バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行「準備」

2024-10-30 16:51:55 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
2.出発準備

今のようにインターネットで旅の情報が収集できる時代ではない。
どうやって行程を決め、チケットを取ったかはとんと記憶にないが、無我夢中で計画を立てたあの時の気分は覚えている。

希望する行き先、パスポート準備、旅の支度について話し合うために数回長野に帰省した。
父は行きたい気持ちは強いものの、どこに行きたいは具体的にはなく、「任せる」の一言。
ただ、観光ではなく絵を描くのが目的であるということだけははっきりしていた。

では、いつでもどこでもスケッチができるように、スケッチ用具一式を入れる布製バッグを自作した。
どんな画材を持ち歩くのか確認しサイズを決め、身長に合わせて紐を付けた。服装に合うようにと黄土色のキルティングの布とグレーの紐。
帰省準備の合間に縫うのだから時間はない。ざっくり確認後いきなり布にハサミを入れるのを見た父は、「すげえな」と言い残し、アトリエに戻った。
この時の父の言葉はずっと私の勲章となっている。
(その後スケッチ旅行にはいつもこのバッグを持参していた。バッグには旅の記録が記載されている。)
父娘の旅行きっかけとなった私の一人旅はバックパックのケチケチ貧乏旅行。これがベースになっているのだから、最初からスーツケースでの旅をイメージしていない。スーツケースを転がし、日本から星がいくつか付くホテルを予約する旅では、本当の旅ではないなどと粋がっていたのだから、今回の父娘旅もバックパックの行き当たり旅。
今にして思えば54歳になる父はどう思っていたのだろう。手作り貧乏旅行に少し自慢気味だったように思える。

そうこうして大きなリュックを背負い、スケッチバックを斜めがけした50代半ばになる男の旅支度が完成したのである。

さて、ここからは父本人の日記が残っている。
スケッチブックにびっしりと書き込まれている。
これをベースに旅の話を進めよう。




家電特訓修理法

2024-10-28 11:51:44 | ライフスタイル
家電は壊れると学習したのはいつのことだったか。
昭和生まれの私は,家電はめったに壊れないという印象を持っていたが、寿命があると知ったのはいつのことだったか。

洗濯機は使用頻度によって異なるが、「10年もてば随分頑張った方ですよ」などと家電量販店の人に言われ,買い換え、エアコン、冷蔵庫などと立て続けに買い換えた。
このエアコンついこの間買ったばかりじゃんと思い保証書探すと,意外にも10年経っていたりして。
だから家中の家電に購入日と購入店舗書いたシールを貼り付けた。

その時、買ったばかりの調子がいいコードレスクリーナーにシール貼り忘れていた。

コードレス掃除機は超便利。特に机や椅子が多い教室掃除には重宝する。
ということでジャパネットでダイソンの掃除機買った。
これが問題もので,すぐ故障。ジャパネットに言わず,直接ダイソンに言うと故障部パーツが交換で届いた。そしてまたすぐ壊れた。
すると次は交換部品到着に時間がかかるということで,代わりにと最新機種が届いた。
その後は問題なく動き続ける。
しかし,吸引力がいまいちでペットの毛は吹き上げるだけのことが多いので,次は自宅用に別メーカーのコードレス掃除機をネットで買った。

その掃除機が壊れた。
ゴミカップ洗って乾燥し、さて使おうと思うと。
電源入る。吸い込む。しかしゴミを感知すると赤ランプがつくはずが終始グリーンのままでおかしいなとは思った。そして一通りリビング掃除し終えてゴミ確認すると。
全く入っていない。犬の毛1本、ほこりのひとかけらも入っていない。

取説確認し全て対策するも,全くゴミ吸わない。
購入日確認すると調度1年半前。

メーカーに問い合わせると,「故障ですね」
延長保証つけていないので有償修理、概算18000円(送料込み)になるとのこと。

本体とスタンド式充電セット価格とほぼ同じじゃん。
納得いかないが、「高い消耗品ですね」と一言嫌み言い,修理断り電話を切った。

スイッチは入る。本体のモーターは動く。
納得いかないから廃棄前に分解してやろうと思う。
どうせ捨てるんだからテキトーに分解してみよう。
と思うものの、捨てるには未練があり、どうせ捨てるんだから、だったら
本体をバシバシ叩いてみた。
昭和生まれは家電は叩けば直ると学習しているのですよ。

そして、ホースもゴミカップも外し、本体吸い込み口に手のひらを押しつけて吸わせてみた。
ぐいぐい手のひら吸う。
吸引力もしっかりしている。
ん? 途中でモーター音が変わった? 吸い込み強くなった?
手のひらがへこむ。

再度ゴミカップとホースす装着し、スイッチ入れると。

赤ランプついた。
絨毯のゴミ、ジャンジャン吸う。
どっさりゴミ溜まる。

かくして何もなかったかのように毎日働いている。

モーターに負荷かけたのが良かったのかもしれない。


こうして、「父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行」は始まった

2024-10-26 15:19:19 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記

1.こうして、「父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行」は始まった

父は53歳で教員を退職した。
これから自然の光の下で絵が描けると喜んだ。
当時私は東京で就職し、埼玉のアパートに一人暮らししていたので退職後の父の様子は後に兄から聞いたのだが。
私は学生時代フランス語をかじったので、武者修行のつもりで卒業旅行にフランスに一人旅した。
帰国後土産話を待ち構えていた父に、「今度通訳で連れて行ってあげるよ」などと大口をたたいたのがいけなかった。
その時何のリアクションもなかったが、父の中ではフランス行きは確定していたらしい。

父の退職後2ヶ月が過ぎた時、6月に突然父から電話がかかってきた。
どこの親子もそうだと思うが、父と年頃の娘が面と向かって話すことはめったにない。たいていは母親が通訳のように間に入り、必要なことは母の口から伝えられるものだ。ましてや電話で直接話すなどそれまで皆無だったと思う。
仕事から帰るとアパートの電話が鳴った。電話口は父だった。意外な人からの電話であった。

開口一番、
「おい、いつ行くだ」

いつになったらフランスに行くのだというのだった。
全く寝耳に水。就職して2年目。いろいろ任され始めた時のことである。すぐ行けるはずがない。
私はなんと答えたのだろう。
なにかフランス行きに否定的な言葉を言ったと思う。仕事の問題もあるが、父と二人だけの旅なんてあり得ないととっさに思った。
私の返答に対する父の憤りはストレートだった。「なんだ、あれは嘘だったか」などと言われた。電話口から伝わる父の憤りに対し、あわてて「すぐには無理だけど、秋頃に行けるように計画するから」などと言い直した。
秋に行くなんて。実現の根拠は全くない。しかし先延ばししてはいけないと思わせる何かがあった。
電話だから父の様子はわからなかったが、私の一言を信じ切った父は、「待ってる」と言い電話を切った。

これが私と父とのヨーロッパスケッチ旅行の始まりである。
受話器を置いたその日から3ヶ月後、二人でヨーロッパに向かった。

1985年9月のことである。
父は旅の日記を克明に残している。それによると9月14日から10月11日、27日間の旅であった。父は旅の写真を撮る代わりにスケッチを描いたり油絵を描いた。帰国後もヨーロッパ旅の作品を多数制作している。
私の記憶が拾えるうちに、父のスケッチや油絵を交えながら「父・娘ヨーロッパ貧乏スケッチ旅行」なる記録文を書き残そうと思う。

そして全体がまとまったら、ギャラリー輝で作品とエッセイを展示してみたい。



輝クロニクル第2期展 始まります

2024-10-24 10:46:28 | ギャラリー輝
【企画展】輝クロニクル第2期展

2024年10月26日(土)~12月22日(日) ※開館は期間中の土日 
10:00~16:00

企画展準備、何とかここまでできました。
準備中,長く閉館していましたが、いよいよ週末から開館です。
作家が挑んだ制作のなかでも,特に代表作を多く残した13年間を紹介します。
上田、別所温泉にお越しの際は是非お立ち寄りください。




池田輝の画業50年を紐解くと3つのステージに分けられます

第1期 初期から春陽会準会員となるまで( ~1971年39歳)
第2期 春陽会準会員後から教員を退職するまで(1972年40歳~1984年53歳)
第3期 教員退職後から画業を閉じるまで(1985年54歳~2005年74歳)

今回の展示は第2期です。第1期展では春陽会準会員推挙までを展示しました。
 第2期展は準会員となった39歳から3年後42歳で会員となり、51歳で春陽会記念展賞を受賞し、53歳で教職を退くまでの13年間を紹介いたします。

「いったん会員となったらはずされることはないのだが、だからこそ素晴らしい絵を描かなくてはならない」と、また、出展が近づくと徹夜を続ける自分を「毎年受験生のようだ」と語っていました。輝独特の赤が表現され、作家の画風として定着したのはこの時期です。しかしその後自らの作風を破り、油絵では難しいとされる黒を中心色とした作品に挑戦しました。絵と戦い挑戦し続けた躍動の13年間です。雑誌表紙を飾り、賞を受賞するなど代表作が多いのもこの期間です。作家の挑戦を語る代表作のいくつかは他館所蔵ゆえギャラリー輝での展示はかないませんが、紙面やWEBでは画像で紹介いたします。二階小ホールにて第2期13年間の小品を展示しています。(一部制作年不詳故、同時期作品と推測されるものが含まれます。)


第2期のキーワードは『挑戦』


作家の画風が定着した後、
わざわざ作風を破る挑戦 赤から黒へ


 自由に描いてきた第1期を経て,2期では春陽会会員を目指し、そして作風の定着へと向かう。輝のフレンチバーミリオンやカーマインレッドの赤を基調とする人物シリーズが完成したのは第2期初まりの頃である。当初からの「ピエロ」を通じた人間の哀感を表現しつつも、躍動する人物像ではなく,正面を見据えどっしりと構える人物シリーズへと変遷した。その後、40代後半に定着を破ると言い、黒を基調とした画面構成に挑戦した。50歳になるというのに挑戦するのはたいしたものだと仲間は賞賛したが、輝は賞賛を目的として作風を破ったのではない。春陽会会員となった時(42歳)はこれからが大変だと自分に追い打ちをかけ、作風が定着した後はわざわざ作風を破った。挑戦をやめない作家が描く人物の目は鋭い。作品と正対すると「おいはそれでいいだか」と常に心をのぞき込んでくる。いつもこの作品をまっすぐ見返すことのできる自分でありたいと思わせる。