バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

二人三脚?で作品整理

2019-09-20 15:40:18 | 
どうにもこうにも、作業がはかどらない。
この際徹底的に精査し、記録し、整然と並べよう! と思うものの、いっこうに進まない。

一つ作業して、ため息。
また一つ進んで、休憩。

何を遅々と進めているかというと、池田輝作品の記録。
池田輝が一生をかけた仕事の全貌をまず自分が把握し、できれば皆さんが閲覧しやすいようにデータ化し、さらには「実物はこれです!」とさっと出せるようにしたい。と思っている。

一つ一つ写真を撮り、パソコンに入力しながら、記録を残すにはもっと良い方法があるかもしれないという迷いがあるからサクサク進まないのかも?

もっと良い方法が見つかったら、その時一括変換すればいいじゃん、とは思うけど…。

こんなことなら、もっと長生きして、自分でしっかり記録残してよ、と言いたくなる。

本人が横にいて、解説入れてもらいながらこうしてパソコンに整理しているなら、それはどんなに楽しい作業だろう。

奥から古い絵を出し、並べる。
すると、父はいつもやっていたように目を細めて指をかざし構図や色を確認しながらきっとこう言うだろう。「いい絵だなー」と。

はい、次。とせかしたくなるのに、そうしていつまでも1枚の絵を眺めている父の横で、せかすのを諦めコーヒーを煎れに行く自分がいる。
1枚の絵の記録をとり、コーヒーブレイク。
結局隣に本人がいても今みたいに作業は進まないのだろう。

と、背中がぞぞっとした。
後ろで何か言っている気がする。
お彼岸だもの。



「座」1988年 S80号


「立つ」1998年 S80号


「三人」 制作年不明 P100号


「片足上げて」 F100号


「芸人の対話」1971年 F100号


はだかのはだか

2015-08-18 16:04:16 | 
先日画材屋さんで額装してもらおうと横たわる裸婦像を持ち込んだ際、「これと同じ絵がもう一枚あるはずですよ」とマスターに言われていたので、物置を捜してみた。

この物置には久しぶりに入る。
ここはいつも薄ら寒く、一人で入るのは躊躇する。

棚の一角に「人物」画がまとめて立てかけてあった。見出しとして、キャンパスサイドに「人物」と鉛筆書きした文字は確かに自分の字である。父の生前、作品をざっくり分類した日の記憶がおぼろげに蘇った。

まずはこの人物ゾーンから目当てのものを捜してみよう。
一枚一枚棚の脇からのぞき込む。最初の一枚は、「人物」と分類表記しているのに、なぜか雪山の絵。そうして全て確認するが、見つからない。2周確認する。それにしてもなぜここに風景画が人物として整理されているのかと、最初の1枚をもう一度手に取り棚から出してみると。
まさしく、それが捜していた人物画だった。

「はだかのはだか」
なるほど。
ごまかしも、てらいも虚飾もない、はだかの絵。
ここに画の本質ありと。

最初に描いたのはこのP20号サイズだったのだろう。
小さくて入らないといって急遽P25号で描き直した。
その最初のP20号がこうして見つかった。

第4回となる「はだかのはだか展」に茶系のこの絵と、この後に描き込んだ赤系の作品を出展する。



オラホの会

2015-07-29 14:47:22 | 
油絵を描き始め、人物画を追求し、裸婦デッサンに通った。そんな折、父のアトリエ物置で見つけた絵。
横たわる裸婦。タッチが荒く、サインが入っていないことから描きかけのままお蔵入りしてしまったのだろう。手製の仮額が付いているから、制作中のものをどこかに展示したのだろうか。
人物画の参考にしようと野田に持ち帰り、いつも眺めていた。
しかし、これだけの絵を独り占めしているのは良くないと思うし、仮額もグラついている。
この際だから上田に車で行く時に持って行き、遊美さんで額装してもらおうと思った。

夕方、遊美さんに絵を持ち込んだ。
奥の部屋には来客がある様子。

奥を覗き込み、輝さんの娘さんですよって紹介され、「絵を額に入れてもらいたいと思って」と切り出すと、
そこにいたお客さんは、
「どんな絵、早く見せて見せて。」
梱包をはがすと。

「この絵、知ってる。オラホの会に出した絵だ!ここで会えるなんて!」

先客は、父がこの絵を展示したときのいきさつを口早に説明してくれた。
父は春陽会以外に絵を出展することはほとんどなかったけど、なぜかオラホの会だけは出展したのだという。
オラホの会とは、東部町の教員経験者だけが会員になれるという会で、会員は50名くらいだそうだ。そもそも「オラホ」とは長野の方言で、「おら達の方では」というニュアンスかな。
そう言えば生前、東部(現東御市)の日帰り温泉に父と一緒に行ったときに、そこで地産「オラホビール」をご馳走になりながら「オラホの会」の説明を聞いたような記憶がある。絵の会のことより、集まりで飲む地ビールうまい!と楽しそうに語っていたのを思い出す。

この絵はP25という特殊サイズで、そのことからして主張が強い。

アイスコーヒーをいただきながら、当時の話を更に聞くと、そこにいらした方はなんとオラホの会の会長さんで、皆でこの絵の前で写真を撮ったなどと当時のエピソードが次から次へと出てきた。

すると「物置にこれと同じ絵があると思いますよ」と、遊美さんのご主人がおっしゃる。

先にFサイズで描いたけど、「入りきらない!」と言って父は店にやって来て、横長特注サイズP25キャンパスを遊美さんが手作りしたのだそうだ。

2001年の作品。
14年経てこうして外に出て、偶然にも深く関係した方に真っ先にお披露目することとなった。

黒い額に入れてもらうことになった。
こういうことって、あるんだね。


実は暇人

2015-01-21 10:25:06 | 
 12月から受験追い込みでずーっとザワザワしていた。
 そうやって怒濤の2ヶ月を過ごしたけど、公立高校受験生がいない今年は、先日でバネ生全員受験終了。こんな年もあるのです。ということでここ数ヵ月間脇に置いていたことに一つ一つ取りかかっている。

 まずは絵。 
 今回与えられた課題は、模写。
 バネ忙しいこともあり、先月開始の模写レッスンパスしようかと悩んだ。そもそも模写に興味がなかったし、というよりやりたくなかった。
 模写って人真似でしょ?という思いと、他人が完成させたモノをなぞるって作り上げる楽しさがないんじゃね?って??がつきまとっていた。でもわざわざ年間の課題に「模写」が入っているくらいだから、意味のあることなのだろうからスルーしたら損するかも?という気持ちもない交ぜだった。
 やるやらないと迷いながらも誰を模写するかをグルグル考えていた。ゴッホ、セザンヌ、モジリアニ等巨匠を思い浮かべ、あの絵なら真似して描いてみるのもおもしろいかもと思いながらも、突拍子もなく浮かんだのは「中川一政」。

 まずは実物を見てこようと、12月のとある日曜にバネ補習を入れずに片道3時間かけて真鶴の中川一政美術館に行ってみた。館内を3周し、流れるように画集と絵はがきを購入し、美術館前からバスで岬の突端まで行き、海岸に降り海を眺め無言で帰ってきた。まだこの時点で描く気は起きていないけど、もし描くとしたら風景は無理だなと思った。風景はその場で感じて色をおかなければできないということがはっきりわかった。そこでヒマワリに挑戦してみようと軽く決め、いくつかあるヒマワリから選んだのはP20サイズだったので、帰りにP12キャンバスを買い求めすぐに下塗りした。
 実物見たけど、画集買ったけど、キャンバス用意したけど、まだ模写が現実的でないという思いのまま、そしてここまで準備したにもかかわらず当日の朝まで忙しさを理由に今回の課題をスルーしようか迷っている自分がいた。
 
 模写が始まった。
 いざ描こうと思ったら、同じに描くことができない絵だということが改めてわかった。構図からしてよくわからない。どこが茎で葉で花びらで花瓶なのか。写真を見ながら画面を見ないようにして形をとっていったら、なんとなくだいたい同じ位置に花と花瓶とテーブルが納まった。次に色は。下に何色が入っているのか。想像するしかない。この青の下には白だろうとか、茶色の下は赤で塗りつぶしてあるなど。

 何度か描き込むが、盛り上げた絵の具が乾かないから先へ進まない。
 模写の意味がわかってきたので先へ進みたいけど取りかかれないもどかしさ。しっかり乾かしてから全体を汚している。自分もそれをやってみたい。乾かして汚す。乾かしてメチャクチャに色を置く。その作業が数回必要なんだと思う。
 キャンバスはバネの物置に入れているが、昨日の授業中に絵の具の乾燥を確認しようと物置の扉を開け少し絵の具に触れてみた。やっぱりまだ乾いていないと思い黒板の前に戻ると、
「先生、今その奥でなにやったの?」
 子どもはめざとい。じゃ、描きかけだけどみせちゃおうかとヒマワリの途中作品を前に出すと、「うわー。」の後、「先生って、ヒマなの?」だって。

 そうかもしれない。

 

出会いの春

2013-03-18 07:47:09 | 
 流山の裸婦デッサン講座に4月から通い、そこのご縁で秋から油絵講座にも通っている。夏にカナダに遠征する関係から,さびついたフランス語を蘇らせるために始めた会話講座も流山。だから最近流山への往復が多いこと。TXの影響で新住民が多いからこういう生涯学習活動が盛んな土地なのかもしれない。
 流山青少年センターで講座発表会をやるので油絵を1枚出した。出そうかどうかと迷ったけど、「必ず1枚出すように」ということだったの思い切って出した。裸婦デッサンはこれを出そうと決めていたものがどこにまぎれたのか見つからず,今回は油絵のみにした。
 絵を描く。皆口々に楽しいという。先日は「楽しく描いた絵じゃなきゃ,絵じゃない」と私の絵の前で叱責していったおじいさんもいた。楽しく描こうとは思うけど、追求を深めれば深めるほどこの作業は苦しい。色を置く。その美しさに感動。ナイフで削る。意外な効果に驚く。最初の1枚はこうだった。確かに最初は楽しかった。しかし枚数を重ねるうち、こうではない、こんなんじゃない、と苦しみの連続。やればやるほど見えていないものが見えるようになる。わかればわかるほど、次の壁がやってくる。そうこうしているうちにどこに向かおうとしているのかがわからなくなる。ただよくわかるのは、「これは違う」ということのみ。
 そんな苦しみの詰まった1枚をあえて出した。ここで油絵を描いた最初の1枚であるし、苦しいが現状だからそれを晒してしまおうと思った。

 ギャラリートークを終え帰ろうとしたら見知らぬ女性に声をかけられた。「あの人物の絵の方?なおんどさんの絵かと思いましたよ。」え?なおんどさん?
 「なおんどさん」とは上田出身の画家中村直人のこと。まず、流山で「なおんどさん」を知る人に出会ったこと。そして次に、あの絵が「なおんどさん」の絵に似ていると言われたこと。なおんどさんに似ているだなんてそんなだいそれたことをその言葉そのままに受け取ることはないけど、でもそれは苦しみをチャラにできるくらいの最高の賛辞で、目の前がパーッと開けた気分になりそのままその女性としばらく立ち話した。その女性は上田出身で、なんと高校の大先輩であることがわかった。

 こんなこともあるんだ。絵、出してよかった。



誰もミケランジェロを超えられない

2013-01-19 07:11:22 | 
 我が家で絵の仲間の新年会を開く。先生も出席。
 どこかの店でやっても良かったのだけど,長い時間落ち着いて話しなによりも父の絵を鑑賞したいという意見があったことから、うちでやることになった。

 うちに来ても普通は,多くは、掛けてある絵に言及しない。そこにあることに気づいていないかと思われることも多い。
 
 この日は違う。絵の前に立ちじっくりとなめるように見る。更には,棚、壁、そこここの「こだわり」への言及が続く。トイレに置いている写真にも。「いいアングルしてるね。」
 オブジェは空間に存在しないといけない。全てのアクセサリーをありったけ身に付けてしまうゴージャスおばさんのように、なんでもてんこもりしてはいけない。そういう「こだわり」に気づいてもらい、そこに言及される心地よさ。

 ひとしきり食事を終え、それぞれの絵の話しになる。
 「わかる」と「わからない」のカードを1まいずつ交互に積み重ねている感じであることを告げると、先生は「芸術は数学とは違い、誰もミケランジェロを超えられないんだから、それでいいんだよ。」
 この話しはこういうことだろう。芸術は数学とは違い先人の経験を借用できないのだから,常に誰も一からのスタートである。自力で零や負の数を発見し、円周率を算出しないといけない。そして「誰もがミケランジェロが到達したレベルに達していないのだから、とにかくどんどんやった方が良い。」なるほど、ということは長生きし長く続けたとしてもまだ本当の「わかった」に達せずということ。ちょっとやそっとやっただけで、「わかった」となるわけがない。

 先生とのこういったやりとりを得て、「わかる」カードを1枚乗せた。
 

雪の千曲川

2012-12-30 22:51:06 | 
 1月のリサイクルの日程変更になって年末になった。
 ここで出しそびれると次は2月になってしまう。何が何でも朝の出発準備の合間をぬって頑張って出したい。
 前日までに分類してまとめてある。その作業で面白そうな本を発見した。チャーが自分の部屋片付けて、何も仕分けないまま出して置いたゴミ。燃える、燃えない、リサイクルと分けると、中から本が数冊出てきた。PHP古い。埃をかぶっている。捨てようと一旦覚悟された物だけど、これを捨てないと物が減らないってこと分かっているけど、ゴミから拾い上げた。
 長野行きの新幹線で読む。

 [失敗][成功]というよくわからない言い方をあえて借りるなら、人生の成功とは、どういう心構えでそれを生きたか、自分にとってのその納得に尽きるでしょう。リスクを恐れて決断を避け、安寧に命を永らえたとて、そこにいかなる納得も充実もないのなら、人生とはいったい何でありましょうか。


 これは、誰?
 池田晶子さん。え?
 いつの?
 それは平成17年の号。

 拾って、よかった。

 同じくだりを車内で何度も読み返すうちに最後のトンネルを抜けた。
 そして新幹線は雪景色の千曲川沿いを走る。
 その景色を見て、ふと父の友人Sさんのことを思い出した。
 Sさんは春に絵画展で大きな賞を受賞され、同時に会員になった。80才にもなろうかというときに会員推挙とは。その永年の積み重ねの風景が今まさに目の前にある。ここら辺りで今ごろ、車で暖をとりながら千曲川を描いているかもしれない。夏にギャラリー輝でSさんの企画展できたらいいな、などと思ううちに電車は上田駅のホームに。
 
 空気が冷たい。水分を多く含んでいる。


 兄が駅に迎えに来てくれていた。
 車は駅ロータリーを出て千曲川沿いに出た。

 「Sさん、亡くなったよ。」
 数日前に連絡を受けたとのこと。

 冷たい。実に空気が冷たい。

 





 

知らぬが仏

2012-11-23 17:49:32 | 
 2ヶ月間4回で人物画を仕上げるコースに入会した。
 モデルをデッサンし、下塗りし描き込む。
 これまで自己流でやってきたことが、ここで急速にいろいろな情報が入り、それによりチャレンジの連続。とにかくやってみる。失敗したら塗りつぶして描き直せばいいのだから、とにかくやってみる。こんな気持ちで走った2ヶ月間。

 好きに描けばよいと思い数年やってきたけど、知らないことが多かったということを知り、まず本を読む。数冊拾い読みしながら、何が何でもすぐやらねばと思ったのは、画材の手入れ。
 全てのチューブや筆を2日間かけて整え、本で紹介されているもののうち必要と思われる画材をチェックし購入。

 人物画の取り組みは画材の手入れと同時進行で始まったことに加え、目の前にモデルがいるせいかいつになく丁寧に描き進めることになった。
 そのせい?
 絵に勢いがつかない。描いても描いても、絵が薄い。今までほとんどやらないできたが、本で得た情報のパレットで色を数色混ぜ描く方法にチャレンジしたせいかもしれない。絵の写真をとってもピントが合わない。全体にぼんやりしている。そうやって一月半格闘した挙げ句、抜き差しならない状態になった。絵を前にすると、胃の下の方がうずうずする。このままキャンパスを切り裂きたい気持ちになる。そんなある晩、どうせだめならと塗りつぶしてしまった。まず顔面に茶色の絵の具をドバッと塗る。衣服を白と黒で塗りつぶす。2週間後が4回目の教室で、仕上げの日だけど、もう間に合わなくてもどうでもいいという気持ちで太い筆で塗りたくった。
 すると不思議なことに、さっきまであった目や鼻を塗りつぶしたのに、逆に表情が生まれ、その人は元気になった。

 ここからの2週間が本当の格闘。絵の具が乾くのをじっと待つ。特に黒は乾くのに時間がかかる。早く描き込みたい。待てない。でも、色を濁らせないために、じっと待つ。生き返った人物は、しきりに語りかけてくる。絵の具が乾くまでもう少し待って下さいと返す。こうやること1週間。
 
 そして最終回の昨日。モデルを見ながら全体バランスを調整し、カウントダウン最中に瞳にほんの少し白を加え完成。

 完成しても何かすっきりしない。
 まだ知らないことがたくさんある気がする。そんな気持ちのせいか披露する気になれない。かといって物置にしまい込むこともできない。とりあえずしばらくは部屋に置いておこう。

一筆書きの福笑い

2012-10-05 11:21:51 | 
 裸婦デッサンは今回で6回目。
 最初から木炭で通している。
 当初は何をどうするのかわからなかったが、枚数重ねるうち、何をどうしてもいいんだということがわかり、こうしたいが芽生え、そして「こうしろ」という被写体の声を感じた今回。ほとんどを制限時間の半分程度で描き上がるようになった。もうこれ以上手を加えると無駄な線が増えてしまう。だから残り時間は何もしないで待つ。そんな制作を続けた8枚目。いつもなら後ろで何か言う先生が、今回は7枚描きあげるまで何も言わなかったのに、そこで初めて話しかけてきた。

「なにか無理にあてはめようとしている。これ以上は言わないから、どうするかは自分で気づくように。とにかく悩んで、苦労した方がいい。」
 
 目の前に、本物の肉体がある。そのリアルを前にすると、肉の盛り上がりに吸い込まれる。部分に魅了される。塊をとらえ、動きをつかむ。こんなやりとりを画面でやっていたにもかかわらず、頭で感じ、頭で描いていた。それは、日頃油絵を描く時の癖なのかもしれない。最初のデッサンは実物でやったけど、その後は写真とイメージで色を置いて描きあげている。人体はリアルさも大事だけど、それよりも色の調和を大切にしている。もちろん毎回目の前にモデルがいるならそれにこしたことはないが、そうはいかないから、わからなくなると写真で確認する程度で仕上げに向けている。

 なんたることか。
 今は目の前にモデルがいる。なのにさっきから画面ばかり見ているではないか。
 油絵で人体の細部がわからないから、こうしてデッサンをはじめたはずなのに。

 次の1枚は、できる限り画面を見ないで描くようにした。モデルだけを見る。こうだと感じ手を動かす。
 そう言えば思い出した。小学生の工作の時間、担任の先生はこう言っていた。鏡を見ながら自分の顔を描く時、画用紙を見ないで一筆書きみたいに描く様にと。そして出来上がった福笑いみたいな顔に、みんなで大笑いしたっけ。
 ああ、あれだと思いながら、しっかり5分間描く。
 
 何かわかった感あり。多分合っていると思う。
 
 答えは当分教えてもらえないと思っていたら、師曰く、「さっきは彫刻の人がやるような捉え方をしていた。そういう捉え方もあるけど、動きを捉えてほしかった。」
 帰り際に答えのような一言が。これが答えかわからないけど、少しすっきり。そして超ぐったり。

 

芸術は調和

2012-09-12 07:23:58 | 
 小学6年生達.修学旅行シーズンでポツポツと欠席が見られる。関東地方の小学生の修学旅行先は,日光。そう言えば先ほど日光に行った際、柴又のトラヤ風の店が,黄色い帽子で埋まっていたのを見た。
 まだ残暑厳しきおりなのに,日光は観光客で賑わっていた。しかし我々の今回の日光行きの目的は観光でも東照宮参拝でもなく、小杉放庵美術館で「中村直人(なかむら なおんど)展」を見ること。
 団体客や外国人がひしめくメインストリートを抜けたところに、目指す美術館があった。
 父の伯父にあたる直人さんは洋画家として知られているが,最初は彫刻家を目指していた。その彫刻時代の作品を中心に集めた展覧会だった。日本全国に散らばる、また個人所有の物も集めたとのことで、初めて見る作品が多数あった。
 入口の1室は小杉放庵の作品。その先2室目から直人さんの彫刻が並ぶ。生きているかのような立像。生活する人間像。ダイナミックさに圧倒されるというよりも、意外にも、作品はコンパクトにまとめられているなという印象をもった。デフォルメで奇をてらう作品はない。しかし1室見終える頃にわかったことがあった。
 生活者であることを思わせる立像。木々や空を感じさせる鳥。こういった被写体の心とその背景、そこに作者の心を含め,これらのバランスを保ち表現することこそが芸術の極意であり、それができるのが芸術家なのだと。見るものの心をざわつかせる事なく,腑に落ちるものにしてくれる。こうやって直人ワールドに引き込まれた頃、気づくと館内は込み合ってきた。直人ファンなのか、作品批評しながら熱心に見ている人がいた。
 直人さんの彫刻作品は子どもの頃うちにあった。床の間に置かれていたので,毎日見ることはなく目にしていた。このバランスはいつも目にしていたことになる。だからなのか、バランスよい作品というのはあまりにも当たり前なものになっていた。むしろ物足りなさを感じていたかもしれない。
 自分で絵を描く様になって,バランスがとれてちんまりまとまりそうになるのがいやで、故意に壊す。すると全体の調和が崩れるので,直す。そして壊す。そんなことを繰り返し,最終的には仕方なく落ち着きまとまった作品になる。それに対し、「よくまとまっている」と評されるが、このおとなしさが厭だった。しかし今わかったのは「まとまる」ことの大切さ。作品は見る人の心との調和も大切であり、そう言う意味で全てのバランスを保つことのできる作品は優れているものである、ということ。子どもの頃に目にしていたあの像が浮かんだ。
 美術館を出たその足で,日光彫り体験館にむかった。我々一行は直人さんを気取って作品を作ることになった。係の人が彫り方説明してくれているのに,皆もうすっかり芸術家気取りで自分の図案づくりに没頭。購入した板に鉛筆で線を入れ彫っていく。ただそれだけのこと。しかしこれが難しい。まず道具の使い方。力の入れ具合や角度で線の勢いが変わる。彫った線のやり直しがきかない。彫り過ぎたり,太すぎたり。細すぎた線をなぞり,迷い線になってしまったり。何より、何となく変。要するにバランスが悪い。うまいものを作ろうと思うプチ芸術家達は,皆気をてらおうとしていた感あり。せっかくバランスの大切さを実感したところなのに。



やればやるほど、わからないがわかる

2012-06-07 14:17:11 | 
 裸婦デッサン、3回目の今日。
 行き当たりばったりでやりながらおぼえ、酸欠や過呼吸に気をつけながら続けてきた。
 デッサンを習うというより、油絵の為のデッサンを起こす気持ちで参加していた。今日は、そのようなよこしまな考えはやめて、デッサンそのものをやってみようと思いとりくんだ。
 今までやっていないことに挑戦。これまで部分を強調しすぎた嫌いがあるから、今日は画面に全身をとりこむこと。背面からのアプローチをやめ、前面や側面にも挑戦。いろいろ変化を取り入れたというよりも、一般的に皆がやっていることを一通り自分もやってみようと思った。

 1ポーズを60分。5分で一気に描くのとは違い、じっくりできる。
 結論を言うと、今日はサッパリだった。まず全身を入れようとするから、つまらない構図になってしまった。全身を収めるということは、体の動きを捉える練習になるはずだと思っていたけど、構図が気に入らないから気持ちが乗ってこない。

 60分を2回やったけど、2枚ともサッパリ。

 最後の講評では、「いつものやり方の方が良い。自分の良さは大事にした方が良い」とのこと。

 うーん、これは深い。
 とりあえず基礎を押さえる、全てやってみる、というスタンスよりも直感を優先した方がよい場合もあるということか。
 勉強もそう。基礎から徹底しようとやっていると、いつまでたっても先にいかない場合もある。
 

作品に添える評価の意味

2012-05-01 09:10:48 | 
 公募展最終日なので、新国立美術館へ行ってきた。隣でエルミタージュ美術館展やセザンヌ展やっていたからついそちらにも入りたくなるけど、はしごする時間なし。テラスでお茶の余裕もなく、乃木坂駅から美術館までの一歩も無駄な動きのない直線ルートで往復してきた。
 地下鉄乗っている最中は気にならないのに、乃木坂駅ホームに降りた途端、『私美術館行きまっせ』風の人が急激に増える。あの人はきっと芸術家だろうと思わせる、ポリシーのこもったファッションのおばさん。地味目に正装した中高年カップル。その人の流れでワーっと駅から美術館まで歩く。しかしそのほとんどは公募展ではなく、企画展に入っていった。連休だしね。これらはまだしばらくやっているから、またの機会に平日午前中ゆっくり見るっていうことで。
 絵の価値っていうのは実はよくわからない。この絵いい!って自分が感じればそれでいいんだろうけど、そういう意味では企画展は、既に社会的評価を得た作品群だから、皆信用して安心して「ホー」ってうなることができるのですよね。その点公募展となると、もちろん審査を通った作品ばかりだからある一定のレベルをクリアしているんだけど、自由に感じながら好きな絵を鑑賞することができ、これはこれで楽しいし勉強になる。しかし自由に感じればいいとはいえ、脇に○○大賞作品などと添えられていると、やはりその作品は格別に見えるのです。受賞理由はその作品に対しての評価だけではなく、作者の永年の実績に対するものが含まれるとしても、通りすがりの鑑賞者にはそのような作者の去年までの努力は知る由もない。
 
 ダッシュでの帰路となる。
 ショッピングセンター駐車場に止めたので、駐車代金無料にするためにとにかく最後にここで買い物しないといけない。5千円以上の購入で最高5時間まで無料というのだから、ということはあと1時間以内になにがしかの買い物をしないといけない。こういう状況になると、なぜか欲しいものが思いつかなくなる。店内ぐるぐる回っても、ない。そうこうしているうちにあと45分。仕方ないから1階で食料品買うかと売り場に向かうと、コーヒー豆売り場の前に出た。そうだ,うちの豆そろそろ終わりそうだからここで買うとするか。そこそこの人だかりできているから、それなりの店なんだろうとモカ200グラム豆で購入。ついで書店に向かう。やはりここにも、いざとなると買いたい本がみつからないけど、無理矢理雑誌を買う。5千円には未だ遠いけど、店員さん曰く、これで5時間無料ですっていうから、この時点で一目散に駐車場へ向かう。とにかく早く帰りたい。駐車場出るのに20分待ち。ここはいつもこう。これじゃ、5時間すぎちゃうじゃん、ってイライラしながら外に出て、ダッシュで帰宅。
 何をそんなに急ぐかって、絵を描くため。思いついたものを一気に描きたい。とりあえず色を置かないと。
 帰宅後1時間ほど描き込んだところで、乾かないとこれ以上先へいかれないから、本日はここまで。でも、かなりスッキリした。後は数日眺めて微調整していこう。

 そして購入した豆をひいてコーヒー飲むことにした。「豆のままでいいのですね?」と若いお姉さんに念押され、お店で真空パックにしてもらったアルミの袋にハサミを入れても、香りがしない。ん?挽いている最中も香ってこない。泡がいつもの半分程度しか立たない。いぶかしい気持ちで、いれたてをソムリエ風に口の中で転がす。まずい!なんじゃ、これ!
 すっごい無駄使いした。こんなことなら、普通にコインパーク止めて、普通に駐車代払った方がよかった。
 見てきた絵の脇の受賞札は,鑑賞者へのアドバイスになるけど、コーヒー豆屋のひとだかりは必ずしもそうでないっていうこと。


濃い1時間を過ごす

2012-04-29 07:49:43 | 
 絵の当番、8時間。
 受付で暇だったら本読んだり,簡単なスケッチして時間つぶそうといろいろ持っていったけど,そんな内職できる雰囲気ではなく、ただおしゃべりするか,じっと目をつぶるか,何度も絵を見て回るかして時間を潰す。ある意味,ゆったりした贅沢な1日なんだろうけど、何もしないでただ座っているなんてのは性分に合わず,楽しもうとかくつろごうとか、まったくできない。それでもどうにかこうにか1日の折り返しまでやって来て、あと3時間、あと2時間半、あと2時間。あいにくの雨。午後には上がるとの予報だったけど、夕方になっても雨足は衰えない。残り1時間という頃には、会員の先生方もさすがに時間をもてあまし、「今日は雨だからね」と客足が伸びない会場ですっかりくつろいでいた、その時。かなり目立つ風貌の老人がふらりと入ってきた。その瞬間、会員の先生方は全員起立し,一同に緊張が走る。なんでも近所にお住まいの高名な画家先生とのこと。水戸黄門様が不意に登場状態。そして作品へのアドバイスが始まった。緊張してアドバイスを受ける会員先生の輪の後ろで,それらを立ち聞きすべくついて回った。画家先生は雑談を織り交ぜながら絵について語る,語る。絵1点、1点への批評が続くけど、おっしゃることは全ての絵においてだいたい一緒。構図の捉え方、表現方法等のアドバイスが続くけど、具体的な指摘の中に一貫する主張は絵を描く「心」。さて,自分の絵の前に来ると、「ふーん、いいね。おもしろいね」で素通り。前に出て何か一言もらえる雰囲気ではなく、先生方は、「そんな絵どうでもいいから、はやく自分の絵を見て下さい」って空気が充満する。物足りないけど、ここまで回って来たら何言われるか想像つくので、あえてアドバイスいらない気もする。それより、立ち聞きしている間に次ぎの絵の構図が浮かんで,早く描きたくて描きたくてたまらなくなってきた。画家先生が繰り返す「心」に揺さぶられ、描く気満々になってきた。あー,早く帰りたい。話しを聞きながら,頭の中で構図を描き,色を置いてみた。これいい、なんて上の空になっているうちに、お開きの時間となった。
 この日長かったけど、収穫あり。



緊張は酸欠、興奮は過呼吸

2012-04-06 10:12:22 | 
 おもしろいこと始めた。
 ひょんなことで知った、裸婦デッサンの会。
 裸婦を描く機会なんて、そうそう得られるものではない。しかし、今後も人物画を描きたいので、是非ともやっておきたいと思っていた。
 周囲は皆経験者で、昨日までの続きという感じで部屋にいる。
 とにかく初めてなんだから、なにがしらかの説明はあるだろうと思っていたけど、どうやら当てが外れたようだ。「今日はクロッキーやりますよ」と講師が他のメンバーと雑談。クロッキー、って何?そもそもクロッキーとデッサンの違いは?こんなこと聞く雰囲気でないので、あわててスマホで調べるが、よくわからん。

 1ポーズ20分を2ポーズ。続いて5分を4ポーズ。それを2セットやります、と3時間の流れの簡単な説明がある。
 クロッキーっていうんだから、とにかく線画を描けばいいんだろうと2分程度で描き終えると、講師が「皆何やっているか、全体見て回った方がいいですよ。」と耳打ちする。言われるまま、ザーと教室内歩くけど、何もつかめず。2枚目に描き直す。1ポーズの20分はこれで終了。しばしの休憩で、みんなの作品を見て回る。自分は木炭を使ったけど、コンテ、鉛筆と皆それぞれ。

 良くつかめないまま、2ポーズ目に入る。
 すると講師は後ろで少しずつ言葉を足していく。

 「もっと描き込むのです。画面真っ黒にしていいから。」
 「こすって、ぼかす場所も入れよう。」
 「紙を押さえるのにこれを使って。」
 「好きな場所に移動していいよ。」
 「もっと大きな画面で描いた方がいいから、ここで大きい画用紙買えるよ。」
 「正中線(漢字これであっていると思う)捉えて。」
 「輪郭よりも筋肉の動きを見て。」
 「遠くは弱く、強い動きは線を強く。」

 2セット目に入ったときに、わかってきた。このおもしろさが。
 皮膚の下にある筋肉、血を見る。モデルは無理な姿勢で動きを止めてくれているから、筋肉がピクピク緊張し盛り上がってくる。皮膚がピンクに染まり始める。それにつれ、こちらの息づかいが荒くなる。

 集中して絵を描くと、大抵具合悪くなる。無意識に呼吸を止めているから、たぶん酸欠状態になるのだと思う。
 きっと今日は具合悪くなるだろうなと思うが、意外にも平気。しかし家に着いた頃に、今まで経験したことのないような具合悪さ。それも数時間続いている。吐き気がずっと続く。
 酸欠?
 そう言えば、今日は途中ではぁはぁ言いながら描いていた。これは過呼吸か?
 次はマスクしてやろう。

 2セット目20分間
 

 2セット目5分間
 
 
 2セット目5分間 最終