパスするが、日本から来た関西なまり商社風の男3人と後ろの席のスペインジプシーの女に目を付けていたと見え、乗り込んでくるや問いもせず、網棚の荷を勝手に引き下ろして中身を調べ回った。何も異常はなかったが、殺気じみた雰囲気であった。

車窓から見るフランス国境からバルセロナまでの風景が素晴らしく、乾いた広陵として、黄赤褐色の地に白い集落が点々と目に入る。列車の窓が汚れていて写真に撮れなかった。


スペイン国境の小さな村(色紙)

スペイン国境の小さな村 (No.1068 コンテ 四つ切り)

バルセロナには夜の9時半に着いた。延々と10時間だ。夜だったので宿探しで苦労する。電話で30分探し、予約したホテルに向かうと、タクシー運転手はもっと安いところ知っていると言い不安があったが言われるままに動いた。いちいちと聞き返したいのだが言葉が通じなかったのでどこに連れて行かれるのか不安だった。

着いたところはずいぶん駅から離れたところに来たと思ったが、すぐ近くにも大きな駅があり、その前の宿であった。星は一つだがバストイレが付いていた。同じような宿泊客でうごめいた感じであった。通りに面した賑やかなところで1階はレストランで便利である。50半ば過ぎの肉太りの親父が一人で中やテラスの客15.6人をこなしていた。
名物のサングリアを飲んで満腹となり、12時に就寝する。夜半でも部屋がうるさい。
 

追記:タクシー運転手に連れて行かれたのは、ターミナル駅前のチェックイン時前払いの安宿。パスポート預けるように言われたような記憶がある。若い旅行者が多く、活気があり、わさわさしていた。1階のレストランバーでサングリアを注文すると、金魚鉢ほどの大きさの容器にドリンク、フルーツなど次々と何かが投げ込まれる。店主は鼻歌で嬉しそうに。店内の陽気なスペイン人の注目がどんどん集まってきた。ドンと目の前に置かれた金魚鉢サングリアは見た目と異なりアルコールが強く、私はグラス1杯も飲めずクラクラしてきて部屋に退散した。その後父一人でどうしたのか翌朝聞くと、一人で飲んだのだと言う。注目しているおじさん達に振る舞えば良かっただろうにと悔やまれた。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 7 ジュネーブで1泊する

2024-11-21 15:03:56 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
7.1985年 9月17日(火)晴れ
 睡眠不足で頭がボーッとしていた。
麻美の具合は大分収まったが、食事は口を通らない。
麻美にしてみると今度の旅のメインであるアルプス行きを懸念する。
昨夜の不吉な夢の話をすると断念した方が良いということで、惜しくもアルプス登頂をとりやめ下山する。

よく晴れ渡った空に山が立ち並んでそれを見る麻美であった。
途中までは昨日の路線を戻りさらに西に向かって、ベルン経由でジュネーブに着く。
麻美は汽車の中でキャラメルと果物(キウイ)を食べたら急に元気を回復し、本当に良かったと思う。
もしここで病んだものならどうしようものか。








惜しい気持ちで見つめるユングフラウヨッホ


ベルンからジュネーブ行きの列車の中のじいさん


ベルンからジュネーブ行きの一等列車内

ジュネーブの街は国際会議を持つ都市だけのことはあって活気に満ちている、日本のツアーも目立ち始め、日本人向けの店もあり、日本語の広告が目に入った。
時計店がやたらに目についた。
電気製品のほとんどが日本製品であるのには驚く。
乾物屋で日本の品のみを扱う店もあった。
駅のインフォメーションで見つけた宿は歩いて15分のところで、ロマン湖から出るローヌ川河岸通りに面したところだった。


ジュネーブホテル外観


ジュネーブホテル部屋のドア

乗り合わせたロマン湖畔遊覧船は湖畔の一部を遊覧するもので一時間ほどであった。
南湖岸には岡先生(岡鹿之助氏は父の師匠)の描いた建物が森の中に静かに佇んでいた。


ホテル部屋の窓から 湖面に浮かぶのはレストラン

ジュネーブホテル部屋の窓から


遊覧船

遊覧船 気持ちよかった

【追記】
ジュネーブに着き、湖畔の屋台でオレンジを買い食べた私は、果汁が体全体に染み入り急速に元気に取り戻すことができた。その後遊覧船に乗り、湖面の輝きと陽を浴びた時は、本当に気持ちよかった。



父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 6 ユングフラウヨッホを目指す

2024-11-16 08:29:27 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
6.1985年 9月16日(月) 小雨
宿を出る時小雨で肌寒くブルッた。
明日はアルプスに登るので、途中のウエンゲンという谷間の街まで行くことになる。

ルチェルン駅

電車は乗り換えごとに小型になり、アプト式で急坂を登る。雲の合間から手に取るようにアルプスの連山が雪をスッポリかぶる姿が見え隠れする。
高原の駅ウエンゲンに到着。
駅の看板の案内でホテルを見つけ、電話で依頼する。
ホテルから(迎えの)電動リヤカーが来て、それに乗せられて山間の木造のホテルに運ばれた。

ウエンゲン駅

ウエンゲンのホテル



夕食後麻美が胃の異常を訴える。
胃炎らしい。
機内の食事から昨日にかけて食べるらしく食べていない。
出発前会社の仕事が多忙で胃の調子を崩していたという。
苦しむが医者もない。
胃薬を飲ませ、背中をさすってやる。
そのほか施す術がなし。
不安がのしかかる。
病気保険に入っておくべきと痛切に感じる。


麻美は多少収まって眠った様子。麻美が動けなくなった時のことを考えると眠れない。一時間おきに目を覚ます。
朝になって麻美の様子は昨夜より大分良い様子だが一向に食事は口を通っていない。


ウエンゲンの町並み


【追記】
ルチェルンの街は花祭りだった。小雨が降っていたこともあり13度で肌寒い。
日本を発ったときは残暑。いきなり寒く手がかじかんだ。
雨がそぼ降る湖畔で、父はいきなりスケッチを始めた。
その後、登山鉄度でユングフラウヨッホを目指した。
持参した衣類をすべて重ね着した。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行5 スイス、ルチェルンで1泊

2024-11-09 15:03:50 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
5.1985年9月15日(日) 天気曇り ルチェルンにて

空港を出るとこれからの行動のため麻美は次々に駆け廻って手続きをとる。
ドイツ語標示で苦しむ。
言葉はフランス語で通じるのでことはスムースに運ぶ。
ここでも荷物の番であった。

列車に乗り込みある街に行くことになる。
麻美に聞いたが疲れていたのですぐに忘れてしまう。
ユーレイルパス券の初使いである。
駅には、日本のような切符切りもなければ改札もない。
ゆったりとした車掌がユーモアのある態度で検札にきた。



列車は湖水のほとりに沿って突き走る。
風景はスイスだけのことあって、信州の風景に似たところがあるけれど、民家が漫画的なところが違う。
飛行機を降りたときは日本人はたくさんいたが、どこにその姿を消したか、ちりぢりに散り、どこにも見当たらなかった。不思議に思った。

日曜で観光案内所が開いていいないため、自力で今晩の宿探しが始まる。
目星を付けておいたので、早く見つかるが13キロの荷物を背負って30分は歩く。
夜から雨が降り出し、肌寒い。日曜とあって店は閉じている。歩き回ってファミリーレストラン的なところを見つけた。飛行機の疲れで早めに寝る。


【追記】
まず1泊目はスイスのルチェルン
私は20代だったこともあり時差ぼけはなかった。(今は無理だと思う)
スイスに着いたのが朝だから、その日はスイス時間の夜になるまで頑張って起きていて、夜ぐっすり眠れば翌日から普通に動けると思っていた。当時54歳の父にも同じようにしてもらった。
今にして思えば、父は時差ぼけは大丈夫だったのだろうか。
かなり無理したのではないだろうか。
ルチェルンの街で立ったままスケッチしたこの絵は、いずこに?

【下の3点は、このブログアップ後に発見したスケッチ画です。】
ルチェルン湖畔でのスケッチ
雨の中描いている




高台のホテル前の坂道より

※この旅行記作成しながら、実家倉庫からいくつものスケッチブック発見。そこにはスケッチや日記が書き込まれていました。
そのうちの一つが雨のルチェルン湖畔で立ったまま描いているこのスケッチブック。
このときのスケッチをはじめとして、いくつかのスケッチを追加します。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 4 日本出発

2024-11-08 11:17:08 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
4.1985年9月14日(土)
麻美のは12キロ、おれが13キロのリュックを背に、玄関先で写真を撮り午前九時に下宿を発つ。(成田発PM一時半で2時間前に空港に入るため)




成田の空港では、空港拡張反対派の動きを制するために検査が重なってずいぶん時間がとられた。
麻美の肩がけバックは金属類が多く入っていたので検査にひっかかった。

麻美は手際よく小早に動き廻る。おれには荷物の番がせいぜいだった。
飛行機は韓国機で定時の13時30分に発った。
ジェット機内が珍しいのできょろついていて麻美に注意を受ける。
夏休みが終わっているので学生の姿はなく、社用族、それに科学万博帰りの韓国の人の姿が目に付く。

ソウルで3時間停まる。

ソウルを発つと日もとっぷり落ちサウジアラビヤのバーレンに向かう。気流が荒れ、夜中揺れて眠れなかった。
バーレンでは一時停泊で、麻美は二度来られるところでないからと言って、飾り品を買い込んだ。


今も拙宅リビングアクセントとなっている、バーレンの飾り物


バーレンの後はダッカに降りる。ここは警戒が厳しく機内で一時間缶詰にされた。酒・たばこが禁じられた。
(英語やらいくつかの言語の機内アナウンスの後、最後に日本語で「お酒飲まさせませ~ん、たばこ吸わさせませ~ん」と流れた。)

スイスのチューリッヒには翌15日の朝8時に着く。(日本時間15日午後3時)
成田を発って27時間。
機内での食事は飛行場を発つたびに出るので5回などと寝てる間がなかった。麻美は機内で酔って、酔い止め薬を服用して良くなった。
出る食事にはほとんど手つかずで、心配でもあった。

席はやや後方よりの中央4列の中。一番右席にヨーロッパの日本人学校にいて夏休みで日本からの帰りだという高校2年の女の子。その隣がおれ。となりに麻美。一番左は外交でヨーロッパに行かれるという40代の男性。

ソウル空港を発つとき買い込んだマイルドセブン(税抜き200本1200円)を席で吸ったが、途中禁煙を注意されてからは後ろへ立って吸った。

夜通しの飛行で外の風景は眺められなかったが、チューリッピに着くときには日の出の時刻。
上空からの眺めは見事であった。アルプスの山肌に浴びる太陽の光に映え、なんとも素晴らしい現象。

空港を出るときのチェックは簡単だった。
パスポートを見せると60歳くらいの老係官に「ゴクロウサン」と笑顔で言われちょっと面食らう。
一方心和む思いをする。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行 3 出発前日

2024-11-07 14:50:44 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年9月13日(金)晴れ
出発前日

明日14日はヨーロッパ旅行で成田を発つため、麻美の下宿に今晩は泊まるようになり、特急2時36分上田発に乗る。
麻美はいろいろ手続きがあると言って、すでに午前中に帰っていた。

塩田の田んぼの稲は黄ばみ、車中からの浅間山が心に残った。

出発すると今まで気持ちの中に堆積していた不安感のようなものが一掃。天気が良いので一層のことだ。

No.865 「追分浅間」F8 379×459㎜


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行「準備」

2024-10-30 16:51:55 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
2.出発準備

今のようにインターネットで旅の情報が収集できる時代ではない。
どうやって行程を決め、チケットを取ったかはとんと記憶にないが、無我夢中で計画を立てたあの時の気分は覚えている。

希望する行き先、パスポート準備、旅の支度について話し合うために数回長野に帰省した。
父は行きたい気持ちは強いものの、どこに行きたいは具体的にはなく、「任せる」の一言。
ただ、観光ではなく絵を描くのが目的であるということだけははっきりしていた。

では、いつでもどこでもスケッチができるように、スケッチ用具一式を入れる布製バッグを自作した。
どんな画材を持ち歩くのか確認しサイズを決め、身長に合わせて紐を付けた。服装に合うようにと黄土色のキルティングの布とグレーの紐。
帰省準備の合間に縫うのだから時間はない。ざっくり確認後いきなり布にハサミを入れるのを見た父は、「すげえな」と言い残し、アトリエに戻った。
この時の父の言葉はずっと私の勲章となっている。
(その後スケッチ旅行にはいつもこのバッグを持参していた。バッグには旅の記録が記載されている。)
父娘の旅行きっかけとなった私の一人旅はバックパックのケチケチ貧乏旅行。これがベースになっているのだから、最初からスーツケースでの旅をイメージしていない。スーツケースを転がし、日本から星がいくつか付くホテルを予約する旅では、本当の旅ではないなどと粋がっていたのだから、今回の父娘旅もバックパックの行き当たり旅。
今にして思えば54歳になる父はどう思っていたのだろう。手作り貧乏旅行に少し自慢気味だったように思える。

そうこうして大きなリュックを背負い、スケッチバックを斜めがけした50代半ばになる男の旅支度が完成したのである。

さて、ここからは父本人の日記が残っている。
スケッチブックにびっしりと書き込まれている。
これをベースに旅の話を進めよう。