自裁せしは背きしにあらず神よただ従(つ)き行く力さえ無くしたのです
歌集『ミカエルの秤』には、イエスを裏切ったユダに思いを致す歌がいくつも見られる。掲出歌以外でイスカリオテのユダに直接言及した歌には、次のようなものがある。
裏切りし己に耐えず縊れたるユダ 耐え耐えて生きたるペテロ
「生まれざりせばよかりしものを」ユダよ汝はも創られし者
年々にユダをあわれと思いきぬその愚かさもわがものなれば
二首目の括弧内の引用は、マタイによる福音書26章24節のイエスの言葉である。最後の晩餐の場で、イエスは自分を裏切ろうとしている一人の弟子について「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と述べているのだ。これを字句通りに《その者はいなければ良かった》と取るのは早計であろう。イエスは裏切る者の末路に思いを馳せ、その者自身のために心から憐れんでいるのである。
私は長いこと、ユダに対するこの主の言葉の真意を測りかねていた。天にいます神が私達に問うてくる義はそれほどまでに強堅で侵し難いものに思えたからだ。だから、掲出歌に出遭った時きっぱりした言いぶりに潔さを感じつつも、そう断言できるものだろうかと訝しむ気持ちが湧いてきたことは否めない。本多のこの歌に惹かれ、折々に思い起こして考えを巡らせながらも、私の中で判断は留保されたままだった。
その疑念の雲が晴れたのはつい先日のこと。私は聖書通読の日課でマタイによる福音書27章を読んでいて、3〜7節がふと意識に引っかかってきた。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
私は20年以上この聖句を読んできて、ユダはただ捨て鉢になって神殿にイエスを売った銀貨を投げ入れたのだとばかり思い込んでいた。しかしユダは、イエス様を売って得たこのお金は、神にお返しするしかないと、《主よ、受け止めて…!!》という心の叫びを以って捧げたのではあるまいか。してみると、本多の歌は自身の見方の表明ではなく、ユダのための、またユダと同じような罪をおかした人達のための執り成しの祈りと言えないだろうか。
悲しいことだが、自死を選ぶ人は後を絶たない。自ら口を封じて逝ってしまった彼の人々のために、せめて本多のこの歌に祈りを合わせる者でありたい。
本多峰子『ミカエルの秤』
歌集『ミカエルの秤』には、イエスを裏切ったユダに思いを致す歌がいくつも見られる。掲出歌以外でイスカリオテのユダに直接言及した歌には、次のようなものがある。
裏切りし己に耐えず縊れたるユダ 耐え耐えて生きたるペテロ
「生まれざりせばよかりしものを」ユダよ汝はも創られし者
年々にユダをあわれと思いきぬその愚かさもわがものなれば
二首目の括弧内の引用は、マタイによる福音書26章24節のイエスの言葉である。最後の晩餐の場で、イエスは自分を裏切ろうとしている一人の弟子について「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と述べているのだ。これを字句通りに《その者はいなければ良かった》と取るのは早計であろう。イエスは裏切る者の末路に思いを馳せ、その者自身のために心から憐れんでいるのである。
私は長いこと、ユダに対するこの主の言葉の真意を測りかねていた。天にいます神が私達に問うてくる義はそれほどまでに強堅で侵し難いものに思えたからだ。だから、掲出歌に出遭った時きっぱりした言いぶりに潔さを感じつつも、そう断言できるものだろうかと訝しむ気持ちが湧いてきたことは否めない。本多のこの歌に惹かれ、折々に思い起こして考えを巡らせながらも、私の中で判断は留保されたままだった。
その疑念の雲が晴れたのはつい先日のこと。私は聖書通読の日課でマタイによる福音書27章を読んでいて、3〜7節がふと意識に引っかかってきた。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
私は20年以上この聖句を読んできて、ユダはただ捨て鉢になって神殿にイエスを売った銀貨を投げ入れたのだとばかり思い込んでいた。しかしユダは、イエス様を売って得たこのお金は、神にお返しするしかないと、《主よ、受け止めて…!!》という心の叫びを以って捧げたのではあるまいか。してみると、本多の歌は自身の見方の表明ではなく、ユダのための、またユダと同じような罪をおかした人達のための執り成しの祈りと言えないだろうか。
悲しいことだが、自死を選ぶ人は後を絶たない。自ら口を封じて逝ってしまった彼の人々のために、せめて本多のこの歌に祈りを合わせる者でありたい。