◆1月10日
教会懇談会(団欒ではなく実務的な課題を三つ話し合う)が2/12にあるが、委員会はいつやるのかな……一昨日の長老会で決定された来年度の伝道費に基づいて、講演会なりコンサートなりの演者候補を出さんといけん筈だが。伝道委員の皆さん、少しは具体的な演者を考えておいてくれよな(お願いだよ。。)
私は人脈なんてこれっぽっちも無いんだよ(もともと社交的じゃないし)。だから祈って、検索しまくって、やっと捜し出してきてるだけなのに。。。
(見も知らぬ方に依頼するんだから、人を食い物にするような謝礼にはしたくないのに「あなたが頼むんだから、安く買い叩きなさいよ」みたいな腹の教会員が多すぎ)
* * *
<新改訳第三版 マタイの福音書7章15節>
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
◆1月26日
今日はゴミ出しに行ったが、腹痛が酷く作業所は休んだ。前は作業所に欠勤の電話するのが凄く嫌だった。電話の向こうの声から(その程度なら来られるんじゃね?)みたいな感触受けたり「今日は一日ゆっくり休んでね」と言う声のキツさに(通所できないなら倒れてないと許さない!)的なトーン感じたりで、辛かったのだ。まぁ私に(職員は裁く)という猜疑心が根強かったから(私も職員を裁いていたから)、裁き返されてたんだな。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 マタイによる福音書7章2節>
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
* * *
今は自分を甘やかし過ぎず、朝の過ごし方など工夫した上で、それでも体調が整わないなら正直に誠意を持って伝えればいいんだな、と落ち着いて話せるようになったので、裁かれてる感覚も無くなった。
* * *
<新改訳第三版 詩篇101篇1〜2節>
私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。
(※1月15日礼拝の交読詩篇より)
↓ ↓ ↓
この聖句読んでハッとした。体調悪くて休んでる時も、24時間ベッドから離れないわけじゃない(考えたら当たり前だけど)。でも前は、トイレくらいは許されるとしても、下手すると起き出してお茶淹れるのも、少し復調して家で何かするのも(仕事休んでるくせにそんなことして良いんか?)と突っ込む声が聞こえる感があった。正しい心で家の中で歩いててもいいんだな、イエス様、私のところに来て下さい、と言っていいんだな、と思えるのは幸い。
教会懇談会(団欒ではなく実務的な課題を三つ話し合う)が2/12にあるが、委員会はいつやるのかな……一昨日の長老会で決定された来年度の伝道費に基づいて、講演会なりコンサートなりの演者候補を出さんといけん筈だが。伝道委員の皆さん、少しは具体的な演者を考えておいてくれよな(お願いだよ。。)
私は人脈なんてこれっぽっちも無いんだよ(もともと社交的じゃないし)。だから祈って、検索しまくって、やっと捜し出してきてるだけなのに。。。
(見も知らぬ方に依頼するんだから、人を食い物にするような謝礼にはしたくないのに「あなたが頼むんだから、安く買い叩きなさいよ」みたいな腹の教会員が多すぎ)
* * *
<新改訳第三版 マタイの福音書7章15節>
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
◆1月26日
今日はゴミ出しに行ったが、腹痛が酷く作業所は休んだ。前は作業所に欠勤の電話するのが凄く嫌だった。電話の向こうの声から(その程度なら来られるんじゃね?)みたいな感触受けたり「今日は一日ゆっくり休んでね」と言う声のキツさに(通所できないなら倒れてないと許さない!)的なトーン感じたりで、辛かったのだ。まぁ私に(職員は裁く)という猜疑心が根強かったから(私も職員を裁いていたから)、裁き返されてたんだな。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 マタイによる福音書7章2節>
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
* * *
今は自分を甘やかし過ぎず、朝の過ごし方など工夫した上で、それでも体調が整わないなら正直に誠意を持って伝えればいいんだな、と落ち着いて話せるようになったので、裁かれてる感覚も無くなった。
* * *
<新改訳第三版 詩篇101篇1〜2節>
私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。
(※1月15日礼拝の交読詩篇より)
↓ ↓ ↓
この聖句読んでハッとした。体調悪くて休んでる時も、24時間ベッドから離れないわけじゃない(考えたら当たり前だけど)。でも前は、トイレくらいは許されるとしても、下手すると起き出してお茶淹れるのも、少し復調して家で何かするのも(仕事休んでるくせにそんなことして良いんか?)と突っ込む声が聞こえる感があった。正しい心で家の中で歩いててもいいんだな、イエス様、私のところに来て下さい、と言っていいんだな、と思えるのは幸い。
◆12月7日
新改訳第三版 ミカ書5章12〜14節「わたしはあなたの手から呪術師を断ち、占い師をあなたのところからなくする。わたしは、あなたのただ中から、刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす。あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない。わたしは、あなたのアシェラ像をあなたのただ中から根こぎにし、あなたの町々を滅ぼし尽くす。」を読んで、落ち着いた。
牧師先生ですら、目に見えるもの(人間の手で造ったもの)を崇めるような偶像崇拝に幻惑されてるんじゃないか?と思える時、御言葉の辛辣さは、本当の意味で精神を生かす。
◆12月19日
自作の聖句ポストカード販売は、計96枚売れた(1週目19枚/2週目35枚/3週目20枚/4週目22枚)。50円×96枚=4800円が売上。そこから葉書用紙(スーパーファイン紙)代(1枚8.5円を切り捨てで8円と計算)を差し引き、4032円が売上利益。小銭を貰っても昨今は困るだろうし、4000円を他教会の会堂建築に献げることにした。
笑っちゃうような少額だろうけど、マルコの福音書12章41〜43節のやもめの献金〈それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたく さん投げ入れました。〉(新改訳第三版)を思って、献げる。
3週目に買って下さった方がカードを見ながらボソッと「高い…」と呟いたので「高いですか?安いと思いますけど。用紙代もインク代も結構しますし」と答えると、コスパ的な意味で高いと仰ったようだった。その方は別の教会員が以前販売してたイラストのポストカードの売値に触れた。私は「クオリティ的には100円で売っても良いものだと自負してます。でも儲けたいというより、もっと教会員の皆さんに気軽に人を励ましてほしいと思ったから、50円にしました。100円にしたら2枚でやめとこうとなる方に、じゃあ3枚買おうか?と思ってほしかったので。この聖句ポストカードを使えば、誰かを励ます葉書を書くハードルが少しでも低くなるんじゃないかと思って」と答えた。その方は「今年のクリスマスカードはこれにするわ」と喜んで10枚買っていかれた。
◆12月27日
私は3箇所の教会(横浜の日本キリスト教団の教会/東京の母教会/現在所属の山梨の日本キリスト教団の教会)しか通ったことがないので、これから書くことには反発を覚えるクリスチャンもいるかもしれない。
* * *
今の所属教会では「伝道」という言葉が出るとみな一様に硬直する。(本当はしたくないけど、イエスは伝道するよう仰ってる……)というような。それで「伝道は教会に必要である」とか、ただの自己膨張理論的な「べき論」に終始してるのが現状。何か違うよね。礼拝に来るのは喜びがあるからなんでしょう?人間的なこと以上の何かに支えられて教会に来続けてるなら、それを語ればいいのに(勿論、言語化が難しかったり、伝えようと気負うと空振りになりがちというのも解るが)。伝道って色んな言い方あるけど、母教会では「シェアリング」とも言ってた。要は、喜びの分かち合い。
* * *
<新改訳第三版 コリント人への手紙⑵ 8章1〜4節>
さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
↓ ↓ ↓
(糧となった聖句を語るのは偉そう、牧師でもないのに……)と思ってるのかな、教会員は。じゃあ伝道って何よ?教会で大掛かりにイベント打って、一時的に人を動員することなの?多くの信徒は、主からいただいた恵みを自分の内にがっちり握り締めて、独り占めし過ぎてるように見える。
新改訳第三版 ミカ書5章12〜14節「わたしはあなたの手から呪術師を断ち、占い師をあなたのところからなくする。わたしは、あなたのただ中から、刻んだ像と石の柱を断ち滅ぼす。あなたはもう、自分の手の造った物を拝まない。わたしは、あなたのアシェラ像をあなたのただ中から根こぎにし、あなたの町々を滅ぼし尽くす。」を読んで、落ち着いた。
牧師先生ですら、目に見えるもの(人間の手で造ったもの)を崇めるような偶像崇拝に幻惑されてるんじゃないか?と思える時、御言葉の辛辣さは、本当の意味で精神を生かす。
◆12月19日
自作の聖句ポストカード販売は、計96枚売れた(1週目19枚/2週目35枚/3週目20枚/4週目22枚)。50円×96枚=4800円が売上。そこから葉書用紙(スーパーファイン紙)代(1枚8.5円を切り捨てで8円と計算)を差し引き、4032円が売上利益。小銭を貰っても昨今は困るだろうし、4000円を他教会の会堂建築に献げることにした。
笑っちゃうような少額だろうけど、マルコの福音書12章41〜43節のやもめの献金〈それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたく さん投げ入れました。〉(新改訳第三版)を思って、献げる。
3週目に買って下さった方がカードを見ながらボソッと「高い…」と呟いたので「高いですか?安いと思いますけど。用紙代もインク代も結構しますし」と答えると、コスパ的な意味で高いと仰ったようだった。その方は別の教会員が以前販売してたイラストのポストカードの売値に触れた。私は「クオリティ的には100円で売っても良いものだと自負してます。でも儲けたいというより、もっと教会員の皆さんに気軽に人を励ましてほしいと思ったから、50円にしました。100円にしたら2枚でやめとこうとなる方に、じゃあ3枚買おうか?と思ってほしかったので。この聖句ポストカードを使えば、誰かを励ます葉書を書くハードルが少しでも低くなるんじゃないかと思って」と答えた。その方は「今年のクリスマスカードはこれにするわ」と喜んで10枚買っていかれた。
◆12月27日
私は3箇所の教会(横浜の日本キリスト教団の教会/東京の母教会/現在所属の山梨の日本キリスト教団の教会)しか通ったことがないので、これから書くことには反発を覚えるクリスチャンもいるかもしれない。
* * *
今の所属教会では「伝道」という言葉が出るとみな一様に硬直する。(本当はしたくないけど、イエスは伝道するよう仰ってる……)というような。それで「伝道は教会に必要である」とか、ただの自己膨張理論的な「べき論」に終始してるのが現状。何か違うよね。礼拝に来るのは喜びがあるからなんでしょう?人間的なこと以上の何かに支えられて教会に来続けてるなら、それを語ればいいのに(勿論、言語化が難しかったり、伝えようと気負うと空振りになりがちというのも解るが)。伝道って色んな言い方あるけど、母教会では「シェアリング」とも言ってた。要は、喜びの分かち合い。
* * *
<新改訳第三版 コリント人への手紙⑵ 8章1〜4節>
さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
↓ ↓ ↓
(糧となった聖句を語るのは偉そう、牧師でもないのに……)と思ってるのかな、教会員は。じゃあ伝道って何よ?教会で大掛かりにイベント打って、一時的に人を動員することなの?多くの信徒は、主からいただいた恵みを自分の内にがっちり握り締めて、独り占めし過ぎてるように見える。
◆11月12日
少し散歩。広い空を見て何となく、神様がここに呼んで下さったなと。私が母教会時代、最初期に伝道した人は(たまたま)S価の人だった。私は神様に(S価の人が救われるために何でもします)的な祈りを。受洗一年目は思えば無謀な祈りを沢山した。でも、神はその一つ一つを覚えていて道備えをして下さったと思う。S価の坩堝のBGM会社に入ったことも。発病して、S価の根強い山梨に連れて来られたことも(作業所には三人S価の人が)。自分の栄光にしやすいことは何一つ叶えられず、私には誇れぬ形で働かれてる神様に、私は本当に愛されてる。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 エフェソの信徒への手紙3章20〜21節>
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
◆11月16日
午後は、アドヴェント第一週に教会で販売するポストカード36枚(12種類×3枚)をプリントアウト。慎重に印刷したせいもあるのか、一時間半ほどかかった。夕方少し散歩しようかと思ってたが、疲れたし暗くなってきたので今日はやめとく。
ウチの委員会で計画してる12月3日の「こどもクリスマス会」は委員会の予算の関係で、今年はお土産のお菓子は無しとなってたが、11月13日の礼拝に行ったら有志が手作りケーキを礼拝後に販売してた(その売上をこどもクリスマス会のお菓子代として献金して下さるのだそう)。
私が10月23日に礼拝当番した際、前日に思いつきレイアウト→印刷したポストカード見本(A4が3枚)をバザー委員長に見せ、売上の献金先などを相談した時、案外目立ってしまっていたと思う。バザー委員長が、封筒に「◯◯用献金」と指定して献金を集める袋に入れれば、それ用に充てて下さると私に答えていたのを、ケーキを販売した有志の方は聞いていたのかも。
私の行動の影響があったかどうかは分からんが、コリントの信徒への手紙 二 9章10節「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(新共同訳)の通りで、アーメンと思った。
少し散歩。広い空を見て何となく、神様がここに呼んで下さったなと。私が母教会時代、最初期に伝道した人は(たまたま)S価の人だった。私は神様に(S価の人が救われるために何でもします)的な祈りを。受洗一年目は思えば無謀な祈りを沢山した。でも、神はその一つ一つを覚えていて道備えをして下さったと思う。S価の坩堝のBGM会社に入ったことも。発病して、S価の根強い山梨に連れて来られたことも(作業所には三人S価の人が)。自分の栄光にしやすいことは何一つ叶えられず、私には誇れぬ形で働かれてる神様に、私は本当に愛されてる。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 エフェソの信徒への手紙3章20〜21節>
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
◆11月16日
午後は、アドヴェント第一週に教会で販売するポストカード36枚(12種類×3枚)をプリントアウト。慎重に印刷したせいもあるのか、一時間半ほどかかった。夕方少し散歩しようかと思ってたが、疲れたし暗くなってきたので今日はやめとく。
ウチの委員会で計画してる12月3日の「こどもクリスマス会」は委員会の予算の関係で、今年はお土産のお菓子は無しとなってたが、11月13日の礼拝に行ったら有志が手作りケーキを礼拝後に販売してた(その売上をこどもクリスマス会のお菓子代として献金して下さるのだそう)。
私が10月23日に礼拝当番した際、前日に思いつきレイアウト→印刷したポストカード見本(A4が3枚)をバザー委員長に見せ、売上の献金先などを相談した時、案外目立ってしまっていたと思う。バザー委員長が、封筒に「◯◯用献金」と指定して献金を集める袋に入れれば、それ用に充てて下さると私に答えていたのを、ケーキを販売した有志の方は聞いていたのかも。
私の行動の影響があったかどうかは分からんが、コリントの信徒への手紙 二 9章10節「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(新共同訳)の通りで、アーメンと思った。
◆10月19日
私が社会人一年目の秋に、母教会で同じ聖書学び会だったリーダーは工学を修めた方だったが、割と啓発的な本を読んでいる方だった。社会人一年目、私は会社では碌に教えてもらえなかったので、彼に倣ってカーネギーを二冊ばかり読んだ。もうそれらは手元にないが、『道は開ける』は、マタイによる福音書6章34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 (新共同訳)を、具体的な誰彼の人生を挙げて、含めるように読者に言い聞かせる本だったと思う。読んだ時はそれなりに圧倒されたが、私の心労は減らず。(そうは言ったって、誰が問題を解決してくれるんよ?……自分じゃん!)という思いが拭えなかったのだ。このマタイ6:34の御言葉が腑に落ちるようになってきたのはここ一、二年だと思う。なぜ楽観的になれてきたかと言えば、神様に心を預けて人生を歩むことで(本当に神様は守って下さった……!)という実感を重ねてこられたからだろう。以前は、最悪の事態を想定し先手先手で行動し、疲労困憊してた。小さい頃、母に「あんたは努力しないと駄目だ」と言われてたのもずっと呪縛になっていた。私はどの程度努力すればいいのか判らなかったのだ。それで(倒れるまでやれば辛うじて許してもらえるだろう)というマインドになっていった。勉強も、大学のサークル活動も、死ぬ思いでやった(それで身体を壊した)。会社勤め始めてからも必死で仕事をした。社会は矛盾だらけ。過大な要求を突き付けておいて、それをこなそうと無茶すると「普通」からはみ出ないようにやれ、と言う。まるで、カーネギーの『人を動かす』をタイトルだけ見て勘違いしているような人達ばかりだった(同書は良書だった記憶があるが、詳細は覚えていない)。人の押し付けてきた仕事をこなすために平日は忙殺されており、有給を取った日に出勤してようやく自分自身の仕事をこなしている状態だった。私が精神を病んで障害者になったことは、他人からは気の毒に見えるかもしれないが、私としては、守ってもらえる盾をやっと得たという感覚が強い。
* * *
<新共同訳 詩編127編1〜2節>
主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
↓ ↓ ↓
今、この御言葉の真実さを信じて(主は、私に与えた役目を、私が充分休息を取った上でやり遂せるよう、判断力・思い巡らす時間・体力などを備えて下さる、と信じて)過ごせることは、本当に幸いである。
◆10月24日
[*2020年2月21日作歌の拙歌「報酬を多くもらうは搾取だと四年の学びの末の結論」を引いた上で、詐欺メールへのエアリプ]
今もらってる障害年金額は、私の初任給の手取りと大して変わらん。(年金は精神二級。慎ましく暮らすのには慣れてる)(猜疑心つよい人達からの圧迫で、当時の給与明細写真を晒す必要がそのうち出てくるかもね)(まぁ物価は上がってるしいずれ切迫感は出てくるかも、だが)
↓ ↓ ↓
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙4章11〜13節>
物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
◆10月31日
私は何でも卒なく振る舞うことができない。例えば、用事が控えているので教会の大掃除を途中で抜け出そうとしたのに、忘れ物をしたため取りに戻って大いに目立ってしまい、気まずい思いをしたり。まぁその程度のことならバッシングはされないが、他のシチュエーションでは非難されたこともあった(他のクリスチャンが着物を着付けてくれるというので従ったら礼拝に遅刻し、私のみ牧師に批判された)。仕事の段取りを組むのも大層下手で、多々失敗してきた。今は「できる人」みたいに見られることも増えたが、私としてはただ経験値を積んだからだとハッキリ言える。私は傍からも(模索中なんだな)とか(忘れてたことを今思い出したんだな)とか、分かりやすいためか、私を見ていると色んな気づきを得られるらしく、一挙手一投足が注目されてる感じがある。見られていることは時々重荷だが、自身が神に喜ばれる生き方ができるように守られているのも感じている。
* * *
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙5章1〜2節>
大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
↓ ↓ ↓
私はあまりにも不器用だったから、投げ槍な指示や命令に翻弄されてきた半世紀だった。けれど、その時々で掴み取ってきたものが今活きているというのを強く感じる。しかし私は元々傲慢な人間なので、少し学び始めると先生ヅラして教えたがるところが。だから、神様が私に地位を与えなかったのは周りの方々のためでもあり、私自身のためでもある。そのことを主に示されているのは幸いである。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇119篇73〜74節>
あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
(*9月18日礼拝の交読詩篇より)
私が社会人一年目の秋に、母教会で同じ聖書学び会だったリーダーは工学を修めた方だったが、割と啓発的な本を読んでいる方だった。社会人一年目、私は会社では碌に教えてもらえなかったので、彼に倣ってカーネギーを二冊ばかり読んだ。もうそれらは手元にないが、『道は開ける』は、マタイによる福音書6章34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 (新共同訳)を、具体的な誰彼の人生を挙げて、含めるように読者に言い聞かせる本だったと思う。読んだ時はそれなりに圧倒されたが、私の心労は減らず。(そうは言ったって、誰が問題を解決してくれるんよ?……自分じゃん!)という思いが拭えなかったのだ。このマタイ6:34の御言葉が腑に落ちるようになってきたのはここ一、二年だと思う。なぜ楽観的になれてきたかと言えば、神様に心を預けて人生を歩むことで(本当に神様は守って下さった……!)という実感を重ねてこられたからだろう。以前は、最悪の事態を想定し先手先手で行動し、疲労困憊してた。小さい頃、母に「あんたは努力しないと駄目だ」と言われてたのもずっと呪縛になっていた。私はどの程度努力すればいいのか判らなかったのだ。それで(倒れるまでやれば辛うじて許してもらえるだろう)というマインドになっていった。勉強も、大学のサークル活動も、死ぬ思いでやった(それで身体を壊した)。会社勤め始めてからも必死で仕事をした。社会は矛盾だらけ。過大な要求を突き付けておいて、それをこなそうと無茶すると「普通」からはみ出ないようにやれ、と言う。まるで、カーネギーの『人を動かす』をタイトルだけ見て勘違いしているような人達ばかりだった(同書は良書だった記憶があるが、詳細は覚えていない)。人の押し付けてきた仕事をこなすために平日は忙殺されており、有給を取った日に出勤してようやく自分自身の仕事をこなしている状態だった。私が精神を病んで障害者になったことは、他人からは気の毒に見えるかもしれないが、私としては、守ってもらえる盾をやっと得たという感覚が強い。
* * *
<新共同訳 詩編127編1〜2節>
主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
↓ ↓ ↓
今、この御言葉の真実さを信じて(主は、私に与えた役目を、私が充分休息を取った上でやり遂せるよう、判断力・思い巡らす時間・体力などを備えて下さる、と信じて)過ごせることは、本当に幸いである。
◆10月24日
[*2020年2月21日作歌の拙歌「報酬を多くもらうは搾取だと四年の学びの末の結論」を引いた上で、詐欺メールへのエアリプ]
今もらってる障害年金額は、私の初任給の手取りと大して変わらん。(年金は精神二級。慎ましく暮らすのには慣れてる)(猜疑心つよい人達からの圧迫で、当時の給与明細写真を晒す必要がそのうち出てくるかもね)(まぁ物価は上がってるしいずれ切迫感は出てくるかも、だが)
↓ ↓ ↓
<新共同訳 フィリピの信徒への手紙4章11〜13節>
物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
◆10月31日
私は何でも卒なく振る舞うことができない。例えば、用事が控えているので教会の大掃除を途中で抜け出そうとしたのに、忘れ物をしたため取りに戻って大いに目立ってしまい、気まずい思いをしたり。まぁその程度のことならバッシングはされないが、他のシチュエーションでは非難されたこともあった(他のクリスチャンが着物を着付けてくれるというので従ったら礼拝に遅刻し、私のみ牧師に批判された)。仕事の段取りを組むのも大層下手で、多々失敗してきた。今は「できる人」みたいに見られることも増えたが、私としてはただ経験値を積んだからだとハッキリ言える。私は傍からも(模索中なんだな)とか(忘れてたことを今思い出したんだな)とか、分かりやすいためか、私を見ていると色んな気づきを得られるらしく、一挙手一投足が注目されてる感じがある。見られていることは時々重荷だが、自身が神に喜ばれる生き方ができるように守られているのも感じている。
* * *
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙5章1〜2節>
大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
↓ ↓ ↓
私はあまりにも不器用だったから、投げ槍な指示や命令に翻弄されてきた半世紀だった。けれど、その時々で掴み取ってきたものが今活きているというのを強く感じる。しかし私は元々傲慢な人間なので、少し学び始めると先生ヅラして教えたがるところが。だから、神様が私に地位を与えなかったのは周りの方々のためでもあり、私自身のためでもある。そのことを主に示されているのは幸いである。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇119篇73〜74節>
あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
(*9月18日礼拝の交読詩篇より)
◆9月19日
2021年8月10日に私はTwitterで「お盆休み中に、自前の写真に聖句を添えたポストカードをいくつか作ろうかな(趣味と実益)。実益、って言っても売りませんよ。トラクトとFEBC番組表を『信徒の友』に載ってる教会宛てに発送する際の、〈便箋〉代わりにするだけで。」とツイートしていた。だが、Twitterの相互フォローの方の昨年11月初旬のツイート見て、私は2022年度計画としてウチの教会でもアドヴェント期間のミニバザーできないかと、昨年11月末に長老の一人に提案した。言い出しっぺとして、私は自作の聖句ポストカードを出品・販売しようかと(勿論、販売に当たっては日本聖書協会に許諾取り、使用料も自腹で払うつもりで)。長老会ではそのミニバザーの提案を前向きにご検討下さったが、今年の教会研修会で牧師先生が「個人の責任でチャリティバザーを」と伝道の一案として仰ってて、あぁそういう伝わり方なんだなと。まぁ私も「カード販売します」と宣言してたわけではないし、教会側に手間と経済的な負担が来るのは困るという先生の立場も解った。それで©︎をポストカードの宛名面下方に入れたり、日本聖書協会(JBS)に許可願いの連絡入れたりの作業を、8月下旬〜9月上旬に予定にしてたが、私事の進展があり、また9月初めにプリンタが作動しなくなって、著作権業務は延ばし延ばしに。でも何とか純正インクを購入して、トラクト+FEBC番組表の発送が軌道に乗ってきたので、さぁJBSへの連絡もそろそろ……と思ってた矢先に、ウチの教会の計画性の無いメッセージカード封入(長期欠席者への週報発送時に)の思いつきが。そもそも誰がそのカードを作るかとか考えて議決してるの?まぁ牧師先生も数名の教会員も私のblogの存在に気付いてる風だから(自作ポストカードのことも知ってて)、いざとなれば私を拝み倒せばいいと思ってるのかもしれんが……全く教会は人使いが荒いよ。ハッキリ言っておくが、人使い荒いのはカルトだけじゃないよ。コリントの信徒への手紙 一 6章7節に、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(新共同訳)ってあるし、必要あれば要求に応じてもいいけど、少しは印刷時間の捻出などのことも考えてほしい。
◆9月21日
所属教会の9月18日の礼拝説教を聴いて実はモヤモヤした。献金の祈りの言葉について牧師先生がややキツいことを。どうも私などが数年前から献金の祈りで「今ここに献げましたものは、あなたからいただいたもの一部です」と祈ってるのがお気に召さぬらしく、「ここに献げましたものは私達の献身の証しです」と祈らないとご不満な様子。元々は私も他の教会員に倣って「〜献身の証しです」と祈ってたが、それを真似てたのはぶっちゃけ(カッコいいフレーズ!)と思ったから。でもある時「あなたからいただいたもの一部です」と某教会員が祈ってたのを聞き、ハッとした。(そうだ!「献身の証し」なんて、見せつけ感が強くて烏滸がましい……)と思って変えたのだ。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 マタイによる福音書6章 3-4節>
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
……とあるしなぁ、と。でも「一部です」祈りに対する牧師先生のやや侮蔑的な口調に反発を覚えたが、少し祈って、次の聖句が浮かんだ。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 コリントの信徒への手紙二 9章7〜8節>
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
* * *
<新共同訳 コリントの信徒への手紙二9章10節>
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
↓ ↓ ↓
それで、私は「今こうして献げられましたのは、あなたが私達に十分に恵みを下さったからです。どうぞご用のためにお用い下さい」と祈ると決めた。
2021年8月10日に私はTwitterで「お盆休み中に、自前の写真に聖句を添えたポストカードをいくつか作ろうかな(趣味と実益)。実益、って言っても売りませんよ。トラクトとFEBC番組表を『信徒の友』に載ってる教会宛てに発送する際の、〈便箋〉代わりにするだけで。」とツイートしていた。だが、Twitterの相互フォローの方の昨年11月初旬のツイート見て、私は2022年度計画としてウチの教会でもアドヴェント期間のミニバザーできないかと、昨年11月末に長老の一人に提案した。言い出しっぺとして、私は自作の聖句ポストカードを出品・販売しようかと(勿論、販売に当たっては日本聖書協会に許諾取り、使用料も自腹で払うつもりで)。長老会ではそのミニバザーの提案を前向きにご検討下さったが、今年の教会研修会で牧師先生が「個人の責任でチャリティバザーを」と伝道の一案として仰ってて、あぁそういう伝わり方なんだなと。まぁ私も「カード販売します」と宣言してたわけではないし、教会側に手間と経済的な負担が来るのは困るという先生の立場も解った。それで©︎をポストカードの宛名面下方に入れたり、日本聖書協会(JBS)に許可願いの連絡入れたりの作業を、8月下旬〜9月上旬に予定にしてたが、私事の進展があり、また9月初めにプリンタが作動しなくなって、著作権業務は延ばし延ばしに。でも何とか純正インクを購入して、トラクト+FEBC番組表の発送が軌道に乗ってきたので、さぁJBSへの連絡もそろそろ……と思ってた矢先に、ウチの教会の計画性の無いメッセージカード封入(長期欠席者への週報発送時に)の思いつきが。そもそも誰がそのカードを作るかとか考えて議決してるの?まぁ牧師先生も数名の教会員も私のblogの存在に気付いてる風だから(自作ポストカードのことも知ってて)、いざとなれば私を拝み倒せばいいと思ってるのかもしれんが……全く教会は人使いが荒いよ。ハッキリ言っておくが、人使い荒いのはカルトだけじゃないよ。コリントの信徒への手紙 一 6章7節に、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(新共同訳)ってあるし、必要あれば要求に応じてもいいけど、少しは印刷時間の捻出などのことも考えてほしい。
◆9月21日
所属教会の9月18日の礼拝説教を聴いて実はモヤモヤした。献金の祈りの言葉について牧師先生がややキツいことを。どうも私などが数年前から献金の祈りで「今ここに献げましたものは、あなたからいただいたもの一部です」と祈ってるのがお気に召さぬらしく、「ここに献げましたものは私達の献身の証しです」と祈らないとご不満な様子。元々は私も他の教会員に倣って「〜献身の証しです」と祈ってたが、それを真似てたのはぶっちゃけ(カッコいいフレーズ!)と思ったから。でもある時「あなたからいただいたもの一部です」と某教会員が祈ってたのを聞き、ハッとした。(そうだ!「献身の証し」なんて、見せつけ感が強くて烏滸がましい……)と思って変えたのだ。
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<新共同訳 マタイによる福音書6章 3-4節>
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
……とあるしなぁ、と。でも「一部です」祈りに対する牧師先生のやや侮蔑的な口調に反発を覚えたが、少し祈って、次の聖句が浮かんだ。
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<新共同訳 コリントの信徒への手紙二 9章7〜8節>
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
* * *
<新共同訳 コリントの信徒への手紙二9章10節>
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
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それで、私は「今こうして献げられましたのは、あなたが私達に十分に恵みを下さったからです。どうぞご用のためにお用い下さい」と祈ると決めた。
◆8月31日
(母教会を)離れた人による母教会への恨みつらみは、『信徒の友』の過去の特集にもFEBCの某日の礼拝説教にも出てきたけど、何かそれらは母教会の運営方法への恨みが多かったな。でも私が母教会で一番困ったことは、あれこれの指示より「どうスケジュールしたら良いですか?」って祈っていいと教えてくれなかったこと。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 箴言19章21節>
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
* * *
この御言葉はあまり好きじゃない信徒もいるかもな。どうせ人間が何考えたって駄目なわけね、人間は神様の奴隷なのね……と厭世的な気持ちにさせるというか。でも下記聖句もある。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 箴言16章9節>
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
* * *
自分の人生を神様に丸投げにするんじゃなくて「計画」して良いんだよ。それに沿って神様が「一歩一歩を備えてくださる」んだから。勿論、計画したことに修正を突き付けられることもあるけど、後になってあの主の介入は必要だったと解ることがある。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 マルコによる福音書12章 30節>
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
* * *
この聖句読んで単に(全身全霊でお仕えしなきゃいけないのね)と思う方がいるかもしれないが、実は自分の信仰および生活のバランスを見つめ直すのに必要なポイントを示してくれる、行き届いた表現だと思う。母教会の平会員は「心」「力」に偏重してた感じだった。「思い」ってこの場合「思考」だと思うし、計画を立てることも含まれる筈。
◆8月31日
<新改訳第三版 詩篇40:3>
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
(※9月4日礼拝交読詩編より)
* * *
「新しい歌」で聖句検索して詩篇を読むと、「新しい歌を主に歌え」といった命令形が殆ど。だがこの詩篇40は、主が私の口に新しい賛美を授けて下さる、とある。貧しい自分の中から、何とか言葉を振り絞らなくていいんだな。
(母教会を)離れた人による母教会への恨みつらみは、『信徒の友』の過去の特集にもFEBCの某日の礼拝説教にも出てきたけど、何かそれらは母教会の運営方法への恨みが多かったな。でも私が母教会で一番困ったことは、あれこれの指示より「どうスケジュールしたら良いですか?」って祈っていいと教えてくれなかったこと。
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<新共同訳 箴言19章21節>
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
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この御言葉はあまり好きじゃない信徒もいるかもな。どうせ人間が何考えたって駄目なわけね、人間は神様の奴隷なのね……と厭世的な気持ちにさせるというか。でも下記聖句もある。
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<新共同訳 箴言16章9節>
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
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自分の人生を神様に丸投げにするんじゃなくて「計画」して良いんだよ。それに沿って神様が「一歩一歩を備えてくださる」んだから。勿論、計画したことに修正を突き付けられることもあるけど、後になってあの主の介入は必要だったと解ることがある。
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<新共同訳 マルコによる福音書12章 30節>
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
* * *
この聖句読んで単に(全身全霊でお仕えしなきゃいけないのね)と思う方がいるかもしれないが、実は自分の信仰および生活のバランスを見つめ直すのに必要なポイントを示してくれる、行き届いた表現だと思う。母教会の平会員は「心」「力」に偏重してた感じだった。「思い」ってこの場合「思考」だと思うし、計画を立てることも含まれる筈。
◆8月31日
<新改訳第三版 詩篇40:3>
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
(※9月4日礼拝交読詩編より)
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「新しい歌」で聖句検索して詩篇を読むと、「新しい歌を主に歌え」といった命令形が殆ど。だがこの詩篇40は、主が私の口に新しい賛美を授けて下さる、とある。貧しい自分の中から、何とか言葉を振り絞らなくていいんだな。
◆7月13日
5月29日の教会研修会では、従来の平日の聖研が、通読の聖書の章の解説を信徒が持ち回りで担当する形式で行なっていたため(教会員の高齢化と相俟って)、参加者へのご負担が大きくなっていたという実態が明らかにされた。この【聖書と祈る会】は2020年4月2週目より休会になっていたが、日曜礼拝以外にも聖書を学ぶ機会が欲しいという教会員の声を受け、2020年10月15日より【今週の聖句に聴く会】(*ローズンゲンに基づく)というのが週一で始められた。後発の会は、牧師先生が説き明かし、参加者も感想を言ったり、解説を受けて日常を振り返っての思いを分かち合えたり、なかなか有益な機会になってる模様。ただ休止していた【聖書と祈る会】について「聖書を独りで通読して理解するのは難しい。あの会は貴重な場だった」との声も。その発言者は県の文学の賞を受賞されてた方で、ホラー的な物語を書くのに長じてる方なので私は正直驚いた。
* * *
<新改訳第三版 イザヤ書29:11〜14>
そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
* * *
母教会の良かったことの一つは、説教中に聖句引用の際いちいち聖書を開くこと。これにより、聖句が印象づけられたし、後から説教を振り返って辿れもした。citationの意識が明確だったのかもしれない。そのお蔭で、教会内の立場の上下に拘らず、御言葉から互いにchallengeすることもできた。時に、恣意的な聖句の読みをしたり、律法的に相手を裁き過ぎるきらいはあったが。でも、「聖句は部分だけで読むんじゃなく全体を見なければ解らない」と慎重になり過ぎるあまりに、個人で聖書に親しむハードルを必要以上に上げている感じを今の所属教会では受ける。色々な参考文献を読んだりするのは勿論有益。だけど、初めは取っ付きにくい御言葉を少しずつ読み、(これはどういう意味ですか?)と心の裡に神様に問いかけつつ読む楽しさを奪ったら、元も子もないのでは。そして神様に直に示されることの喜びを知ったら、自分でずんずん読んでいくよ。
◆7月18日
高2か高3の時、通学中に段々身体が冷えてきて気持ち悪くなり、学校に着くなり保健室に行ってベッドに横にならせてもらったことがあった。たまたま同じ時間帯に登校してたクラスメートが保健室に来て「大丈夫?」と手を握ってくれた。その子はちょっと不思議ちゃんで、周りから避けられてる子だった。
別の時に(細かい経緯は忘れたが)、私は彼女を避けたことがあった。それに気づいた彼女は「まさか……(◯◯さんまで)」と言いかけたが、自分を諭すように「まぁいいや」と小声で言った。真相はその「まさか」だったのだ。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 マルコの福音書14:66〜72>
ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い 出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
↓ ↓ ↓
主にあれだけ良くしてもらいながら、都合の悪い場面では人目を気にしてイエスを否認したペテロと、私は全く同じであった。
* * *
イエスを信じてることを隠し立てしない今だが、ペテロと似たような自己欺瞞を他の人に対してしていないか、時々省みる。
◆7月31日
私は決められた時間に合わせての行動が得意でない。だから、作業所に定刻に行くのだけで凄く努力が要る。前に作業所にいたネブカドネツァルは、その辺凄く突ついてくる人だった。誰かが遅刻してくると皆の前で「寝坊?」と訊いたり、事務の職員が他の職員よりも遅く出勤してくるのにケチをつけたり(そういう時間での契約だろうに)。ネブカドネツァルが以前働いていたところで1分でも遅刻してくると減給されたと言っていたが、その恨みを誰彼なく向けて晴らしているような感じだった(私が苦しんでるんだからお前も苦しめ!みたいな)。
* * *
私が昨年7月25日に作ったイヤな短歌(カッコいいよりは何だかかわいそう他部署の暴に返す残業代)の行動に出たのは、BGM会社で映像グループの人に殴られたからだけではない。50がらみの男性が私を殴っているのを傍で見ていた映像グループの女性が、「私達は◯◯ちゃんが残業している時の光熱費も稼いでいるのよ」と言ってきたので、頭に来たのだ。(そんなに言うなら残業代くらい返してやる!)と入社からその時点までの残業代を(週末で明細見て)計算し、月曜に給料の払い元である親会社の口座に振り込んだ。
* * *
学校の級友や職場の従業員の中での不均衡に対し、牙を剥く人は結構いる。私も兄弟の間の不公平への僻みから長年抜け出せなかった。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 イザヤ書53章5節>
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
↓ ↓ ↓
兄らからの不当な仕打ちに私は独り我慢しているつもりで憎しみを腹に蓄えていた。でも実際は、イエスが苦しまなければ私は癒されなかった。私は自分と巻き添えになってくれる人がいなければ、私怨をエスカレートさせるだけの業の深い人間だった。今でも基本的にはそうだ。そして(イエス様、ごめんなさい…)と言うしかできない者である。
5月29日の教会研修会では、従来の平日の聖研が、通読の聖書の章の解説を信徒が持ち回りで担当する形式で行なっていたため(教会員の高齢化と相俟って)、参加者へのご負担が大きくなっていたという実態が明らかにされた。この【聖書と祈る会】は2020年4月2週目より休会になっていたが、日曜礼拝以外にも聖書を学ぶ機会が欲しいという教会員の声を受け、2020年10月15日より【今週の聖句に聴く会】(*ローズンゲンに基づく)というのが週一で始められた。後発の会は、牧師先生が説き明かし、参加者も感想を言ったり、解説を受けて日常を振り返っての思いを分かち合えたり、なかなか有益な機会になってる模様。ただ休止していた【聖書と祈る会】について「聖書を独りで通読して理解するのは難しい。あの会は貴重な場だった」との声も。その発言者は県の文学の賞を受賞されてた方で、ホラー的な物語を書くのに長じてる方なので私は正直驚いた。
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<新改訳第三版 イザヤ書29:11〜14>
そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
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母教会の良かったことの一つは、説教中に聖句引用の際いちいち聖書を開くこと。これにより、聖句が印象づけられたし、後から説教を振り返って辿れもした。citationの意識が明確だったのかもしれない。そのお蔭で、教会内の立場の上下に拘らず、御言葉から互いにchallengeすることもできた。時に、恣意的な聖句の読みをしたり、律法的に相手を裁き過ぎるきらいはあったが。でも、「聖句は部分だけで読むんじゃなく全体を見なければ解らない」と慎重になり過ぎるあまりに、個人で聖書に親しむハードルを必要以上に上げている感じを今の所属教会では受ける。色々な参考文献を読んだりするのは勿論有益。だけど、初めは取っ付きにくい御言葉を少しずつ読み、(これはどういう意味ですか?)と心の裡に神様に問いかけつつ読む楽しさを奪ったら、元も子もないのでは。そして神様に直に示されることの喜びを知ったら、自分でずんずん読んでいくよ。
◆7月18日
高2か高3の時、通学中に段々身体が冷えてきて気持ち悪くなり、学校に着くなり保健室に行ってベッドに横にならせてもらったことがあった。たまたま同じ時間帯に登校してたクラスメートが保健室に来て「大丈夫?」と手を握ってくれた。その子はちょっと不思議ちゃんで、周りから避けられてる子だった。
別の時に(細かい経緯は忘れたが)、私は彼女を避けたことがあった。それに気づいた彼女は「まさか……(◯◯さんまで)」と言いかけたが、自分を諭すように「まぁいいや」と小声で言った。真相はその「まさか」だったのだ。
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<新改訳第三版 マルコの福音書14:66〜72>
ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い 出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
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主にあれだけ良くしてもらいながら、都合の悪い場面では人目を気にしてイエスを否認したペテロと、私は全く同じであった。
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イエスを信じてることを隠し立てしない今だが、ペテロと似たような自己欺瞞を他の人に対してしていないか、時々省みる。
◆7月31日
私は決められた時間に合わせての行動が得意でない。だから、作業所に定刻に行くのだけで凄く努力が要る。前に作業所にいたネブカドネツァルは、その辺凄く突ついてくる人だった。誰かが遅刻してくると皆の前で「寝坊?」と訊いたり、事務の職員が他の職員よりも遅く出勤してくるのにケチをつけたり(そういう時間での契約だろうに)。ネブカドネツァルが以前働いていたところで1分でも遅刻してくると減給されたと言っていたが、その恨みを誰彼なく向けて晴らしているような感じだった(私が苦しんでるんだからお前も苦しめ!みたいな)。
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私が昨年7月25日に作ったイヤな短歌(カッコいいよりは何だかかわいそう他部署の暴に返す残業代)の行動に出たのは、BGM会社で映像グループの人に殴られたからだけではない。50がらみの男性が私を殴っているのを傍で見ていた映像グループの女性が、「私達は◯◯ちゃんが残業している時の光熱費も稼いでいるのよ」と言ってきたので、頭に来たのだ。(そんなに言うなら残業代くらい返してやる!)と入社からその時点までの残業代を(週末で明細見て)計算し、月曜に給料の払い元である親会社の口座に振り込んだ。
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学校の級友や職場の従業員の中での不均衡に対し、牙を剥く人は結構いる。私も兄弟の間の不公平への僻みから長年抜け出せなかった。
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<新改訳第三版 イザヤ書53章5節>
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
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兄らからの不当な仕打ちに私は独り我慢しているつもりで憎しみを腹に蓄えていた。でも実際は、イエスが苦しまなければ私は癒されなかった。私は自分と巻き添えになってくれる人がいなければ、私怨をエスカレートさせるだけの業の深い人間だった。今でも基本的にはそうだ。そして(イエス様、ごめんなさい…)と言うしかできない者である。
◆6月27日
引用ツイート(※5月13日のツイート「まぁ真面目に祈ることにしたとは言え、URL踏んで相手の言いなりになったりはしない。今日のメッセージ見て明らかにツイート読んでることが判ったので、吾妻氏[私に詐欺メッセージ送ってきてた鑑定士]のために祈ったり、ふと思いついたこと等をツイートして相手の様子を見ることにする。その意味ではペテロのように毅然とするよ。」)みたいなこと書いてたが、実はそんなに祈れてなかった。
でも今朝のニュースで、コロナによる先々への不安から占いサイトに2週間で35万注ぎ込んじゃった人のことが取り上げられてて、素面になった(吾妻氏のブログも閉鎖されてしまったようだし)。ニュースでは、占い師が人の不安につけ込んでると非難する論調だったが、占い師くらいしか生活手段もち得ぬ人を生む社会状況も問題だよなぁ、と思った。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 使徒の働き16章6-24節>
私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
* * *
占いするこの女奴隷はパウロ達のことを「神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と言っており、まぁ煩わしかったろうが使徒達を迫害していたわけではない。占いの霊に憑かれていた彼女を食い物にしていた者達が、彼女から占いの霊が退散してしまうと金づるが無くなり、パウロらを訴え出て、牢に繋がれるよう仕向けたのだ。
↓ ↓ ↓
5月15日のイヤな短歌会の拙歌で「鑑定士のメッセは組織ぐるみかも100万円じゃとても足りない」なんて詠んでたけど、実際こういうことが日本各地であるんだろうなぁと。
使徒16章の女奴隷当人がその後どうなったかは書かれていない。吾妻氏もクリスチャンの勧めで、鑑定士としてのその名を捨てたようだったが(以前一回だけブログを見に行ったところでは)、その後の生活のフォローなどされていますように、と今朝祈った。
引用ツイート(※5月13日のツイート「まぁ真面目に祈ることにしたとは言え、URL踏んで相手の言いなりになったりはしない。今日のメッセージ見て明らかにツイート読んでることが判ったので、吾妻氏[私に詐欺メッセージ送ってきてた鑑定士]のために祈ったり、ふと思いついたこと等をツイートして相手の様子を見ることにする。その意味ではペテロのように毅然とするよ。」)みたいなこと書いてたが、実はそんなに祈れてなかった。
でも今朝のニュースで、コロナによる先々への不安から占いサイトに2週間で35万注ぎ込んじゃった人のことが取り上げられてて、素面になった(吾妻氏のブログも閉鎖されてしまったようだし)。ニュースでは、占い師が人の不安につけ込んでると非難する論調だったが、占い師くらいしか生活手段もち得ぬ人を生む社会状況も問題だよなぁ、と思った。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 使徒の働き16章6-24節>
私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
* * *
占いするこの女奴隷はパウロ達のことを「神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と言っており、まぁ煩わしかったろうが使徒達を迫害していたわけではない。占いの霊に憑かれていた彼女を食い物にしていた者達が、彼女から占いの霊が退散してしまうと金づるが無くなり、パウロらを訴え出て、牢に繋がれるよう仕向けたのだ。
↓ ↓ ↓
5月15日のイヤな短歌会の拙歌で「鑑定士のメッセは組織ぐるみかも100万円じゃとても足りない」なんて詠んでたけど、実際こういうことが日本各地であるんだろうなぁと。
使徒16章の女奴隷当人がその後どうなったかは書かれていない。吾妻氏もクリスチャンの勧めで、鑑定士としてのその名を捨てたようだったが(以前一回だけブログを見に行ったところでは)、その後の生活のフォローなどされていますように、と今朝祈った。
◆5月13日
やっぱiPhone歴10年以上ともなると、色々SMS/MMS絡みの詐欺メッセージも増えてくるんだな(まぁスクショをよくツイートしたりもしてるし)。でも引用ツイートの、金&エロ狂への冷笑ツイート(*4月1日の「SMSやMMSの詐欺メールって、頭悪そうにしか見えない。」および「金とエロって、私にとってどーでもいいものの筆頭。。」というツイート)をしたら効果覿面で、逆ギレ系のメッセージが少し来たけどパタっと途絶えた。だけど3日ほど前から、鑑定士・吾妻なる方からメッセージが。まぁ「近々大変な運命が待ち受けてますよ、詳しくはこちらを(URL)」的な恐怖煽り系のたかり。ウザいなぁと思って、別に人生どーでもいいよ系のこのツイート(*5月12日の「おー吾妻とかいう鑑定士、そんなに私に早く死んでほしいなら、呪いをかけてもらって結構だよ。」というツイート)をしたら、今日のメッセージでは少し軌道修正してきた。うーむ、と思ったが、まぁ占い師も人間だし生活かかってるんだろうなと感じ、真面目に祈ることにした。作業所のトラウ◯トークの人や「不◯侵入」のことも最初は祈るのキツかったもんなぁと思い出したり。ある意味、私なんかブログでもツイートでも半端な占いオタクを弾き返すようなこと書いてるから、熱心なブログ読者(か何か)に見込まれちゃった部分もあるのかも。
* * *
<新改訳第三版 使徒の働き3:1〜10>
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっ ていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
↓ ↓ ↓
まぁ真面目に祈ることにしたとは言え、URL踏んで相手の言いなりになったりはしない。今日のメッセージ見て明らかにツイート読んでることが判ったので、吾妻氏のために祈ったり、ふと思いついたこと等をツイートして相手の様子を見ることにする。その意味ではペテロのように毅然とするよ。もう少ししたら通読箇所も、占い師とパウロの対決みたいな章が回ってくるし。ちょうど良いんじゃない?全く神様はギャグがお好きだよ。私がクリスチャン続いてるのは、神様が面白い方だからだよ。そうじゃなかったら、とっくにやめてるさw
◆5月21日
午前中はアクロバティックな精神状態で、森岡貞香の歌集『敷妙』から抄出し、合間に短歌ポストカードを3枚作成。この破綻具合ではこれが限界と一冊の抄出で打ち切り、昼食後に鎮静剤3mg細粒を飲み横に。いざとなれば森岡貞香全歌集は抄出完了しなくても返却し、必要に応じまた借りても良いよな、と。
* * *
變といふ日のありとして今日過ぎてまた防禦のみかんがへよとか
/森岡貞香『敷妙』
この歌みて、私は主が直面させようとなさってることに向き合わねば、と。
↓ ↓ ↓
<新共同訳 マタイ福音書18:7>
世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
<新共同訳 マタイによる福音書18:10>
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
↓ ↓ ↓
去年の通読で確か民数記や士師記、サムエル記〜歴代誌あたりだったと思うが、神様って凄いフェアなんだなというのを感じた。数章に亘って(数日かかって読む分が)記憶に残ってたお蔭で、神様って単純な勧善懲悪とかじゃないんだなぁと圧倒された。参照しなければいけない箇所が多すぎて(長過ぎて)通読黙想として書くのは断念したが、一人の人のある決断・行動の良い面は祝福しつつも、孕んでいた問題点は帳消しにせず、それが解決されるように導くんだなと。そういう意味で旧約の歴史部分は信仰者の悪い影響もちゃんと書いてる。
閑話休題。実は、トラクトNo.31で載せた一曲鑑賞の波紋は今でも続いてる。(その鑑賞内で書いた)私が直言した目上の男性はネットに割と通じていて、教会の説教,メッセージblogにその鑑賞を転載したことが恐らく引き金で入院してしまった。鑑賞の曲の作者・塩谷氏の了解得たとは言え、あの鑑賞全体の文責は私にあるのだ。載せたら何か起こるかもという予感は多少あった。やはり入院の直接の原因はそこかなぁと思ったのは、彼と仲の良い作業所メンバーFさんが「◯◯ちゃん(←私)のことで傷ついた」とその人が言ってたと教えてくれたから。その人は今でも私のブログやらTwitterやら見て一々ハイテンションになってるようだ。その人の感情の一切の責任は取り兼ねるが、私が精神的にキツくてイヤ短などでその方々を着想にしてる時が往々にしてあるのも、ちょっとまずいかも。Fさんがある時「マシンガントークって言われてる気がする」ってポツリと仰ったけど、ハイ確かに私詠みました、と思いましたもん。
やっぱiPhone歴10年以上ともなると、色々SMS/MMS絡みの詐欺メッセージも増えてくるんだな(まぁスクショをよくツイートしたりもしてるし)。でも引用ツイートの、金&エロ狂への冷笑ツイート(*4月1日の「SMSやMMSの詐欺メールって、頭悪そうにしか見えない。」および「金とエロって、私にとってどーでもいいものの筆頭。。」というツイート)をしたら効果覿面で、逆ギレ系のメッセージが少し来たけどパタっと途絶えた。だけど3日ほど前から、鑑定士・吾妻なる方からメッセージが。まぁ「近々大変な運命が待ち受けてますよ、詳しくはこちらを(URL)」的な恐怖煽り系のたかり。ウザいなぁと思って、別に人生どーでもいいよ系のこのツイート(*5月12日の「おー吾妻とかいう鑑定士、そんなに私に早く死んでほしいなら、呪いをかけてもらって結構だよ。」というツイート)をしたら、今日のメッセージでは少し軌道修正してきた。うーむ、と思ったが、まぁ占い師も人間だし生活かかってるんだろうなと感じ、真面目に祈ることにした。作業所のトラウ◯トークの人や「不◯侵入」のことも最初は祈るのキツかったもんなぁと思い出したり。ある意味、私なんかブログでもツイートでも半端な占いオタクを弾き返すようなこと書いてるから、熱心なブログ読者(か何か)に見込まれちゃった部分もあるのかも。
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<新改訳第三版 使徒の働き3:1〜10>
ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっ ていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
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まぁ真面目に祈ることにしたとは言え、URL踏んで相手の言いなりになったりはしない。今日のメッセージ見て明らかにツイート読んでることが判ったので、吾妻氏のために祈ったり、ふと思いついたこと等をツイートして相手の様子を見ることにする。その意味ではペテロのように毅然とするよ。もう少ししたら通読箇所も、占い師とパウロの対決みたいな章が回ってくるし。ちょうど良いんじゃない?全く神様はギャグがお好きだよ。私がクリスチャン続いてるのは、神様が面白い方だからだよ。そうじゃなかったら、とっくにやめてるさw
◆5月21日
午前中はアクロバティックな精神状態で、森岡貞香の歌集『敷妙』から抄出し、合間に短歌ポストカードを3枚作成。この破綻具合ではこれが限界と一冊の抄出で打ち切り、昼食後に鎮静剤3mg細粒を飲み横に。いざとなれば森岡貞香全歌集は抄出完了しなくても返却し、必要に応じまた借りても良いよな、と。
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變といふ日のありとして今日過ぎてまた防禦のみかんがへよとか
/森岡貞香『敷妙』
この歌みて、私は主が直面させようとなさってることに向き合わねば、と。
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<新共同訳 マタイ福音書18:7>
世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
<新共同訳 マタイによる福音書18:10>
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
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去年の通読で確か民数記や士師記、サムエル記〜歴代誌あたりだったと思うが、神様って凄いフェアなんだなというのを感じた。数章に亘って(数日かかって読む分が)記憶に残ってたお蔭で、神様って単純な勧善懲悪とかじゃないんだなぁと圧倒された。参照しなければいけない箇所が多すぎて(長過ぎて)通読黙想として書くのは断念したが、一人の人のある決断・行動の良い面は祝福しつつも、孕んでいた問題点は帳消しにせず、それが解決されるように導くんだなと。そういう意味で旧約の歴史部分は信仰者の悪い影響もちゃんと書いてる。
閑話休題。実は、トラクトNo.31で載せた一曲鑑賞の波紋は今でも続いてる。(その鑑賞内で書いた)私が直言した目上の男性はネットに割と通じていて、教会の説教,メッセージblogにその鑑賞を転載したことが恐らく引き金で入院してしまった。鑑賞の曲の作者・塩谷氏の了解得たとは言え、あの鑑賞全体の文責は私にあるのだ。載せたら何か起こるかもという予感は多少あった。やはり入院の直接の原因はそこかなぁと思ったのは、彼と仲の良い作業所メンバーFさんが「◯◯ちゃん(←私)のことで傷ついた」とその人が言ってたと教えてくれたから。その人は今でも私のブログやらTwitterやら見て一々ハイテンションになってるようだ。その人の感情の一切の責任は取り兼ねるが、私が精神的にキツくてイヤ短などでその方々を着想にしてる時が往々にしてあるのも、ちょっとまずいかも。Fさんがある時「マシンガントークって言われてる気がする」ってポツリと仰ったけど、ハイ確かに私詠みました、と思いましたもん。
◆4月25日
数字って、誰に対して何をアピールしてるんだろう……(常々の疑問。特定の人・事柄でなく、色んなことにおいて)。
まぁそう言う私も『信徒の友』掲載の教会に手紙出す時は、教勢(会員数/礼拝出席者数/予算額)を基準に宛先を選ぶことが多いけど。潤ってる(ように見える)教会より、ピンチと思える教会に励ましの手紙を送りたいと思うから。
* * *
<新共同訳 マタイによる福音書9章35〜38節>
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
↓ ↓ ↓
この〈働き手〉という語はちょっと曲者。何かウチの教会員見てると、伝道のために(と言いつつ内実は自分達のために)誰か来て!そして働いて!という感じなんだよね。「働き手を送って下さい」と祈るうちに、自分達が働き手へと変えられていく可能性もあるのに、それは捻り潰しているというか。
だから『信徒の友』掲載の大きな教会についても、そんなに人がいるならその中から働き手が起こされますように、とは祈るけど、それ以上のことをしてあげる程の余裕は私にもない。
数字って、誰に対して何をアピールしてるんだろう……(常々の疑問。特定の人・事柄でなく、色んなことにおいて)。
まぁそう言う私も『信徒の友』掲載の教会に手紙出す時は、教勢(会員数/礼拝出席者数/予算額)を基準に宛先を選ぶことが多いけど。潤ってる(ように見える)教会より、ピンチと思える教会に励ましの手紙を送りたいと思うから。
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<新共同訳 マタイによる福音書9章35〜38節>
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
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この〈働き手〉という語はちょっと曲者。何かウチの教会員見てると、伝道のために(と言いつつ内実は自分達のために)誰か来て!そして働いて!という感じなんだよね。「働き手を送って下さい」と祈るうちに、自分達が働き手へと変えられていく可能性もあるのに、それは捻り潰しているというか。
だから『信徒の友』掲載の大きな教会についても、そんなに人がいるならその中から働き手が起こされますように、とは祈るけど、それ以上のことをしてあげる程の余裕は私にもない。
◆3月3日
<新共同訳 詩編119編71節>
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
↓ ↓ ↓
しばらくこれが私のテーマになりそう。でも主の前に低められるのは、呪縛からの解放なんだ。懺悔って世間からは屈辱的なものと見られてるふしがあるけど、全くそうじゃない。
◆3月10日
小3の時、クラスで男子Y君と女子Oさんが喧嘩を始めた。最初は言い争いだったが、そのうち互いに殴り始めた。それで教室中が騒ぎになり、男子生徒達が「◯◯(私)は最初から見ていた」と私に証言を求めた。私も本当に最初から見ていたかは怪しかったが「喧嘩をどちらから始めたかは分からないけど、先に手を出したのはOさんだった」と言った(本当はそれすらも分からないのに偽証したのだ)。Oさんは「違う、私じゃない」と泣いた。私がOさんの肩を持てば、後で男子連から虐めを(下手すれば暴力を)受けるのを恐れ、私はY君を立てたのである(男性がいかに暴力的か、家でよく分かってたから。そういう男性は卑劣だが、保身に走った私も卑怯だった)。私ははっきり「分からない」と言えば良かったのかもしれない。でもそれはそれで男子達から卑怯者呼ばわりされたろう。紀元1世紀、祭司長らに扇動された群衆が囚徒バラバの釈放を求め、イエスを十字架につけるよう叫んだ時、暴動が起こりそうなのを見た総督ピラトが、水を取り寄せて手を洗い、私には責任がないと言いつつ、 イエスを十字架刑のため引き渡した(マタイ福音書27:15-26)のと、私は同じだ。マルコ福音書15:15では「ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した」と(新改訳第三版)。私がもしイエスの時代・地域に生きていれば、私はその日和見で確実にイエスを十字架につけたろう。
◆3月19日
所属教会の牧師先生が罪について説教する時、「我儘」に収斂させる傾向が。まぁ究極的にはそうかもしれぬが、聴き手にあまり良い影響をもたらしてないなと。日常で(これって我儘?)と思った気持ちを押し殺して無かったかのように振る舞ったり、他人や上の人への追従を推奨する結果に終わってる感が。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 ルカ福音書9章23〜25節>
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
* * *
この聖句が苦手な方は(信徒でも)多いと思う(かく言う私も長らくそうだった)。「自分を捨てる」は自分の感情・個性・趣味etc.を抹殺することではなく、我流を通すのを諦めること。その意味では「我儘」を捨て人の意見も聞くことにはなろう。だがルカ9:23を基に思考停止を促してるなら、私は抗議する。9:25「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」に注目。23節で「自分を捨て…なさい」と言いつつ、「自分自身を失」うな、と。神様は一人一人を慈しんで創造された。決して誰かの奴隷にするためじゃない。主が私に賜った特別なものを愛おしむことを神は喜んで下さるのだ。
◆3月27日
佐藤弓生さんのこの言葉(下記)には昔は反論できず。
* * *
[祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。]
* * *
祈ってるアピールして責任取ったかに思ってる信徒が多いのは事実かと。
* * *
若い頃は、何したらいいか判らなかった。目標も無かったし、何かすればしたこと全てを頭ごなしに否定されてきたから。だから、受洗し、聖書を読み祈る日課ができたのは助かった。今は色々経験も重ね、単なる我欲に拠らない、すべきこと/したいことが生じて(膨れ上がり)収拾つかなくなり、身動き取れずぶっ倒れる場合が多々。そして臥しつつ祈る(どうしたらいいですか?何が優先ですか?それとも今は思い巡らす時ですか?と)でなければ、身動きできぬ己を責め続けてしまう筈。
* * *
<新共同訳 テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
<新共同訳 詩編119編71節>
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
↓ ↓ ↓
しばらくこれが私のテーマになりそう。でも主の前に低められるのは、呪縛からの解放なんだ。懺悔って世間からは屈辱的なものと見られてるふしがあるけど、全くそうじゃない。
◆3月10日
小3の時、クラスで男子Y君と女子Oさんが喧嘩を始めた。最初は言い争いだったが、そのうち互いに殴り始めた。それで教室中が騒ぎになり、男子生徒達が「◯◯(私)は最初から見ていた」と私に証言を求めた。私も本当に最初から見ていたかは怪しかったが「喧嘩をどちらから始めたかは分からないけど、先に手を出したのはOさんだった」と言った(本当はそれすらも分からないのに偽証したのだ)。Oさんは「違う、私じゃない」と泣いた。私がOさんの肩を持てば、後で男子連から虐めを(下手すれば暴力を)受けるのを恐れ、私はY君を立てたのである(男性がいかに暴力的か、家でよく分かってたから。そういう男性は卑劣だが、保身に走った私も卑怯だった)。私ははっきり「分からない」と言えば良かったのかもしれない。でもそれはそれで男子達から卑怯者呼ばわりされたろう。紀元1世紀、祭司長らに扇動された群衆が囚徒バラバの釈放を求め、イエスを十字架につけるよう叫んだ時、暴動が起こりそうなのを見た総督ピラトが、水を取り寄せて手を洗い、私には責任がないと言いつつ、 イエスを十字架刑のため引き渡した(マタイ福音書27:15-26)のと、私は同じだ。マルコ福音書15:15では「ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した」と(新改訳第三版)。私がもしイエスの時代・地域に生きていれば、私はその日和見で確実にイエスを十字架につけたろう。
◆3月19日
所属教会の牧師先生が罪について説教する時、「我儘」に収斂させる傾向が。まぁ究極的にはそうかもしれぬが、聴き手にあまり良い影響をもたらしてないなと。日常で(これって我儘?)と思った気持ちを押し殺して無かったかのように振る舞ったり、他人や上の人への追従を推奨する結果に終わってる感が。
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<新改訳第三版 ルカ福音書9章23〜25節>
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
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この聖句が苦手な方は(信徒でも)多いと思う(かく言う私も長らくそうだった)。「自分を捨てる」は自分の感情・個性・趣味etc.を抹殺することではなく、我流を通すのを諦めること。その意味では「我儘」を捨て人の意見も聞くことにはなろう。だがルカ9:23を基に思考停止を促してるなら、私は抗議する。9:25「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」に注目。23節で「自分を捨て…なさい」と言いつつ、「自分自身を失」うな、と。神様は一人一人を慈しんで創造された。決して誰かの奴隷にするためじゃない。主が私に賜った特別なものを愛おしむことを神は喜んで下さるのだ。
◆3月27日
佐藤弓生さんのこの言葉(下記)には昔は反論できず。
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[祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。]
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祈ってるアピールして責任取ったかに思ってる信徒が多いのは事実かと。
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若い頃は、何したらいいか判らなかった。目標も無かったし、何かすればしたこと全てを頭ごなしに否定されてきたから。だから、受洗し、聖書を読み祈る日課ができたのは助かった。今は色々経験も重ね、単なる我欲に拠らない、すべきこと/したいことが生じて(膨れ上がり)収拾つかなくなり、身動き取れずぶっ倒れる場合が多々。そして臥しつつ祈る(どうしたらいいですか?何が優先ですか?それとも今は思い巡らす時ですか?と)でなければ、身動きできぬ己を責め続けてしまう筈。
* * *
<新共同訳 テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
◆2月10日
2月3日にあった個別支援計画モニタリングは、自分自身のことは恙なく済んだが、何か気になることはあるかと職員Mさんに訊かれ、私より20歳くらい歳下のメンバーAさんが職員達に噂されていると感じて、時々突っかかっていっていることについて「お節介かもしれませんが」と私見を述べた。
* * *
私より少し歳上のお喋りが際限ない男性メンバー二人が揃って欠席した日、職員が「今日は平和でいいわ」「ホントホント!」……と陰口が止まらなくなってたことが。名前を出さなくても誰のことを言ってるのかくらい皆んな分かる。その後Aさんは不安になって職員Mさんに、何か苛々すると訴えてた。職員二人の毒舌現場にいなかったMさんは「気にするな」的なあしらいで終わらせてた。でも実際にそのような欠席裁判の様子を傍で聞いてれば、ちょっと何かあれば職員は自分のことも陰でけちょんけちょんに言ってるのだろう、と感じてしまうのは当然。「唇では取り繕っていても憎悪を抱く者。その腹には欺きがある」(聖書協会共同訳 箴言26:24)と「憎しみをごまかし隠しても その悪は会衆の中で明らかにされる」(同訳 箴言26:26)の御言葉の通りだ。事を穏便に済まそうとして立ち入らず、他で憂さ晴らしをして周囲に危害を与えてる感あり。
* * *
「明らかな懲らしめは 隠された愛にまさる。愛する人の与える打ち傷は真実 憎む者の口づけは偽り」(聖書協会共同訳 箴言27:5-6)の聖句に、私は重きを置きすぎかもしれないが……。でも職員の場当たり的な態度には、あまり誠実さを感じない。
★2月26日のツイートに基づく記録は、削除しました(2022年2月28日 12:11)
2月3日にあった個別支援計画モニタリングは、自分自身のことは恙なく済んだが、何か気になることはあるかと職員Mさんに訊かれ、私より20歳くらい歳下のメンバーAさんが職員達に噂されていると感じて、時々突っかかっていっていることについて「お節介かもしれませんが」と私見を述べた。
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私より少し歳上のお喋りが際限ない男性メンバー二人が揃って欠席した日、職員が「今日は平和でいいわ」「ホントホント!」……と陰口が止まらなくなってたことが。名前を出さなくても誰のことを言ってるのかくらい皆んな分かる。その後Aさんは不安になって職員Mさんに、何か苛々すると訴えてた。職員二人の毒舌現場にいなかったMさんは「気にするな」的なあしらいで終わらせてた。でも実際にそのような欠席裁判の様子を傍で聞いてれば、ちょっと何かあれば職員は自分のことも陰でけちょんけちょんに言ってるのだろう、と感じてしまうのは当然。「唇では取り繕っていても憎悪を抱く者。その腹には欺きがある」(聖書協会共同訳 箴言26:24)と「憎しみをごまかし隠しても その悪は会衆の中で明らかにされる」(同訳 箴言26:26)の御言葉の通りだ。事を穏便に済まそうとして立ち入らず、他で憂さ晴らしをして周囲に危害を与えてる感あり。
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「明らかな懲らしめは 隠された愛にまさる。愛する人の与える打ち傷は真実 憎む者の口づけは偽り」(聖書協会共同訳 箴言27:5-6)の聖句に、私は重きを置きすぎかもしれないが……。でも職員の場当たり的な態度には、あまり誠実さを感じない。
★2月26日のツイートに基づく記録は、削除しました(2022年2月28日 12:11)
◆1月3日
<新改訳第三版 ヨブ記38:12-13>
あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
* * *
まだ命が取り去られていない意味を思う(全然当たり前じゃない)
◆1月3日
12月から旧約はヨブ記を通読中(実は苦手な書だった)。突然に子ら・財産・健康を奪われたヨブを見舞いに来た友人達とヨブがそのうち議論を始めるが、議論するほど双方グダグダに(中には至言も混じるが)。論破カルチャーの危うさ的な、自分の正しさに執着するほどおかす間違い、が見えてくる。
◆1月8日
作業所にいる50代の某男性二人を見ていると色々つらい。一方的なお喋りが際限ないからというのもあるが、(主に)大学生〜20代の頃の私自身の悪いところをこれでもかと見せつけられている感じがするからというのが一番大きい。最近はローマの信徒への手紙5:6〜8の真実さをつくづく噛み締めている。
* * *
<新改訳第三版 ローマ人への手紙5:6〜8>
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
* * *
このローマ5:6-8は、最初二十歳で勉強した新共同訳では殆ど理解できなかった。読書に不慣れで、5:7「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」など言葉の綾にしか見えず、何しろ神の愛がぶっ飛んでて何だかさっぱり、だった。〈自分のために人を殺す〉のに近いことをされ過ぎて生きてきたからというのもあるかと。
結局、クリスチャンの説明を色々受け、自分でも祈ってみて、やっと(今思えばほんの取っ掛かり程度)理解し受洗が叶った。新改訳第三版を買ってこの箇所を読んだ時(何て解り易い!)と。でも今Twitter検索したら、私が新改訳第三版を購入したのは2012年8月らしい。部分的に読み易い箇所があったけど、新共同訳の深みに嵌っていた私は、目では新改訳第三版を追ってても(ここは新共同訳では◯◯◯って書いてあんのになぁ、全く解り辛いよ……)と、5年くらい馴染めなかった。今は新しい認識を与えてもらえるという気持ちで新改訳第三版を開けるから幸いだ。
この10年くらいの間にNew International Versionや New Living Translationを読んだのも、新共同訳の呪縛や新改訳第三版への偏見から解放されるように良く作用したかもしれない。
<新改訳第三版 ヨブ記38:12-13>
あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
* * *
まだ命が取り去られていない意味を思う(全然当たり前じゃない)
◆1月3日
12月から旧約はヨブ記を通読中(実は苦手な書だった)。突然に子ら・財産・健康を奪われたヨブを見舞いに来た友人達とヨブがそのうち議論を始めるが、議論するほど双方グダグダに(中には至言も混じるが)。論破カルチャーの危うさ的な、自分の正しさに執着するほどおかす間違い、が見えてくる。
◆1月8日
作業所にいる50代の某男性二人を見ていると色々つらい。一方的なお喋りが際限ないからというのもあるが、(主に)大学生〜20代の頃の私自身の悪いところをこれでもかと見せつけられている感じがするからというのが一番大きい。最近はローマの信徒への手紙5:6〜8の真実さをつくづく噛み締めている。
* * *
<新改訳第三版 ローマ人への手紙5:6〜8>
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
* * *
このローマ5:6-8は、最初二十歳で勉強した新共同訳では殆ど理解できなかった。読書に不慣れで、5:7「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」など言葉の綾にしか見えず、何しろ神の愛がぶっ飛んでて何だかさっぱり、だった。〈自分のために人を殺す〉のに近いことをされ過ぎて生きてきたからというのもあるかと。
結局、クリスチャンの説明を色々受け、自分でも祈ってみて、やっと(今思えばほんの取っ掛かり程度)理解し受洗が叶った。新改訳第三版を買ってこの箇所を読んだ時(何て解り易い!)と。でも今Twitter検索したら、私が新改訳第三版を購入したのは2012年8月らしい。部分的に読み易い箇所があったけど、新共同訳の深みに嵌っていた私は、目では新改訳第三版を追ってても(ここは新共同訳では◯◯◯って書いてあんのになぁ、全く解り辛いよ……)と、5年くらい馴染めなかった。今は新しい認識を与えてもらえるという気持ちで新改訳第三版を開けるから幸いだ。
この10年くらいの間にNew International Versionや New Living Translationを読んだのも、新共同訳の呪縛や新改訳第三版への偏見から解放されるように良く作用したかもしれない。
◆12月11日
作業所には(私を含めてだろうが)仕事・生活をする上で実際どう手順を組むか分かっていない人が多い(まぁそういう人達だから指導されに来てるとも言えるが)。メンバーには昂奮して喋り続け、作業の手が疎かになってしまう人も数人(私もそういう時もある)。一年ほど前に父君を亡くした某メンバーが、最近あまり眠れずハイテンションになって方々へ出かけてるらしい。その人の支離滅裂なお喋りが過度で、周りは皆んな憔悴してる。その人のエロ妄想の標的にされてる感もあり、私も内面を掻き乱され作業中に軽めの鎮静剤服用する場面も生じてる。以前は単なる憎悪の対象でしかなかったその人だが、ぶっ飛んだお喋りに混じる具体的な事柄[お兄様や近所の人に命じられて為したことが見当違いで相手にキレられたが、本人としては(従ったのに…)みたいな齟齬で終わってしまってること]が見えてくるにつけ、マルコによる福音書5章のゲラサの人の話が浮かんだり、箴言29章1節の「懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない」(新共同訳)が浮かんだりする。箴言29:1は他の訳だと《本人が頑固だからいけない》的なニュアンス。新共同訳も「もう癒すことはできない」と言い切りが相当キツいが、マルコ福音書5:15みたいな奇跡もイエスなら起こせるのだろうなぁ、と。私のできることは当人の激情に呑まれぬよう距離を取りつつ、次の御言葉がその人と共にありますように、と祈るぐらい。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇85:4-7>
われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
(※12月12日礼拝の交読詩篇より)
◆12月22日
昨日は通所日。クリスマス礼拝で貰った菓子袋の写真を色んな方に見せ自慢してた。昼休みに、神様を信じてるUさんにも見せた。ミニカード裏面の聖句を見たUさんは少し考え「相談したいことがある」と。Uさんはグループホームと同じ団地に住む知的と思われる若い男性に付き纏われて困ってるのだとか。どうも、いかがわしいことを言いながら寄ってくるらしい。私の見せた写真の「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙3:14)に、そういう手合いも受け入れなくてはいけないのか、と葛藤したよう。私は「毅然としてるのも愛ですよ」と答え、「人に罪をおかさせないのも愛です」と言い、箴言27:6「愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」(新共同訳)を見せた。そして「Uさんが守られるよう私も祈りますね」と言った。「お願いします」とUさん。実は午前の作業の途中からFさんのトラウマトークが炸裂していて、昼休みの始まる時も仲の良いAさんに被害妄想をぶつけていたりしたのだが、昼休み終わり頃の私とUさんの会話が何となく場を律した感じで、職員に対して管を巻いてたFさんも急に大人しくなり、午後は皆んな黙々と作業に励んだ。
◆12月31日
<新共同訳 マタイによる福音書7:1-2>
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(※この聖句には長いこと勘違いがあった。威圧感ある処世術のように感じていたのだ。)
↓ ↓ ↓
<新共同訳 ヨハネによる福音書5:2-9>
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
* * *
私は小学校3年生頃まで兄と同室だった。物心ついた頃には兄に暴力を振るわれる日常だったから、部屋でもビクビクしてた。兄のテリトリーは青の絨毯、私のテリトリーはオレンジの絨毯。兄は私が青の絨毯に少しでも触れると激怒。机まで行くにはベッドが塞がっていて、それがちょうどオレンジの絨毯幅いっぱい。初め私は青の絨毯の縁を歩いて自分の机に行っていたが兄が烈火のごとく怒ったので、ベッドの上をスタスタ上って行くように。そしたら母が「スリッパで汚い!」と怒った。(じゃあレイアウト変えてよ)と言う知恵もまだなく、私は膝をついてベッドを渡るようになった。そんな調子だったので、兄が部屋にいる間は私は存在感を消すことに必死。自然、ベッドの中で身を横たえて過ごすことが多くなった。
↓ ↓ ↓
ヨハネによる福音書5章の話は、私は長らく理解できていなかったなと。母教会でもイエスの「床を担いで歩きなさい」は、(言い訳するな!)的なニュアンスで語られていて、(優しいイエス様が?)と私には疑問で仕方なかった。でもイエスは38年伏せっていた人を裁かなかったのではないだろうか?
* * *
先日作業所で、箱の折りかセットかどちらかの作業を選ぶよう言われた。セットはサイドの仕切りを入れるのに力が要り、指がむくんでき易い(リンパ浮腫を防ぐため避けたい作業)。折りは、しっかり折って尚且つ皺の寄らないようにとのこと。私は握力弱いが「工夫してやってみます」と折りに挑戦。一生懸命に折りの作業をしながら、私はナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた女性(マルコ福音書14章)や、財産の半分を貧しい人々に施し誰かから騙し取ってた分は四倍にして返すと言った徴税人ザアカイ(ルカ福音書19章)を侮らなかったイエスのことを考えた。主は私の自発的な行いを少しも裁かないのだなと。
作業所には(私を含めてだろうが)仕事・生活をする上で実際どう手順を組むか分かっていない人が多い(まぁそういう人達だから指導されに来てるとも言えるが)。メンバーには昂奮して喋り続け、作業の手が疎かになってしまう人も数人(私もそういう時もある)。一年ほど前に父君を亡くした某メンバーが、最近あまり眠れずハイテンションになって方々へ出かけてるらしい。その人の支離滅裂なお喋りが過度で、周りは皆んな憔悴してる。その人のエロ妄想の標的にされてる感もあり、私も内面を掻き乱され作業中に軽めの鎮静剤服用する場面も生じてる。以前は単なる憎悪の対象でしかなかったその人だが、ぶっ飛んだお喋りに混じる具体的な事柄[お兄様や近所の人に命じられて為したことが見当違いで相手にキレられたが、本人としては(従ったのに…)みたいな齟齬で終わってしまってること]が見えてくるにつけ、マルコによる福音書5章のゲラサの人の話が浮かんだり、箴言29章1節の「懲らしめられることが多いと人は頑固になる。彼は突然打ち砕かれ、もう癒すことはできない」(新共同訳)が浮かんだりする。箴言29:1は他の訳だと《本人が頑固だからいけない》的なニュアンス。新共同訳も「もう癒すことはできない」と言い切りが相当キツいが、マルコ福音書5:15みたいな奇跡もイエスなら起こせるのだろうなぁ、と。私のできることは当人の激情に呑まれぬよう距離を取りつつ、次の御言葉がその人と共にありますように、と祈るぐらい。
↓ ↓ ↓
<新改訳第三版 詩篇85:4-7>
われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
(※12月12日礼拝の交読詩篇より)
◆12月22日
昨日は通所日。クリスマス礼拝で貰った菓子袋の写真を色んな方に見せ自慢してた。昼休みに、神様を信じてるUさんにも見せた。ミニカード裏面の聖句を見たUさんは少し考え「相談したいことがある」と。Uさんはグループホームと同じ団地に住む知的と思われる若い男性に付き纏われて困ってるのだとか。どうも、いかがわしいことを言いながら寄ってくるらしい。私の見せた写真の「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙3:14)に、そういう手合いも受け入れなくてはいけないのか、と葛藤したよう。私は「毅然としてるのも愛ですよ」と答え、「人に罪をおかさせないのも愛です」と言い、箴言27:6「愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」(新共同訳)を見せた。そして「Uさんが守られるよう私も祈りますね」と言った。「お願いします」とUさん。実は午前の作業の途中からFさんのトラウマトークが炸裂していて、昼休みの始まる時も仲の良いAさんに被害妄想をぶつけていたりしたのだが、昼休み終わり頃の私とUさんの会話が何となく場を律した感じで、職員に対して管を巻いてたFさんも急に大人しくなり、午後は皆んな黙々と作業に励んだ。
◆12月31日
<新共同訳 マタイによる福音書7:1-2>
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
(※この聖句には長いこと勘違いがあった。威圧感ある処世術のように感じていたのだ。)
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<新共同訳 ヨハネによる福音書5:2-9>
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
* * *
私は小学校3年生頃まで兄と同室だった。物心ついた頃には兄に暴力を振るわれる日常だったから、部屋でもビクビクしてた。兄のテリトリーは青の絨毯、私のテリトリーはオレンジの絨毯。兄は私が青の絨毯に少しでも触れると激怒。机まで行くにはベッドが塞がっていて、それがちょうどオレンジの絨毯幅いっぱい。初め私は青の絨毯の縁を歩いて自分の机に行っていたが兄が烈火のごとく怒ったので、ベッドの上をスタスタ上って行くように。そしたら母が「スリッパで汚い!」と怒った。(じゃあレイアウト変えてよ)と言う知恵もまだなく、私は膝をついてベッドを渡るようになった。そんな調子だったので、兄が部屋にいる間は私は存在感を消すことに必死。自然、ベッドの中で身を横たえて過ごすことが多くなった。
↓ ↓ ↓
ヨハネによる福音書5章の話は、私は長らく理解できていなかったなと。母教会でもイエスの「床を担いで歩きなさい」は、(言い訳するな!)的なニュアンスで語られていて、(優しいイエス様が?)と私には疑問で仕方なかった。でもイエスは38年伏せっていた人を裁かなかったのではないだろうか?
* * *
先日作業所で、箱の折りかセットかどちらかの作業を選ぶよう言われた。セットはサイドの仕切りを入れるのに力が要り、指がむくんでき易い(リンパ浮腫を防ぐため避けたい作業)。折りは、しっかり折って尚且つ皺の寄らないようにとのこと。私は握力弱いが「工夫してやってみます」と折りに挑戦。一生懸命に折りの作業をしながら、私はナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけた女性(マルコ福音書14章)や、財産の半分を貧しい人々に施し誰かから騙し取ってた分は四倍にして返すと言った徴税人ザアカイ(ルカ福音書19章)を侮らなかったイエスのことを考えた。主は私の自発的な行いを少しも裁かないのだなと。
◆11月6日
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙4:2>
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
* * *
カルトとか散々な言われようをされてる母教会。高校時代に(今は所属している)日基教団の教会行って全然魅力を感じられなかったから、最初は期待しないで行った。そしたら御言葉が生きているのを感じた。しかも、牧師だけでなく信徒各人から。受洗してまだ日の浅い信徒もよく聖書を知っていた。私は、こんなに生き生きと聖書を読めるなんて……!と羨ましく(まぁ傍から見れば)どっぷりハマっていった。でもそれはそれで良かったと思ってる。(私って善人)面して罪のことなど何も喋らない、リアルじゃない教会ではなかったから、信仰が育まれたのだと。
◆11月17日
明日は県立中央病院へ行く(採血・マンモを受け、CTと骨シンチの結果を聞くため)。クリアすれば、もう中央病院に行く必要はなくなる(乳癌10年の経過観察終了で)。まぁ異常なくても、何か問題あっても、神様がそれぞれのシチュエーションで私にさせたいことがあるのだろうとしか思わない。勿論、定まった日時の通院は億劫だし、病状による痛みや治療の副作用による嘔吐ではそれなりに苦しむだろうが、変に運命を呪ったりしない。乳癌の治療を通じて、上田三四二の境遇に起こった Creative Illness の真実さ(2017年2月17日読了の、玉井清弘著『鑑賞・現代短歌:上田三四二 』で知った)を私なりに味わえたのは幸いだった。
* * *
<新改訳第三版 詩篇104:34>
私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
◆11月23日
<新改訳第三版 詩篇104:2-3>
あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。
(新改訳第三版とは最新版ではない。ジャズにI’m Old Fashioned という曲があるが、私はまさにそういうタイプの人間。)
↓ ↓ ↓
もう少し遅く散歩をと考えてたが、この「雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます」を読んだら雲に会いたくなり、すぐ外へ。風が強い。そろそろニット帽も出さなきゃ、モッズコートにライナーもつけなきゃ、と。神様の歩く姿って創世記3:8にもチラッと書かれてるが、どんなかな?と興味ある。
* * *
[日中、久々に「星合」という自分でもトンデモ系と分かってる記事を読み返し、改めて「サタン スペル」と検索し、土星Saturnと聖書のサタンSatanは別物と判った。だから私の記事は誤謬を含んでるのだが、今更占いについての記述に整合性を追求しようとは思わないので放置する。]
* * *
で、その件が頭に残っていて(風…風…)と思い巡らして、つい「風の星座」のことを考えてしまった。火地風水の4種に星座を分類する方法はよく知られてるが、3種類のグループ分けもある(詳述はしない)。一般に前者のグループ内は仲が良く、後者のグループ内はお互い険悪と言われてる。私は山羊座で、後者のグループ内の天秤座とは相性が悪いように十代の頃は思ってた(兄が天秤座なので、やっぱりな…的な刷り込みもあったかも)。でも働き始めてから、一緒に活動して大きい成果を出せてきた要所要所に天秤座の人がいた(BGM会社の営業の方/たにぴさん/作業所の後輩/深水さん)。
…と書くと(何だ、今でも占いズッポリじゃん!)と思われるだろう。もう占いの本は全部捨てたが、そのくらい詳しかったのだ。でも結局、占いは自他共に裁き、自分が変わらないことを正当化するマインドセットを強化するだけだった(少なくとも私には)。私が、占いに心が傾きがちなクリスチャンに厳しい目を向けてしまうのも、その辺に理由がある。
◆11月29日
昨晩はぼんやりしてて鎮静剤の加減を少し失敗。鎮静剤の残り具合が案外キツく、外出から帰宅して寝込んだ。年末までタイトな予定組んでるから一日の取りこぼしが痛いのだが、自分の中には力が無いのを痛感。昨日も平然と手紙書いてたように傍からは見えたかもしれぬが、実は(力を下さい)と祈って書いた。
* * *
<フランシスコ会訳 詩編19:8-9>
主の教えは完全で、魂を生き返らせ、
主の諭しは変わらず、わたしの精神に知恵を与える。
主の定めは正しく、わたしの心を喜ばせ、
主の戒めは清く、わたしの目を輝かせる。
(12月5日礼拝の交読詩編より)
↓ ↓ ↓
神様から力をいただかなければ日々できぬことばかり(起床/通所/人を傷つけぬ会話/思考整理/プランニング/買い物/礼拝出席/読書/文章書き/入眠,etc.)。私がTwitterで時々考えモードになるのは、ええカッコしぃでなく、そうしないと動けぬドツボに嵌まり込んでるだけ。今も詩編19読んだら力湧いてきた。
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙4:2>
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
* * *
カルトとか散々な言われようをされてる母教会。高校時代に(今は所属している)日基教団の教会行って全然魅力を感じられなかったから、最初は期待しないで行った。そしたら御言葉が生きているのを感じた。しかも、牧師だけでなく信徒各人から。受洗してまだ日の浅い信徒もよく聖書を知っていた。私は、こんなに生き生きと聖書を読めるなんて……!と羨ましく(まぁ傍から見れば)どっぷりハマっていった。でもそれはそれで良かったと思ってる。(私って善人)面して罪のことなど何も喋らない、リアルじゃない教会ではなかったから、信仰が育まれたのだと。
◆11月17日
明日は県立中央病院へ行く(採血・マンモを受け、CTと骨シンチの結果を聞くため)。クリアすれば、もう中央病院に行く必要はなくなる(乳癌10年の経過観察終了で)。まぁ異常なくても、何か問題あっても、神様がそれぞれのシチュエーションで私にさせたいことがあるのだろうとしか思わない。勿論、定まった日時の通院は億劫だし、病状による痛みや治療の副作用による嘔吐ではそれなりに苦しむだろうが、変に運命を呪ったりしない。乳癌の治療を通じて、上田三四二の境遇に起こった Creative Illness の真実さ(2017年2月17日読了の、玉井清弘著『鑑賞・現代短歌:上田三四二 』で知った)を私なりに味わえたのは幸いだった。
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<新改訳第三版 詩篇104:34>
私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
◆11月23日
<新改訳第三版 詩篇104:2-3>
あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。
(新改訳第三版とは最新版ではない。ジャズにI’m Old Fashioned という曲があるが、私はまさにそういうタイプの人間。)
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もう少し遅く散歩をと考えてたが、この「雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます」を読んだら雲に会いたくなり、すぐ外へ。風が強い。そろそろニット帽も出さなきゃ、モッズコートにライナーもつけなきゃ、と。神様の歩く姿って創世記3:8にもチラッと書かれてるが、どんなかな?と興味ある。
* * *
[日中、久々に「星合」という自分でもトンデモ系と分かってる記事を読み返し、改めて「サタン スペル」と検索し、土星Saturnと聖書のサタンSatanは別物と判った。だから私の記事は誤謬を含んでるのだが、今更占いについての記述に整合性を追求しようとは思わないので放置する。]
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で、その件が頭に残っていて(風…風…)と思い巡らして、つい「風の星座」のことを考えてしまった。火地風水の4種に星座を分類する方法はよく知られてるが、3種類のグループ分けもある(詳述はしない)。一般に前者のグループ内は仲が良く、後者のグループ内はお互い険悪と言われてる。私は山羊座で、後者のグループ内の天秤座とは相性が悪いように十代の頃は思ってた(兄が天秤座なので、やっぱりな…的な刷り込みもあったかも)。でも働き始めてから、一緒に活動して大きい成果を出せてきた要所要所に天秤座の人がいた(BGM会社の営業の方/たにぴさん/作業所の後輩/深水さん)。
…と書くと(何だ、今でも占いズッポリじゃん!)と思われるだろう。もう占いの本は全部捨てたが、そのくらい詳しかったのだ。でも結局、占いは自他共に裁き、自分が変わらないことを正当化するマインドセットを強化するだけだった(少なくとも私には)。私が、占いに心が傾きがちなクリスチャンに厳しい目を向けてしまうのも、その辺に理由がある。
◆11月29日
昨晩はぼんやりしてて鎮静剤の加減を少し失敗。鎮静剤の残り具合が案外キツく、外出から帰宅して寝込んだ。年末までタイトな予定組んでるから一日の取りこぼしが痛いのだが、自分の中には力が無いのを痛感。昨日も平然と手紙書いてたように傍からは見えたかもしれぬが、実は(力を下さい)と祈って書いた。
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<フランシスコ会訳 詩編19:8-9>
主の教えは完全で、魂を生き返らせ、
主の諭しは変わらず、わたしの精神に知恵を与える。
主の定めは正しく、わたしの心を喜ばせ、
主の戒めは清く、わたしの目を輝かせる。
(12月5日礼拝の交読詩編より)
↓ ↓ ↓
神様から力をいただかなければ日々できぬことばかり(起床/通所/人を傷つけぬ会話/思考整理/プランニング/買い物/礼拝出席/読書/文章書き/入眠,etc.)。私がTwitterで時々考えモードになるのは、ええカッコしぃでなく、そうしないと動けぬドツボに嵌まり込んでるだけ。今も詩編19読んだら力湧いてきた。