水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
詳細は、こちらの記事をご覧ください。

Amazon等で購入できます。 また、HonyaClub で注文すれば、ご指定の書店で受け取ることもできます。

ご希望の方には、献本も受け付けております。詳細は、こちらの記事をご覧ください。

また、読書にご不自由のある方には【サピエ図書館】より音声データ(デイジーデータ)をご利用いただけます。詳細は、こちらの記事をご覧ください。

聖書黙想 2023年12月2日

2023年12月02日 14時30分18秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
<新改訳第三版 テサロニケ人への手紙第一 5章10節>
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
    *   *   *
今朝(深夜)は1時半頃に目が開いたが、またすぐ眠りに落ちた。でもその二度寝で何か妙な夢を見た。
私が色んな人に追い回されていて、入浴中に脱衣の類いを持ち去られてしまう……というようなかなりヤバい夢。悪夢っちゃ悪夢なのだが、脇役で、かつてTwitterで相互フォローだった おとうふさん、それに母教会でお世話になったAちゃん、社会人一年目に沢山助けてくれた母教会の学び会リーダーが出てきて、何かそれほど不安感が無かったという。。。
クリスチャンになったから全て苦難が消えるということは無いけど、不思議な「守り」も経験する。クリスチャンになる前は寝ても覚めても絶望しかない感じだったが、今は主が共にいてくださるんだなぁ、と折々思う。まぁこんな話をしても、殆ど説得力ないだろうけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想 2023年11月30日

2023年11月30日 17時06分22秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
今の周囲の動静は、20代の終わりの頃の状況によく似ている(あの頃は注目されるのにまだ慣れてなくて、舞い上がって高慢になって、結局発病しちゃったんだけど……)。偶像崇拝(おもに人に対する)って凄い罪だな、と思う。崇拝する側の、ってのもあるが、崇拝される側を危機に陥れるものだと思う。
   ↓  ↓  ↓
<新共同訳ヨハネによる福音書5章39〜44節>
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたし(注:イエス)について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想 2023年11月19日

2023年11月19日 11時40分56秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
出エジプト記31章、35章、36章を読んでると、主を讃えるための祭具等の用立てに誰が大きな働きをしたか、といったことが書いてあるけど、誰にやらせた、とかいう義務・任務的な記述とはちょっと違う趣きがある。
   *  *  *
新改訳第三版 出エジプト記31章2〜5節では、神様がモーセに 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである」と仰り、31章6〜11節で「見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない」と仰っているが、べツァルエルとオホリアブが神様に特別に召されたからって、こんな膨大な業務全部をこの二人に押っ付けた、ということではないと思う。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 出エジプト記35章21〜29節>
感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを主への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。
   ↓  ↓  ↓
べツァルエルやオホリアブは総指揮的な役割を担ったろうし、必要に応じて色々指示も出したろうが、そうは言っても人間である。主の祭具の全体に対して細かくディレクションできたわけではないと思う。けれど主が一人一人の心を動かしてくださったので、みんな自分の持っているものを持ち寄ったし、総指揮の二人の専門外の分野でも、知恵を出し合って女性たちは自ら織物を紡いだし、その奉仕のわざに感動した立場の高い人々も高価な献げ物をした。
   *  *  *
新改訳第三版36章2〜7節に〈モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。〉と書いてある。主が民一人一人を力づけたので、献げ物と奉仕のわざは止まないほどになったのである。
   *  *  *
今日は結局体調が整わず礼拝へ行けなかった。そろそろ礼拝が終わって、教会学校の今後についての話し合いが持たれていることだろう。先週日曜に配られた《教会学校「大人とこどもの礼拝」の今後について》というプリントでは、つまるところ「誰がやるん?」という責任問題に話の方向が向いている感がある。
出エジプト記の他にも、旧約聖書にたくさん人名が列記されている箇所があるけど、あれは「誰が責任を果たしました」という報告書と言うよりは、神様に皆さんの献げ物や奉仕は憶えられているよ、ということなんじゃないかと思う。
私はベッドの中にいて、この黙想をiPhoneで入力しているだけだから、ちょっと申し訳ないけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想 2023年11月13日

2023年11月13日 15時05分08秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
教会員が「子どもは希望だ」みたいなことを言う時に(そうね)と思う部分もあるが、(何か違うよなぁ……)と感じてしまうのも正直なところ。私自身が子どもを欲しいと思ったことが無いから言えるのかもしれないが、子どもを欲しがる人の魂胆に薄汚さを感じてしまう部分が結構ある。何と言うか、自分達の老後の世話をさせるために「子どもを作れ」とか「子無しは非生産的」とか言う政治家や、あるいは老いてきた自分達の生活資金を生み出してもらうために、若い世代に「産め」「働け」と言う為政者と似たものを感じてしまうというか。何か、子ども自身の幸せを純粋に願ってるようには感じられないというか、結局自分のためなんじゃん?って思っちゃうんだよね。
若い世代や子どもの人口は減ってるから、どこでも若者達を自分達のところに引き込もうと血眼になってるのが見え見えなんだよなぁ……(まぁそれは教会に限ったことではないけどね)。私としては、そういう下心の中高年を見てる若者が冷めてく気持ちも解る気がしちゃうんだよね。
   ↓  ↓  ↓
<新共同訳 コリントの信徒への手紙 一10章24節>
だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想 2023年11月2日

2023年11月02日 18時14分14秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
11月下旬の教会イベントは、チラシを二箇所(作業所/病院)に渡したりはしたけど、個人的には人を誘えていないなぁ……でも基本的に社交的じゃないんで、誰を誘ったらいいか分からん。。
私は根本的に打算的な人間なんだ。だから、(それ何の意味があるんですか?)っつー感じのことはしたくない(ただのダベリングとか、お洒落とか)。人嫌いなほうだし。私が人を大事にしてるように見えるとしたら、それは単に、神様が「人を愛しなさい」と仰ってるからでしかない(私はそのくらい利己的な人間)。
私は人と交わりするより、聖書を読んでるほうがよっぽど好き。人と話すのは、たとえ相手がクリスチャンであっても消耗することが多い。拙歌(付け句)「はしゃいでる人を横目に今日もまた落としどころをそっと差し出す」的な立ち回りをあまりにも要求され過ぎるため。私が西巻さんにシンパシーを感じるのは、そういう立ち位置に置かれやすいところとか、凄く自分と似たものを感じるから。

(私のただの関係妄想かもしれんけど)西巻さんは凄く御言葉の黙想に反応されてる方だなぁ、とこれまで強く感じてきた。私が深いところで聖句を探り当ててきた時に、揺り動かされてるなぁ、と。でも、西巻さんは仏教徒だし、その私の推量は勘違いだと仰るかもしれないけど。
私が人間的な努力でサポートしても、基本的には西巻さんの助けにはならないなぁ、とつくづく思う。だから私は、自分と神様の関係をナァナァにせず真摯に取り組むことが、何よりも求められてるんだな、と思う。西巻さんのことばっか書いちゃったけど、Twitterで相互フォローだった他のノンクリスチャンの方を見ててもそうだった。
   ↓  ↓  ↓
<新共同訳 ホセア書11章1〜4節>
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想 2023年10月21日

2023年10月21日 08時05分07秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
歴代誌第二9章の、ソロモンの富の詳述は、読んでも正直「あぁそうですか」としか思わない。各種の財宝やらに詳しい方が読めばそのディテールに大興奮してあるいは神を賛美するのかもしれないが、私は辛酸を舐めたダビデの苦しい歩みとその道程で漏れ出でた悲痛な詩篇のほうにずっと真実味を感じる。まぁ私が穏和な人間でない証左には違いない。
でも、ソロモンが「伝道者の書」(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」(新改訳第三版 1章2〜3節)と言い、2章4〜11節で「私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すために池も造った。私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない」(新改訳第三版)と書いたように、贅を尽くしたソロモン自身が満たされていなかったのを見ると、貧しくても主と共に歩むほうが幸いだなぁ、とつくづく思う。
列王記第一4章32節には「彼(ソロモン)は三千の箴言を語り、彼の歌は一千五首もあった」(新改訳第三版)と記されているが、歌のほうはまぁ「雅歌」があるとは言え、「詩篇」にはソロモンによる、とされているものは二つしか載っていない(72篇/127篇)。ソロモンは機知には秀でていたが、後々まで人の心を生かす詩はあまり詠めなかったのかもなぁ……
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想 2023年10月16日

2023年10月16日 18時01分23秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
2020年11月から『信徒の友』「日毎の糧」欄を見て、そこに掲載の全軒ではないがトラクト+FEBC番組表の封書を発送するようになって、色々気づけたことがある。
最初の頃は、各教会の祈りの課題を見て、それに一つ一つ真面目に応えるべく、贈るのに相応しいと思われる聖句を祈りつつ(なるべく他教会宛ての手紙に書いたものと被らないように)選んでいたが、自分でも(説教臭いよなぁ……)と思ってしまう手紙文になっていたことも間々あった。まぁ凄く悩みつつ祈りつつで、四苦八苦しながら手紙を書いていたのだが、ある教会からのご返信のお礼葉書に「お祈りいただき、ありがとうございます」と書かれてあって、(あ、そうなのかぁ……!)と目から鱗が落ちた。行き届いた聖句を書くことよりも、私がもがきつつ祈ったのが伝わったことに何より励まされていたんだな、と。
まぁ正確な時期はすぐには分からないのだが、贈る言葉が上っ面のものでなく心を込めての祈りであることが伝わるように、私はだんだん、詩編の力強い(もしくは穏やかな)御言葉をメインに、それが引き立つ(私自身が撮った)写真を添えたポストカードを作成するようになっていった(この主従関係が大事。聖句は添え物じゃない)。
そうしているうちに、私の手紙文も次第に整っていった。前は(この手紙文で励まされるだろうか?)とビクビクしながら、自分ツッコミを沢山入れていたけれども、祈っている言葉をあげつらう信徒なんていないんだな、と判ったので、似たような文言になっても、心を込めて手紙文を手書きすれば伝わると思えるようになった。
そうした心境の変化が現れてきた頃から、私は教会員が聞いている場で声を出して祈ることにも恐れが無くなってきた。私の祈りはワンパターンで良いんだ、基本的に「主が共にいてくださいますように」で、あとはただその場で込み上げてくる言葉を自然に口に出せば良いんだな、と分かってきたので、語句に囚われるのでなく、却って今までより自由に祈れるようになった。
   *  *  *
<新改訳第三版 ピレモンへの手紙6節>
私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行いをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
   *  *  *
6月から月一で始まった礼拝後の祈りの時間も、だんだん(祈りはこうじゃなきゃいけない!)という呪縛から放たれて、それぞれの祈りがお互いの欠けを補完し合っているし、何よりも私達の祈りの足らざる部分を補ってくださっている主のご臨在を感じられる、恵み深いひと時になっていると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書黙想2023年9月分まとめ

2023年09月30日 03時12分45秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆9月16日
この前の日曜礼拝後、先輩教会員Sさんから、バザーに向けて作ろうとお考えの物について相談を受けた(あるものにちょっと和める短い聖句を添えたいが、ご本人は聖書に詳しくないので、適当に聖句を見繕ってほしいというお願いだった)。トラクト前号や直近号をお読みになって、また私が月例封書に同封してきた聖句ポストカードをご覧になって着想されたのは明白だったし、素直なお心ばえが嬉しかったが、私は昨年のアドヴェントのミニバザーではカード販売に当たり事前に日本聖書協会(JBS)に著作権許諾を取って、契約に基づいて使用料を払ったことを伝えた。Sさんはタダでないことに驚いて「でも、みんな結構いろいろやっているようだけど」と仰った。私は自分の新共同訳聖書の前付の ©︎ の箇所を見せ、私の作成したポストカードにも宛名面の下方に最小サイズで、この©︎以下を印字したこと、それぞれのカードについて一枚ずつ見本を、JBSに郵送したことを話した。そして「問題は売るか売らないかですよね。売るんだったら、許諾取らないとまずいです。Sさんが善意で安価な商品を作成して献品されようとしてるのは解りますが、それを見ていて案をパクって儲けようとする人達もいますからね」と申し添えた(東京時代のBGM会社は、まさにそういう感じの上役がわんさか居た)。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 エゼキエル書33章30〜33節>
人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」
   *  *  *
BGM会社の常務は、私のことを「凄いアレンジャーだ(音楽の編曲の意味でなく、聖句を日常生活の事柄に翻案する意味において)」と仰ってたけど、結局は金に目が眩んでただけだったと思う。まぁあの会社の殆どの方々はそうだったが。


◆9月20日
BGM会社は2002年5月に正式に退職。2003年1月17日にBGM会社より私物が返却され『讃美歌・讃美歌第2編』や音楽関係の本などが戻ってきたが、聖書のNew International Versionは第一便には無し。NIVは第二便で返却されたが、6年ほど前に断捨離した日記(1,2冊/闇の時代)を付けてた頃に返却されたか、日付までは確かめられず。おそらくBGM会社の方々は、聖書を何とか利用したかったのだろう。でも多分、サムエル記第一5章〜6章のようなことが起こったのだろう。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 サムエル記第一5章1〜12節>
ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱 をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。それがガテに移されて後、主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。
   *  *  *
ペリシテ人らは災いに恐怖に陥っていたが、祭司らと話し合って、主の箱をイスラエルの元に戻した。[6章要約]
   ↓  ↓  ↓
聖句って一見甘やかだから、BGM会社の方々もパクりたかったんだろうけどね。まぁ、私にNIVを含む第二便を送らずバックレて聖書を捨てても良かっただろうに、わざわざ返却してきたところを見ると、多分おっそろしい目に遭ったんだろうね。まぁ神のみぞ知る……だが。
   ↓  ↓  ↓
<新共同訳 ヨハネの黙示録10章10節>
わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。


◆9月22日
これまでもツイートで仄めかしてきたが、BGM会社はS価の溜まり場だった。BGM会社に勤め出した頃は自宅から通勤してたが、残業も多かったし、通勤に時間かかり過ぎるしで、会社に一本の電車で通勤できるアパートに移った。アパートには途中から盗聴器が仕掛けられたっぽい(色々細かいエピソードがあるが、書き出すと切りが無いので省略)。BGM会社は警備保障のための監視システムの販売もしてたし、器具・人員の手配は簡単だったろう。ある時、会社のパンフレットを作る件で、総務の方から意見を求められた。キャッチコピー「空間バリューを創造する」を提示され、「意味を付与する」では?と私は答えた。BGMはあっても無くても良いもの。それが価値を創造するとは傲慢では、と思った。BGMは彩り程度でしかない、と。私が発病してから寛解するまでには数年かかったし、その後もあわや入院か、という状態になったことが幾度かあった。少し正気を取り戻した時にBGM会社のサイト見たら「空間バリュー」とかキャッチコピーにしてて、私はあららと思い(ダッセー!)とも思った。でもI田D作とかも「I田先生」とか崇められつつも、実際は自分の頭で考えたくない人にいいように利用されてる被害者かもね(何でも「I田先生が仰ったから」で、各人の全ての行動の責任をなすりつけてるように見える)。 BGM会社の方々は、私にI田先生の後釜でもしてほしくて、私を集団ストーカーしてたんだろうか?(それともただの欲得のため?)冗談じゃない。私は食えれば良いだけだ。金儲けや名声には興味がないんだ。私はイエス狂いで一生を全うするつもりなんだ。
   ↓  ↓  ↓
<新共同訳 テモテへの手紙一6章8〜10節>
食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
   *  *  *
<新共同訳 ルカによる福音書5章15〜16節>
しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年8月分まとめ

2023年08月31日 08時03分47秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆8月26日
通読後、改めて『信徒の友』2015年9月号と2023年3月号の特集(カルトについて)を読んだ。母教会時代、私自身が「伝道」した人で受洗したのは一人だけだったので、まぁ私はペエペエだった。成果主義的傾向やジェンハラ(ジェンダーハラスメント)が凄かったため、教友らに対し憤懣やる方ない部分もあり、怒りに燃えた私は聖書を(手引きを当てにせず)鬼のように読んだ。「求めれば与えられる」の聖句通り、神様から直の示しを受けた私は何とか教会に繋がっていた。一度は教会を去ったが、自分の中には愛が無いと悟った私は、母教会に戻る決心をして(導きも与えられ)再堅信した。母教会はヒエラルキーが濃厚な組織だったが、私が歯に衣着せぬ物言いをするので、私の直属の上の立場の方はみんな苦労していた。再堅信後の学び会のリーダー(女性)は、私が時にみんなの前で彼女に意見することがあったので怒りを露わにしたが、学び会の他のメンバーに「◯◯は愛をもって言ってくれてるんだよ」と執り成されて矛を収めたりしていたが、2000年末〜2001年初頭にかけて転機はやって来た。当時の黙想ノートを読み返したところでは「◯◯はいつも独りでいる」「いつまでに、と決めてヴィジョンを持ちなさい」と学び会リーダーに言われてたようだ。でも、そのチャレンジの言葉自体より私に残ってたのは「結果出せ(洗礼を受けさせられる人を見つけ出せ)。そして教会上層部に私達が認められるようにしろ」という人の救いを自分達の数値目標化する態度だった。また、日記を改めて見ると、母教会の牧師夫人が最善を尽くしてアドバイスした言葉を100%鵜呑みにして自分の頭は全く使わず行動して「私たち忠実でしょ?エヘ(๑˃̵ᴗ˂̵)」みたいな気構えでいる信徒らのことも書いてあった。
    *  *  *
<新改訳第三版 コロサイ人への手紙3章22〜23節>
奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。
    *  *  *
私が発病して山梨に連れてこられてから数年のうちに、母教会は内部告発があり、指導者の権威が失墜して、多くの信徒が教会を離れたり転会したりしたようだ。私は図らずも山梨に移住していたから、渦中にいた教友らの受けたダメージの大きさは与り知らないが、「ごきげんとり」のような信徒が多かったのは実際そうだったんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年7月分まとめ

2023年07月31日 04時28分18秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆7月10日
この引用ツイート【「教会の存続を“本気で”考えるなら、若者伝道や次世代への信仰継承ではなく、教会ごとの平均年齢以上(多くの場合、高齢者)の層を厚くすることに力を注ぐ方が良いですよ。60〜80代の人たちが中心に支えている共同体として維持していくべきです。今の状況をそのまま次世代の人たちに担わせるのは酷です。」というツイート】、ほんとそれよね、と思う。今の所属教会でゲンナリするのは、若い人が来たら、①小間使い②長老③伝道④教会学校など、全部その人に押っ付けようという魂胆が見え見えなこと。勿論、歳を取ると大変なんだな……というのは私も段々解ってきたが、それにしても大勢の年配教会員が寄ってたかって壮年層を褒めちぎりさえすればいいと思ってるようにしか見えないのにはウンザリ。5年ほど前、都心から引越してきた夫婦が新来会された時、確か「分区聖日」の講壇交換で隣の市の教会の牧師がお越しになっていて、礼拝後にその先生がご主人の方に「ウチの教会の(何かの)建築工事を手伝って下さい」みたいなことを頼んでて、傍で見ていた私は(新来会者にいきなりそんなこと頼む?労働力が不足してるのは分かるけど)と唖然。某年配教会員も私のところにやって来て、何とかそのご夫婦と関係作りをして、ウチの教会に居続けてもらえるよう便宜図ってくれ、みたいに懇願してきた。私は人付き合いが苦手だし、結婚したいと思う方の心中は察しかねるような変人なので、正直閉口した。結局そのご夫妻は少し離れた所の若い人・趣味の合う人がいる教会の所属になったようだ。何か教会員を見てると「伝道」の名目のためなら(あるいは自教会の存続のためなら)何をしてもいい(来会者の人権を蹂躙してもいい)とでも思ってるようにしか見えない。コリントの信徒への手紙 一 13章5節に「(愛は)…自分の利益を求めず、…」ってあるのにねぇ。
    ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 ガラテヤ人への手紙6章2節>
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
    *  *  *
<新改訳第三版 ガラテヤ人への手紙6章5節>
人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

…という御言葉もあるのに。少しは若い人の困りごとも聞いてあげたの?って思っちゃう。


◆7月29日
<新共同訳 ルカによる福音書7章2〜10節>
ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
    ↓  ↓  ↓
秒で人を癒せる主なら、最初から百人隊長の家まで出かけようとせず、〈遠隔癒し〉をすることもできたのだろう(実際、後でしている)。でも、イエスは身体をもって生きられたし、そのことを大事にしてもいたのだろう。イエスがバシバシ奇跡をしてたら、私達はただ物乞いのようにイエスに縋るだけで、自分で何もする術がなく、自堕落に過ごすしかできなかった。病人が助けを必要としているという知らせを受け、出かけていく。物理的に時間も労力もかかる。効率的ではない。でも、イエスは肉体をもって生きる私達の手本となるために、超人としての生き方を通されなかったのだと思う。この時間的・空間的制約の中で、どう行動するかを考えて動くこと。
    *  *  *
ヨハネによる福音書11章のラザロが復活させられる話で、ラザロの病気の報を受けたイエスは即座にラザロのもとに駆けつけることができなかった(6節)。理由は明示されていないが、複数の事由があったのではと思う。ラザロの姉マリアも、すぐにおいでにならなかったイエスを詰る口調だった(32節)。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」(33節)、「イエスは涙を流された」(35節)。それを見て、イエスの心根の深さに動かされる者もいれば(36節)、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)とあげつらう者も。高みの見物でなく、人間として世の中の一隅に身を置き、動揺して憤りを覚え、涙を流されるイエス。イエスが人々の感情の渦に呑み込まれつつ、人を癒すわざを行なって下さったからこそ、私達にも人間として生きながらも御心を尋ねて生きる道がひらかれているのだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年6月分まとめ

2023年06月30日 08時22分34秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆6月22日
山梨学院大学の政治学のW教授(フィヒテがご専門)はウチの教会員だったが、2014年11月に逝去。葬儀で読まれた聖句がコリントの信徒への手紙一16章13節「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」だった。当時は、その聖句に集約されるのかと少し不思議だった。
最近、作業所のある後輩の成長ぶりが目覚ましく(男らしいな……)とたびたび思ってた(他の人の作業のフォローに率先して入ったり)。昨今は「男らしい」「女らしい」という表現は忌避されるようにも感じるが、聖書には結構そういう表現出てくるよな、と少し前に調べていた。
   ↓  ↓  ↓
<新共同訳 コリントの信徒への手紙一16章13節>
目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。

<聖書協会共同訳 コリントの信徒への手紙一16章13節>
目を覚ましていなさい。信仰にしっかりと立ちなさい。雄々しく強くありなさい。

<新改訳第三版 コリント人への手紙 第一16章13節>
目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
   *  *  *
<新共同訳 ヨブ記38章3節>
男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。

<聖書協会共同訳 ヨブ記38章3節>
あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。 あなたに尋ねる、私に答えてみよ。

<新改訳第三版 ヨブ記38章3節>
さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
   ↓  ↓  ↓
約二ヶ月前、作業所の昼休みにその後輩A君が名前の呼ばれ方の、さん付け/君付け問題に拘っていたので、ちょっと突っ込んだ話をした。私は「A君はだんだん頼りにされてきてるってことだよ。A君は全体が視えているから、私もK(顧客名)のこととかで分からなかった時にA君に訊くと、私が分かるように的確に答えてくれるから、頼りにしてるんだよ。それで時々『A君、凛々しいな』って思ったりするんだよ。さん付けは尊敬が込められてるし、君付けは親しみが込められてる。尊敬と親しみの両方がこもった言い方があれば良いんだろうけど、そういうのってなかなか無いのよ。あと、これからどんどんA君より歳下の人が入ってくるんだから、段々さん付けで呼ばれるようになるんだよ。歳下の人に『A君って呼んで』なんて言ったら、ドン引きよ」と説明。そしたら理解できたっぽかった。「男らしい」という表現はともかくそういう佇まいの人っているよね。引用ツイート見て納得。
   *  *  *
※引用ツイート……平野卿子 著『女ことばってなんなのかしら?ー「性別の美学」の日本語』より、
▶︎P158の引用「「女らしさ」と「男らしさ」は一見対応しているように見えますが、その実意味合いが微妙に違います。含みのある「女らしさ」とは違い、「男らしさ」は、無条件に誉めことばなので、女らしさは過剰なときに、男らしさは足りないときに批判されるのです。」
▶︎P127の引用「女は、いつだってまわりを気にしながら生きていかざるを得ません。ですから、自己主張しようとするときは、正攻法ではなく、目立たないように裏から手を回そうとすることが多くなります。で? 行きつく先はーー意地悪」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年5月分まとめ

2023年05月31日 10時08分09秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆5月27日
私は英語を殆ど話せない(聞き取れない)割に、英語の文法で考え行動してきた。それもあって「何をどうするか」が大事で、「時間」「場所」や「新しいか古いか」なんて二義的なことと捉えて生きてきた。だから、後者を尊ぶ人が多い中では風当たりも強かったし、目的語を人から聞き出してそれに飛びつき、やってみて上手く行かなかったら、その事柄(目的語)を言った人のせいにする無責任な人達が多数の日本社会では、言質取られまくって、会社勤めでは上司や他部署の年配社員からも、仕事が上手く行かないのは私のせいにされてきた(結果的に精神病を発病した)。
神様って旧約の時代、特にモーセ五書の時代は、それこそ「何をどうするか」徹底的にご指示されてたんだな、と今日の通読のヨシュア記1章7〜8節を読んで、改めて思った。
    *  *  *
(以下、新改訳第三版の引用)
ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
    ↓  ↓  ↓
右にも左にも逸れるな……って凄い束縛じゃん!という感じがしなくもないが、まぁ神様は我が子可愛さで、民が痛い目見ないように丁寧に教えて下さってたんだろうな、と思う。「何をどうする」は施行細則を守んないと罰する、とかいうのが真意でなく、何をしたら良いか分からない人が多数いるであろうこともご存知だったんだろう。でも神様の真意が解らない民が、(これさえやってりゃOK)と誇って、できぬ他人を裁くのに律法を使ったり、あまりにも膨大なTo Do リストに逆ギレして悪行に走ったり、または自分の無力さに打ちひしがれたり……で、結果的に幸いになれぬ民が続出した。それで、神様は時に応じて預言者を立てられたり、最終的には御子を世にお遣わしになった。誰かに言葉で「何をやれ」と言われたとして、たとえ行いたい気持ちがあったとしても、それを生活の中にどう組み込んでいったら良いのかって、近くで見なきゃ分からないことって結構あるもんね。

◆5月31日
引用ツイート(5月27日の黙想)の私の傾向は、ともすると昔語りに陥り易い可能性も。神様から心が離れてると、「私は■をやった」という高慢にも、「誰々が私に▲をした」という被害妄想にも繫がり兼ねない。数字や〈新しいか古いか〉に意識が向き易い方は、そういう昔語りの人を見て、簡単に「昔のことでしょ」と裁くが、ジャッジされることで治るならとっくに治ってるわよ、と私などは思っちゃう。
    ↓  ↓  ↓
<新共同訳 ヨハネによる福音書5章2-9節>
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
    *  *  *
母教会の牧師はスパルタなノリが強く、助けてくれる人がいないと言った38年臥せってた病人に対し、イエスが「言い訳するな!甘えるな!」的に仰ったような説明をしてて、長らく私にとってこの聖句は躓きだった。でもイエスは裁いたんじゃなく、具体的に何をどうするか仰って、御言葉の力で支えたんじゃないかな、と思う。そしてイエスは、現状を自力では変えられない本人の訴え・こぼす言葉を封じることもなさらなかったのだな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年4月分まとめ[追記あり]

2023年04月30日 17時21分51秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆4月7日
通読で民数記を読んでるが、最近は忙しくてパーッと読み流してしまってる。でもふと(教会で喧々囂々の討議してるのって、ほぼこういう施行細則の部分ばかりよね……)と思った(その割に教会員の多くは民数記なんて読んでなさげ)。まぁそれはともかく、何によって生かされるか、という重要なことをもっと話し合うべきなのに、そういうことは牧師などを崇め奉って(偶像崇拝して)、「先生が仰ったことだから……!」で思考停止してる感あり。
   ↓  ↓  ↓
この「牧師などを」に躓いた方がいたかもしれないが、これは「牧師なんぞを」の意味でなく、実は「牧師とか私とかを…」の含みで書いたのだ(本当に偶像崇拝されてる感あるんだ……)。

◆4月13日
今度の日曜は教会総会である。出席できた場合は、長老候補から外してもらうために、一同の前でのガチの障害者アピールの出番だが……気を抜いてるわけではないけど、神の国と神の義を第一にしてれば、弁明の言は与えられるという信仰が芽生えてきてる(マタイ6章33節)。これは私には大きな進歩。
でもそうは言っても、毎回緊張はするんだけどさ……けれど、健康そうに見える中年・壮年層には、是が非でも役員を押し付けようとする今の教会員の風潮が変わらなければ、正直言って教会に友達を連れてきたいとは思えない(精神の方は、断るのが本当に苦手な人が多いから)。

◆4月17日
昨日の総会では、長老の被選挙人名簿に私の名前は無し。2年間の礼拝出席日数が5割切ってるとそうなるのだ。2021年度が特に欠席多かったからな。だから昨日は結局「障害者アピール」せずに済んだ。(土)に長老候補辞退の弁を全く考えぬわけでもなかった。【今でも相当の時間を教会のために割いている。もし長老になったら作業所も辞めないととても務めをこなせない。そうなると、社会との接点は病院と教会しかなくなる。それは避けたい】というのが大要。杞憂で済んで良かったが、他の方が長老辞退の弁をしてもなお選任されてしまったの見ると「他の責任あるから」では逃れられぬのかとつくづく。私の弁明のもっと不穏な案として「選ばれたら入院します」とか、もっと情緒不安定になってたら「殺す気か?」とか口走っちゃうんではと危惧してた。少し前に通読で読んでた民数記で実は何気に励まされていた。
   *  *  *
<新改訳第三版 民数記11章14〜17節>
私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
   ↓  ↓  ↓
まぁ、教会員に対して「殺す気か?」はよっぽどのことが無きゃ言っちゃ駄目だと思うけど、神様に対してはここまで率直に自分の気持ちを述べていいんだな、と。そして、神様はそのひん曲がった訴えの底の真意を見抜いて、良きお取り計らいをしてくださるんだな、と思った。

◆4月20日(4月17日の黙想の延長)
矢野顕子さんのThe Girl of Integrityが聴きたくて(日)か(月)にクローゼットから『峠のわが家』のCDを出してきた。教会総会である方が牧師先生への謝儀を増額するよう訴えていたため。先生のご労苦に感謝を表したいのは解るが、的外れな気が。それより、先生のご負担を共に担える同労者の方が有り難いのでは?
   *  *  *
[The Girl of Integrity の歌詞]
金が欲しいわけじゃない ここまで来たのは
喜ぶ顔見たいだけ ほんとにそれだけ
でも 自由 ほんとに 自由 こんなに
(後略)

◆4月30日
午前中、昨年度の週報の仕分け・断捨離をしていた。今年度の伝道方針は、昨年度に引き続き「礼拝の喜びをもって、伝道、奉仕へ」。2022年5月1日の週報では「喜んで伝道できますように」が【今週の祈りの課題】に挙げられ、2022年10月2日の週報には「韮崎の地における伝道のために」が祈りの課題に。韮崎の教会なんだし、韮崎での伝道って当たり前やん!という感じだが、当時は私が『信徒の友』[日毎の糧]掲載教会にトラクトとFEBC番組表を送ってたのへのお礼状が教会宛てにじゃんじゃん届いてたので、この祈りの課題は(ウチでも伝道して!)という牧師先生の心の叫びが図らずも現れてたかな、と。でも思うのは、私が2020年の年度主題聖句・ホセア書10章12節「恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように」(新共同訳)に促されて、『信徒の友』掲載教会に封書を送り始めてからの経緯である。同封のポストカードは最初は一般的なのを用いてたが、宛先の教会の紹介文/祈りの課題を見て、手紙の文面を都度イチから書き起こすのは非常に骨が折れたし、買い足していったポストカードブックに、写真と聖句を合わせたカードもあったので、私もカード自作してみるか?という気になったのである。だから短期的に見れば、私は外面いいだけの人になっていたろうが、その後アドヴェント期間に韮崎教会で聖句ポストカードの販売もして、大変喜ばれた。まぁ自画自賛だが、コリントの信徒への手紙 二 9章6節の「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(新共同訳)という御言葉通りだったと思う。ヨハネの福音書4章35〜38節にも〈イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」〉[新改訳第三版]とあるし。まぁでも少数の人が苦労し、他の教会員は消費者よろしく口開けて待ってるって構図はもう勘弁してもらいたい。ほんと死んじゃう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年3月分まとめ

2023年03月31日 06時51分17秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆3月16日
(*ゴミ出し後に空を撮影して)大学4年の2学期始まっても卒論の準備が何もできてなくてゼミで恥をかいた後、毎朝近所の公園に祈りに行っていたことを思い出した。朝焼けを見ながら私は次の聖句を心に留め、神様に必死で卒論のことをお祈りしていた。
   ↓  ↓  ↓
<ローマの信徒への手紙4章17〜18節>
……死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

◆3月16日
佐藤弓生さんが「自 分 に 祈 れ!」と仰ってるけど、ある程度お強い方じゃないとできない芸当だよな、と個人的には思っている。特に、自分の体調が思うに任せない私は、朝の不調だけで「詰んでしまう」感じである。自分に発破かけて何とかなるほど強くないし、自分自身も信用できない。ルカの福音書10章のマルタとマリヤの姉妹の話に対し、イエスがマリヤを贔屓し過ぎという信徒の不満も聞いたことがある。イエスがマルタの奉仕も喜んでいたとはよく解き明かされるが、マリヤが主に向き合って御言葉をいただかなければ生きることすらままならなかったのでは?ということはあまり語られない気が(牧師もある意味強者なのかも)。私が早く起きて黙想に時間をかけていることに対し、母は「家族がいたらそんなことしてる場合じゃない」と長いこと貶してきたし、作業所職員も「偏っている……!」と奇異の目で最初の頃は見ている感じだった。でも私は、イエスと過ごす時間が取れないのであれば、即刻この世から消えてなくなりたい、と思う。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 ルカの福音書10章41〜42節>
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
   *  *  *
マタイによる福音書6:33に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(新共同訳)とあるが、神の義って、正しい立派なことを行う、とか大それたことじゃなくて、神様に喜ばれる主と一対一の関係のこと。どうしてそう明言できる?という向きもあろうから、それは改めて書かないといけないだろうが、少なくとも私は、神様と過ごす朝の時間があるから、すべきことの段取りや、体調不良に対処するための策(食べ物/飲み物/服薬の各具体)、頑張るべき時か休養すべき時かの判断、相手の真意を汲み取った上での伝達の言葉などを、見つけられている。(凄く現実的な話なのだ)

◆3月30日
8:55頃に作業所に電話し「10分ほど遅れますのでお伝え下さい」と言った。9:20タイムカード打刻。半日働き、帰りはスーパーへ。帰宅すると郵便受けに昨日投函分のスマートレターが6つ入ってて「厚さ制限2cmを超えていますのでお返しします」とのこと。すぐ市の郵便局本局へ行き「差額を払いますのでまた出して下さい」と言った。すると「スマートレターとしてお引き受けできない」と。「それではコレは封筒代わりで普通郵便扱いでもいいので出せないですか」と訊くと「スマートレターの額面は無効になります」と。「普通郵便だといくらですか」と訊くと「390円です。レターパックライトなら370円で追跡機能も付きます。それに普通郵便だと4日くらいかかってしまいますが、レターパックなら翌日届きます」と。「それはどうでもいい」と答えて「レターパックライトの厚さは何cmまでですか」と質問。「3cmまでです」との返事。少し考えて「レターパックライトを9個下さい」と言い買ってきた。
   ↓  ↓  ↓
(郵便業界も大変だから、スマートレターがパァになったのはお布施ってことで)
(栞を厚くした出版社に恨みを抱かせようとするサタンの策略だな……よくある話)
(一つ仕組みが分かったのでヨシとする)
(それより、障害者は貧乏たらしく生きてないと許さん!っつー作業所職員に後で非難されないか心配)
   *  *  *
それはそうと、今回の件で、顔割れしてしまったな(マスク着けてたとは言え。窓口職員複数に思い切り差出人名を見られてた)。
何か、下記の聖句が浮かんじゃった誇大妄想家とど であった。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 イザヤ書49章7節>
イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#通読+α 2023年2月分まとめ

2023年02月28日 07時17分17秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆2月8日
今朝、新改訳第三版マタイの福音書28章19節「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」を読んでハッとした。「あらゆる国の人々」なのか、と。母教会では新共同訳でマタイによる福音書28章18〜20節を半ば標語のように読んでいて(だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け)[19節]、人類全員に洗礼授けなあかんというような解釈していた。私は(イエスは素晴らしいけど現実ムリっしょ、洗礼授けたところで離れる人もいるんだし……)と内心思っていた。「すべての民を」と言うと「全員」っぽく読めるが「あらゆる国の人々を」なら、個々人の意思に拘らず強制、みたいな感じではないな。どこの国の人でも福音に触れられるように、ということなんだな。念のためNew International VersionとNew Living Translationも確認。19節は、カンマやピリオドの打ち方に違いあるが文言は同じ(Therefore, go and make disciples of all the nations, baptizing them in the name of the Father and the Son and the Holy Spirit.)[NLT 19節]。〈make disciples of all the nations〉は、〈_of〜〉の〈〜の中から_(を)〉が肝だな。(全ての国民の中から弟子達を作りなさい、の意味)。全ての国で福音が伝えられ、それによって生かされる人がいるように、ということなんだな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする