難解な一日でした言い訳をするほど重くなる新聞紙
歌集『やさしいぴあの』は三部構成に組まれており、Ⅰ章とⅢ章の中心は恋の歌である。対してⅡ章は、家族のことを詠った自伝的な連作二本で成っている。歌集の標題紙の裏には、嶋田自身のものと思われるこんな短文が印刷されている。
よろこびは歌うもの、かなしみは奏でるもの。
愛は、いたるところに響きあうもの。
掲出歌は、Ⅱ章の「𝄐葬送」という連作に収められた一首である。「𝄐葬送」は、洋品店を廃業して新聞販売店を始めた父のもとに始めた新聞配達にまつわる歌で占められる。甘く切ない歌の目立つ歌集全体から見てとても重い内容を孕んだ一連で、掲出歌においてはとりわけ苦みが色濃い。色々難しいことがあった一日を終え、鬱々としながら余った新聞紙を縛っていると新聞紙の重みが腕にずっしりと感じられた、という情景が浮かぶ。新聞紙は一枚一枚は薄く軽いが束になると重い。嶋田にとっては生活の糧を得るためのものであるから、この歌に生きていく上でのやり切れなさを読み取るのは的外れではないだろう。
昨日、作業所でちょっとした人間関係のトラブルがあった。ある失敗をして動揺しているメンバーに追い打ちをかけるように注意をしてしまい、さらに混乱させてしまったのである。彼は少し休憩を取った後、作業に戻ってきてからは職員に、自分の不甲斐なさや過去のことを畳み掛けるように話した。その中に「プライドを傷つけられるのは嫌だ」「教会へ行っているとか言うけど、何なんだろうか」といったフレーズが混じっていたのが隣りに座っていた私にも聞こえ、内心穏やかではいられなかった。その日は、世間を震撼させた事件の死刑囚の刑執行がされた日でもあり、また偶然に他のメンバーがあるメンバーに「統一教会」とか冗談を飛ばしていたのも耳に入り、自分自身の言動がきつかったくせに少し被害妄想的な気分になってしまった。
苦しいことがあった時、私は頭の中で聖書の言葉を追いかけ始める。家に帰って悶々と考え込んでいると「懲らしめを」という箇所がどこか聖書にあったのを思い出した。検索してみると、哀歌3章30節「打つ者に頬を向けよ 十分に懲らしめを味わえ」(新共同訳)だった。前後を読んで一番しっくりきた新改訳を少し引く。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
嶋田の「新聞紙」は、一般的な就労から遠ざかっている今の私の場合、〈聖書〉がそれに当たるかもしれない。私にとって聖書はそのくらい生活に即したものなのだ。聖句は決して安易な気休めは与えない。自分に言い訳をするほど様々な御言葉は重くのしかかってもこよう。だが主によってその時々で与えられる聖句は、私の心を支えてくれる。——黙って座って主の救いを待つこと、十分にそしりを受けること——。10年以上前から私の心に近くあった聖句が、新たな深さを伴って私に迫ってきた。これこそ真の慰めである。
嶋田さくらこ『やさしいぴあの』
歌集『やさしいぴあの』は三部構成に組まれており、Ⅰ章とⅢ章の中心は恋の歌である。対してⅡ章は、家族のことを詠った自伝的な連作二本で成っている。歌集の標題紙の裏には、嶋田自身のものと思われるこんな短文が印刷されている。
よろこびは歌うもの、かなしみは奏でるもの。
愛は、いたるところに響きあうもの。
掲出歌は、Ⅱ章の「𝄐葬送」という連作に収められた一首である。「𝄐葬送」は、洋品店を廃業して新聞販売店を始めた父のもとに始めた新聞配達にまつわる歌で占められる。甘く切ない歌の目立つ歌集全体から見てとても重い内容を孕んだ一連で、掲出歌においてはとりわけ苦みが色濃い。色々難しいことがあった一日を終え、鬱々としながら余った新聞紙を縛っていると新聞紙の重みが腕にずっしりと感じられた、という情景が浮かぶ。新聞紙は一枚一枚は薄く軽いが束になると重い。嶋田にとっては生活の糧を得るためのものであるから、この歌に生きていく上でのやり切れなさを読み取るのは的外れではないだろう。
昨日、作業所でちょっとした人間関係のトラブルがあった。ある失敗をして動揺しているメンバーに追い打ちをかけるように注意をしてしまい、さらに混乱させてしまったのである。彼は少し休憩を取った後、作業に戻ってきてからは職員に、自分の不甲斐なさや過去のことを畳み掛けるように話した。その中に「プライドを傷つけられるのは嫌だ」「教会へ行っているとか言うけど、何なんだろうか」といったフレーズが混じっていたのが隣りに座っていた私にも聞こえ、内心穏やかではいられなかった。その日は、世間を震撼させた事件の死刑囚の刑執行がされた日でもあり、また偶然に他のメンバーがあるメンバーに「統一教会」とか冗談を飛ばしていたのも耳に入り、自分自身の言動がきつかったくせに少し被害妄想的な気分になってしまった。
苦しいことがあった時、私は頭の中で聖書の言葉を追いかけ始める。家に帰って悶々と考え込んでいると「懲らしめを」という箇所がどこか聖書にあったのを思い出した。検索してみると、哀歌3章30節「打つ者に頬を向けよ 十分に懲らしめを味わえ」(新共同訳)だった。前後を読んで一番しっくりきた新改訳を少し引く。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
(新改訳 哀歌3章26〜30節)
嶋田の「新聞紙」は、一般的な就労から遠ざかっている今の私の場合、〈聖書〉がそれに当たるかもしれない。私にとって聖書はそのくらい生活に即したものなのだ。聖句は決して安易な気休めは与えない。自分に言い訳をするほど様々な御言葉は重くのしかかってもこよう。だが主によってその時々で与えられる聖句は、私の心を支えてくれる。——黙って座って主の救いを待つこと、十分にそしりを受けること——。10年以上前から私の心に近くあった聖句が、新たな深さを伴って私に迫ってきた。これこそ真の慰めである。