水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
詳細は、こちらの記事をご覧ください。

Amazon等で購入できます。 また、HonyaClub で注文すれば、ご指定の書店で受け取ることもできます。

ご希望の方には、献本も受け付けております。詳細は、こちらの記事をご覧ください。

また、読書にご不自由のある方には【サピエ図書館】より音声データ(デイジーデータ)をご利用いただけます。詳細は、こちらの記事をご覧ください。

一首鑑賞(63):水島和夫「むしろ痛みは疼きつづけよ」

2018年12月26日 15時33分32秒 | 一首鑑賞
喉元すぎれば忘れるわれにむしろ痛みは疼きつづけよ
水島和夫『田端日記抄』


 ぐさりと意識を突き刺してくる歌だ。「手術」と題された一連に含まれており、ペースメーカーを埋め込む手術が施されたことからして、この「痛み」は実感の伴う肉体の痛みと取るのが妥当なのは無論のことではある。けれどここでは敢えて歌集全体に目を配り、「むしろ痛みは疼きつづけよ」という自身への叱咤を作者の生きる姿勢にまで敷衍させて読み解きたい。
 『田端日記抄』のⅡ章には、長女の子が生後まもなく息を引き取った経緯がつぶさに詠み込まれている。水島家は揃って主イエスを信奉する家庭であったようだが、この孫の急死以降、水島の妻も、また赤子の母である長女も、神への信仰を失っていく。

  時は決して傷を癒してくれざりとたんたんと言へるあはれ娘は
  吾が祈りにともに頭(かうべ)を垂れゐしが妻は「然り(アーメン)」といはずなりたり
  「神がゐないことがはつきりわかつたから」とあはれ娘が言ふ
  「地獄を見せてもらつた」と妻は言ひ、以来教会へ行かずなりたり


 水島自身は辛うじて信仰を持ち堪えたようだ。娘や妻の胸中は痛いほど解る。しかしあれほど信を寄せていた神を離反していく二人を前に為す術もなく、断腸の思いであっただろうことは容易に察しがつく。

  不条理文学「ヨブ記」の神の行なひにつくづくわれは嫌気がさしぬ
  兄弟がともに祈りくれたればこみあげてわが嗚咽となりぬ


 歌集を通じて暗い影が立ち込めている。まさに救いがない、という感じなのだ。それでも水島は絞り出すように詠う。

  結び目がほどけるやうに赤子の死の意味がわかる日が来るだらうか
  教会を離れし妻をイエスならどんな喩をもて慰さめ給はむ


 ルカによる福音書7章に、ナインという町のやもめの息子を生き返らせる話がある。〈イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。〉(ルカによる福音書7章12〜13節)その後、イエスはやもめの亡くなった息子に呼びかけ息を吹きかえらせる。描写はシンプルで、イエスがどのようにやもめに声をかけられたか、表情ややり取りの具体は詳述されていない。もしかしたら、水島もこのルカ7章のくだりを何度も目で追い、祈る気持ちで想像を巡らしたかもしれない。
 掲出歌を含む一連が置かれているのは歌集の終盤である。あとがきで「ほぼ編年順」に編集したと記され、またこの歌集が第二歌集から丸二十年ぶりの上梓とあるので、掲出歌は孫の死去よりある程度の年数が経った頃の歌と思われる。孫の死が胸を引き裂くばかりの痛みであったことに変わりはない。だが背負わされた辛苦は、行きつ戻りつしながらも時と共に薄らぐこともあったろう。その上で水島は「むしろ痛みは疼きつづけよ」と振り絞る。この叫びに、私は使徒パウロの言葉を思い出す。身に与えられた「とげ」を取り除いてほしいと祈ったパウロに主から与えられた答えはこうだった。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙 二 12章9節)。そしてパウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と結ぶ。
 むしろ痛みは疼きつづけよ——これは、変わらぬ愛で孫を愛し続けたいという思い、そして筆舌に尽くし難い苦難の中で、それでもなお主の恵みのうちに生き続けたいという水島の意志表明ではなかったか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする