水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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一首鑑賞(45):木俣修「はつかなる慈善とげきて」

2017年06月07日 14時20分38秒 | 一首鑑賞
はつかなる慈善とげきて自嘲ともつかぬわびしさぞ師走の街に
木俣修『呼べば谺』


 師走に慈善活動をしてきたというのは、おそらく炊き出しのことに違いない。今の時代も近くでは甲府などで教会関連団体が主催の炊き出しが行われていると聞く。「はつかなる」とは「僅かな」という意味である。その言葉は決して謙遜ではなく、活動を行う方々の実感が籠っている気がする。
 以前FEBCラジオの特別番組で、東八幡キリスト教会の奥田知志牧師がホームレス支援の現場についてのお話をなさっていた。炊き出しで路上を回るのは大体、夜の8時から深夜の1時前まで。帰ってきてベッドに潜り込んで、自分は何をやっているのか、という思いに囚われるそうだ。先ほどまで親身に「相談に乗りますよ」などと言いつつ、ちゃっかり自分は家に帰って逃げ場を作っているという現実は免れようもない。だから、床の中で「神様、(ホームレスの)彼らと一緒にいてください。ごめんなさい」と祈るしかできないと言う。慈善行為も「所詮、罪人の運動」という認識を失くしたら、非常に厭らしい活動になるし、いいことをやっているんだという自己欺瞞に陥るのだと語られていた。
 木俣が慈善を為してきて自責の念を抱いたというのは、そういう意味では救いである。ヨハネによる福音書6章にイエスが5000人に食べ物を分け与える奇跡が記されている。9節に「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と弟子のアンデレが言ったとある。私達に献げられるのはまさにそうした気持ちばかりのものに過ぎず、それを祝して用いてくださるのは、ただ神なのである。——「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一 1章31節)——この御言葉をいつも肝に銘じておきたい。
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