ひとりきり風呂で涙を流したらバスタブに浮くアヒルが見てた
歌集からは、山上が周囲より辛い仕打ちを受けて成長してきたことがありありと伝わるのだが、掲出歌一首を読み解くには情報過多とも思えるのでそれはひとまず措く。心痛むことがあった日の終わりに、ひとり風呂に入ってさめざめと泣いた経験を持つ方は少なくないと思う。風呂場なら誰の気兼ねもなく思い切り泣ける。頰を伝う涙も湯気で覆い隠され、最終的にはシャワーで涙を洗い流して人心地つく——身に覚えのある人も多いはずだ。
しかし、そのように遣りどころのない痛みを密室で押し潰してしまうことが常態化していたのだとしたら、それは息が詰まるような生活に違いない。山上も、こうして隠れた場所で泣いている私を誰も知らない……と虚しさに襲われた時、ふと湯船に浮かぶゴム製のアヒルのおもちゃと目が合ったと詠んだ。そしてそう思えたことで幾分救われる気持ちがしたのではないだろうか。
私の話で恐縮だが、二十代の終わりに東京のBGM制作会社に勤務していた頃、仕事が忙しく残業と休日出勤はざらだった。日曜日にやっとの思いで礼拝へ行き、午後から会社へ行って仕事をしたある日のこと。顧客の某レストランのBGMサンプル用の選曲に苦心しながら、(ああ、辛いなぁ。こんなこと誰も見ていないんだよなぁ)と思い天井をふと見上げたら、私の席の上方に何とゴキブリがいたのだった。いつもなら大騒ぎするところだが、私は(ゴキブリが……見ていた……!!)と何故か励まされ、その後の作業はスムーズに進んだ。帰り際もう一度天井に目をやると、もうゴキブリはいなかった。
「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる」で始まる詩編139編を愛誦しているクリスチャンはおそらく多いことだろう。同11節には、<わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」>と続く。これを聞いて「まぁ、神様だって言うならね。遠くから見ているくらいするでしょうよ」と半ばひねた目で思う方もいるかもしれない。
祭司長や律法学者に引き渡されたイエスを見捨てて逃げてしまったペトロだが、人目を憚りつつも距離をおいて後について行く。その過程でイエスの仲間だろうと問い質され、三度否認してしまう。ルカによる福音書22章61〜22節に<主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた>と書かれている。私は長いことこの聖句を読んで、振り返られたイエスは咎めるような、刺すような眼差しをしていたように捉えていた。だが最近、イエスを裏切ったことを後悔して号泣したペトロの涙も、イエス様はご覧になっていたのだなと思い至るようになった。その時のイエスの目はペトロを責めていただろうか?いや、きっと慈しみの眼差しだったのではと私は想像する。
私達が「ひとりきり風呂で涙を流」すような時、ご在天の父なる神が遠くから見ているだけでなく、傍に立つ者としてのイエス様が私達の涙をご覧になっている——そう考えると抱えている重荷がいくらか軽くなるような気がするのだ。
山上秋恵『オレンジの墓標』
歌集からは、山上が周囲より辛い仕打ちを受けて成長してきたことがありありと伝わるのだが、掲出歌一首を読み解くには情報過多とも思えるのでそれはひとまず措く。心痛むことがあった日の終わりに、ひとり風呂に入ってさめざめと泣いた経験を持つ方は少なくないと思う。風呂場なら誰の気兼ねもなく思い切り泣ける。頰を伝う涙も湯気で覆い隠され、最終的にはシャワーで涙を洗い流して人心地つく——身に覚えのある人も多いはずだ。
しかし、そのように遣りどころのない痛みを密室で押し潰してしまうことが常態化していたのだとしたら、それは息が詰まるような生活に違いない。山上も、こうして隠れた場所で泣いている私を誰も知らない……と虚しさに襲われた時、ふと湯船に浮かぶゴム製のアヒルのおもちゃと目が合ったと詠んだ。そしてそう思えたことで幾分救われる気持ちがしたのではないだろうか。
私の話で恐縮だが、二十代の終わりに東京のBGM制作会社に勤務していた頃、仕事が忙しく残業と休日出勤はざらだった。日曜日にやっとの思いで礼拝へ行き、午後から会社へ行って仕事をしたある日のこと。顧客の某レストランのBGMサンプル用の選曲に苦心しながら、(ああ、辛いなぁ。こんなこと誰も見ていないんだよなぁ)と思い天井をふと見上げたら、私の席の上方に何とゴキブリがいたのだった。いつもなら大騒ぎするところだが、私は(ゴキブリが……見ていた……!!)と何故か励まされ、その後の作業はスムーズに進んだ。帰り際もう一度天井に目をやると、もうゴキブリはいなかった。
「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる」で始まる詩編139編を愛誦しているクリスチャンはおそらく多いことだろう。同11節には、<わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す」>と続く。これを聞いて「まぁ、神様だって言うならね。遠くから見ているくらいするでしょうよ」と半ばひねた目で思う方もいるかもしれない。
祭司長や律法学者に引き渡されたイエスを見捨てて逃げてしまったペトロだが、人目を憚りつつも距離をおいて後について行く。その過程でイエスの仲間だろうと問い質され、三度否認してしまう。ルカによる福音書22章61〜22節に<主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた>と書かれている。私は長いことこの聖句を読んで、振り返られたイエスは咎めるような、刺すような眼差しをしていたように捉えていた。だが最近、イエスを裏切ったことを後悔して号泣したペトロの涙も、イエス様はご覧になっていたのだなと思い至るようになった。その時のイエスの目はペトロを責めていただろうか?いや、きっと慈しみの眼差しだったのではと私は想像する。
私達が「ひとりきり風呂で涙を流」すような時、ご在天の父なる神が遠くから見ているだけでなく、傍に立つ者としてのイエス様が私達の涙をご覧になっている——そう考えると抱えている重荷がいくらか軽くなるような気がするのだ。