バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

グローバル化は危うい

2013-05-30 15:33:58 | ライフスタイル
 銀座の画廊で知人が個展をやっているので出かけてきた。
 電車には滅多に乗らないから非日常空間であることや、昼近い時間帯で空いていることから「ゆとり」ある乗客となる。何が何でも座ろうとは思わない。車窓や車内の風景を眺めるだけでも楽しい。そうやって行きは春日部からあえて各駅で銀座まで行く。ほとんどガラガラな車内で,拾い読み程度だった本を,最初からじっくり読み終えることができた。銀座駅を降り,目指す画廊まで進み,どこにも寄らずに帰りは画廊最寄りの東銀座から日比谷線に乗る。
 車内は混んでいた。そしてちょっと異様な雰囲気。中高生くらいの,思い思いにお洒落して、さりとて皆同じ趣向のファッションをして、そして皆一様にかったるそうで、さらに太めな、そんな集団が占める一角に乗り合わせた。どこかの帰りなんだなと観察するが,類は友を呼ぶとはこのことだなと思っているうちに八丁堀で皆降りた。
 電車は北千住どまりだからここで準急に乗り換えることになった。
 
 車内はそこそこに人が立つほどの混み具合で,座っている人の前に立とうと思い一瞬ためらった。
 
 つり革が,高い。
 届かないかもしれない。
 グルリと回りを見渡すと,全部この高さ。戸口にはまんべんなく人が居る。北千住を出る時大きく車内が揺れたのでとっさに目の前の、いや頭上のつり革をつかむ。
 届いた。しかし脇の下全開状態。これじゃ「はい,先生!」って挙手しているみたいで,ちょっと恥ずかしい格好。左腕をまっすぐ高く挙げながら車内見渡すと,みな適度に腕はたわんでいる。隣のおじさんなんか,90度に曲がっているし。まっすぐ手を挙げているのは,自分ともう一人の若い女性のみ。これじゃ小柄な高齢者どうすんだ!と思うと,後ろに居たおばさんは通路の真ん中のバーに抱きつくようにして立っている。そうか、このバーはつり革に届かない高齢者用なんだ。でも一人で抱えるようにして1本のバー独占なんだから、高齢者何人も居たらどうすんの?いや、そもそもつり革に届かないようなちっちゃなおばあちゃんを立たせてはいけないんだよね、などと観察しながらわかったのは、今つかんでいるつり革は低い方で,更に数センチ高いバージョンが混在していることだった。

 グローバル化を迫る社会の流れに、学校は遅れをとるまいとあたふたしているけど、こんなところはすでにグローバル化。そして否応無く旧人類は切り捨てられて行く図がはっきり見えている。
 そう言えば先日行った眼科のトイレ。洋式便器が少し高い。腰をかける瞬間と、座ると足の裏がピッタリ床に着かない違和感があった。
 便器の座面が高い方が高齢者は立ち上がりやすいとリフォーム会社の人が言っていたけど、それは違うと思う。少し高くすると立ち上がる問題の前に,座る問題が立ちはだかる。高齢者のため,日本人のためってフレーズに騙されてはいけない。

油絵のような人生

2013-05-28 07:20:43 | ライフスタイル
 油絵っていいなと思うのは,何度も描き直しができるところ。だめだったら違う色を置き直せばいい。だめだったら削って,引っ掻いて,色をはがせばいい。だめだったら全部塗り潰してもう一度描き直せばいい。さらにいいのは、そんな紆余曲折が思わぬ効果を生み絵に深みがでること。
 
 絵の初心者は最終仕上がりの色で最初から向かおうとする。例えば青い空なら最初から青で仕上げる。赤い花なら赤を塗る。そんな時絵の先生は大抵こう言う。明るく表現したい部分は先に暗い色を置いて、暗く表現したければ下に明るい色を置いておくようにと。色の重ね方にも計算がある。ただ単に紆余曲折するばかりではない。

 紆余曲折,この言葉はぴったりではない。
 今赤を塗ったのは,その時赤がベストだと思うから。すると全体のバランスが変わる。離れて目を細め全体を見ると、そこはグリーンだという声が聞こえる。これが絶対だと心が向かう。そしてグリーンを置くと,またバランスが変わりグレーが欲しくなる。常にそれがその時のベストで,これだと思い信じて進む。しかし何か心にピッタリ来ない,納得いかない。しっくりこない。苦しい。こんなはずじゃない。なにやってんだろう。こんな気持ちが溢れ,混沌としてきて、もうめちゃくちゃになって、こんな絵二度と見たくないと思ってナイフで削ってしまう。絶望。
 すると「ウワー」って声を出したくなるような深い色が思いがけなくできあがる。あのとき最良と思って塗った赤が,黒が,黄色が、それまでの色が深みになって現れてくる。捨ててしまおうと思ったキャンパスが急にいとおしくなる瞬間。
 
 このあたりまできたら仕上げに向かう。思う方に,納得いく方に向かう道が見えて来ているから、急ぐことなくゆったりした気持ちで全体をまとめる。

 人生もこんな風にいけばいいのに。

母の日

2013-05-13 12:59:40 | 感動
 近所の花屋の店頭がいつになく華やか。そうか、母の日だからだ。
 若いお父さんが男の子と女の子を連れて花を選んでいる。いい光景ですね。お母さんに内緒で買うんだね。信号待ちの間車内からそんな親子の様子を見る。
 花を選ぶ子どもたちの表情やお父さんの仕草。鉢植え持ち上げている店員さん。こんなことよくやった。母の日、父の日、誕生日。記念日に何かを用意する。当人には内緒で。そんなときの娘の表情が蘇る。
 何かいいものを見ると誰かに言いたくなる。この光景を言いたい。でもこれを言ったら母の日を強要してプレゼントを要求するみたいになるから言わない。絶対言わない,娘には。
 
 大学の入れ替え戦を見に行く。勝ちたいより勝たねばならないという緊迫感も、勝った喜びも共有できて、それだけでいい一日だったなとホクホクした気持ちで帰る時、運転席のチャーは運転しながらこちらの顔を覗き込んできた。「なに笑ってるの?」別に笑っているわけじゃないけど,いろいろ思い出していただけ。

 帰宅すると不在通知がポストに入っていた。もしかしたらこれは。そう娘からの母の日のプレゼントでした。
 ガーベラとバラをあしらったピンク系のブーケ。
 今日会った時何も言っていなかったじゃん。黙っていたんだ
 
 するとその時実家から電話がかかってきた。
 「プレゼントありがとう。素敵な色の服だね。」
 私も贈っておいて良かった。


フランス語再勉強中につき

2013-05-08 07:49:11 | バネ
 夏のカナダジュニアチームとの交流のためにフランス語学習を再会して2ヶ月が過ぎた。
 月2回、1回2時間の会話と文法のレッスン。「ある程度できる方でないとダメです」と言われ恐る恐る初回授業に参加した。
 そこはほとんど中高年の女性でなる20人ほどのクラスで、文法をフランス語で学ぶといった感じ。
 テキストにそって実に真面目に,真剣に進められるが、たった2ヶ月やっただけだけどここで得た実感は、「今更新しいことは覚えられない」ということ。
 会話を通じてふと飛び出して来るフレーズ。これは学生時代に覚えて使っていたもの。記憶の引き出しの奥にしまい込んでいたり,しまっていることすら忘れられていたものが一つ一つ探し出されて引っ張り出されてくる感じ。滑りが悪くなった引き出しをようやく開けると,中はホコリだらけで紙が散乱している。経年劣化で文字が薄れているものもある。これらを一旦外に出し,薄くなった文字は新しい紙に書き直し,順番をそろえて戻す。ついでに開けにくくなった引き出しを直しておく。こんな作業を繰り返している。学生時代のつっこみの弱さから、要するに適当な理解でスルーして文法的に追求して来なかったことが、経験による理解度の高まりから「そうなんだー」って合点がいくことはあっても、新しい引き出しを増やすことにはなかなか結びつかない。単語を調べたとて,うろ覚えのものが再確認されることはあっても、新規のものは記憶に残っていかない。しかしおもしろいことに、単語を辞書で引く、電子辞書ではなく紙の辞書。するとそこには何等かの書き込みが残されている。この単語は以前に調べたという記録が残されている。アンダーラインや書き込みを見ると、この単語を調べたときのことがフィードバックする。あのテキストのあの文のとき調べたと。

 脳みその引き出しを増やせるのは20代までなのかもしれない。年齢が上がってから全く増やせないと言うわけではないけど,若い時ほど容易には増やせなくなる。新しい引き出しを増やしたと思っても、それは100均の商品みたいで、日常的に使用するなら定着するけど、しばらく使わなかったりするとといつのまにかどこかに行ってしまったり、毎年買い直すことになる。その代わり年を重ねると若い時に増やした引き出しに、「経験」によって使い勝手に工夫を施していくことになる。引き出しの配置を変えたり,レールの滑りを良くしたり,中身を整理整頓したり。
 若い時に増やした引き出しのキャパが財産なんだなと思う。そしてその財産をどう活用するかが年の功なんだなと思う。

 学生時代に使っていた動詞活用辞典を開くと、そこにぼろぼろになったレポート用紙が1枚挟まれていた。それは動詞活用について分類整理し万年筆で書き記したもの。これをまとめようと思った当時の思い、使っていた文具、部屋、机。全てが思い出された。それだけでない。自分が手書きでまとめた文字はフィードバックさせる力も強い。自分なりに頭を整理してまとめた。その時の整理そのものがが思い出された。

 こういうことをいつも中学生に言っている。
 今はとにかく一杯詰め込もう。あとでゆっくり中身を整理整頓すればいいから,今のうちに引き出しを一杯増やしておこう。
 いつ増やす? すると、『今でしょ!』
 言われた話しがわかっているのか,何かを感じてくれたのかは疑問だけど,こういうときだけ声そろえて反応する君ら、本当だからね。今のうちに沢山増やした方がいいんだからね。

四半世紀ぶりの再会

2013-05-01 18:41:22 | ライフスタイル
いわゆるOLしていた頃。あれは20代の頃。時差通勤をいち早く取り入れた会社で、比較的ゆったりした時間に出社し、そのかわり終電で帰るような生活。帰りの電車は酔っ払いばかりで、酔いつぶれた人や絡んでくるおじさんを避けながら、息を潜めるようにやり過ごした車内。そんな生活でも週1回地元の体育館でバドミントンして帰るのが楽しみだった。そこは会社帰りの社会人だけでなく、地元の高校生やら、中央区という土地柄公人もいた。そんな「新橋烏守口青春編」的な雑多でアナログなあの時代が、つい先日のように思えてならない。そしてもっとあの時こうしておけば良かったと思うことの数々に出くわす度に、いつでもやり直しに逆戻りできるかのような錯覚に陥ってしまう。あの日から30年近くも経っているのに。

 最近NPOの関係で書類作成が続いているので、特に当時のことを思い出すのですね。こんな報告書ばっかり書いていた。それも手書きで。切り貼りしたりして。
 この連休中に全書類仕上げようと思っている矢先、「四半世紀ぶりですね」と懐かしい人から連絡があった。
 その人は先のOL時代に一緒に働いていた人。その人は社員ではなく、客員研究員でプロジェクトの調査研究、報告書を作成する研究者だった人。とても頭の切れる女性で、とても早口で、記憶力がずば抜けていた。この女性から資料の見方や調査の仕方を教えていただきなんとか仕事をこなしていた。そんな私の取り柄といえば、雑用を同時にいくつもこなすことだったかもしれない。専門分野は彼女にお任せし、それに付随する雑用の数々をできる限り効率的に終える。専門研究は力及ばなかったので、せめてこんな雑用で貢献しようと立ち働いていたわけで、するとそんな私をねぎらうかのように「すごい効率いいですね」と本気で感動してくれたいた。

 久しぶりに会いましょうということになって何度かメール連絡とり驚いたのは、なんと四半世紀前のことをつぶさに覚えていること。顔はわかる。声も思い出せる。なのにちっとも名前が出てこない。年賀状ひっくり返せば見つかるんだろうけど、それはちょっと面倒くさい。そんな調子で思い出せない人の名を、ズバズバそれもフルネームで言えるなんて。さすがに当時の記録力は健在なんですね。