◆8月7日
新共同コリント⑵8:4「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」は端的には献金。〈慈善の業と奉仕に参加させてほしい〉は新改訳で〈ささえる交わりの恵みにあずかりたい〉。こういう態度で献金してるだろうか?
◆8月8日
イザヤ65:2「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」邦訳で読み流してたがNLTで唖然。「民」は神を知ってる筈の民か!〈they follow their own evil paths and their own crooked schemes〉。悪の小道も歪んだ企みも自分自身の考えに拠る、と
◆8月8日
協同訳イザヤ65:5〈「そばに来るな、私に近寄るな。私はあなたに比べて清いのだから」と…この者たちは私の鼻から出る煙…〉NLTは更に強烈。‘Don’t come too close or you will defile me!近寄るな,さもないと穢される’。神が民をa stench in my nostrils(私の鼻腔の悪臭)と仰るのは尤も
◆8月13日
協同訳コリント⑵13:11「…初心に帰りなさい。励まし合いなさい…そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。〈励まし合いなさい〉は新改訳で「慰めを受けなさい」。確かに私達は主より慰めを受けたのだ。そのように身を低くしなければ、励ましにも頑なになる
◆8月15日
旧約の預言書で、神が仰ったことと預言者自身の言葉の境目が判り辛いな、と常々。エレミヤ書9章を読んでて、新改訳では〈わたし〉が神で、〈私〉が預言者自身だとはたと気づく。永田愛さんの歌集での〈いもうと〉と〈妹〉表記の使い分けを、近江瞬さんが指摘されてたお蔭。ありがとうございます
◆8月19日
ガラテヤ4:20。聖書協会の各訳で、パウロは対面で糾弾を望んでるのかと。新改訳「…今あなたがたといっしょにいることができたら…こんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っている…」で誤読と判明。パウロはネット社会の困難を先取りしてたかも
◆8月21日
新改訳ガラテヤ6:3「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」。無宗教と言う朋の手紙に「◯◯ちゃんは神様に選ばれた人と思う」と。実際選ばれた感はある(発病で都落ちしたから余計に)が、誇るまい。召し出しもただ賜物だから
◆8月22日
主の栄光を前に茫然と「わたしは汚れた唇の者」と叫んだイザヤ(イザヤ6:5)や、時に毒々しくなるエレミヤやパウロを神が召し出した意味を考えてる。そういう器だから用いた、というのではないかもしれないが。もちろん彼らの例を自己正当化の根拠にしてはならないのは言うまでもない。
◆8月23日
新改訳エレミヤ20:8「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」。短歌界では異端児と自覚あり。ある方が、個人的な信仰で我儘に短歌へ言及する向きに不快感を。歌を見て聖句が呼び覚まされる私の性向は如何ともし難い。新共同20:9「わたしの負けです」
◆8月29日
新改訳エレミヤ26:14。高官らに「このとおり、私はあなたがたの手の中にあります…あなたがたがよいと思うよう…なさい」とエレミヤ。12:1「主…が正しい…それでも、さばきについて…お聞きしたい…なぜ、悪者…は栄え…」と神に挑んだ彼がここまで。究極、敵も御手の内と悟ったか(詩31:15)
◆8月30日
エレミヤ28章。自分の重荷を安易に取り除いてくれそうな人を見境なく支持しがちな私達。ハナンヤはエレミヤから枷を外して阿ることを言った(28:10-11)が、主の御心は違った。軛を負うことで最終的にご計画が成し遂げられる場合もある(28:14)。神にいつも尋ねつつ歩む者でありたい。
新共同コリント⑵8:4「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした」は端的には献金。〈慈善の業と奉仕に参加させてほしい〉は新改訳で〈ささえる交わりの恵みにあずかりたい〉。こういう態度で献金してるだろうか?
◆8月8日
イザヤ65:2「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」邦訳で読み流してたがNLTで唖然。「民」は神を知ってる筈の民か!〈they follow their own evil paths and their own crooked schemes〉。悪の小道も歪んだ企みも自分自身の考えに拠る、と
◆8月8日
協同訳イザヤ65:5〈「そばに来るな、私に近寄るな。私はあなたに比べて清いのだから」と…この者たちは私の鼻から出る煙…〉NLTは更に強烈。‘Don’t come too close or you will defile me!近寄るな,さもないと穢される’。神が民をa stench in my nostrils(私の鼻腔の悪臭)と仰るのは尤も
◆8月13日
協同訳コリント⑵13:11「…初心に帰りなさい。励まし合いなさい…そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」。〈励まし合いなさい〉は新改訳で「慰めを受けなさい」。確かに私達は主より慰めを受けたのだ。そのように身を低くしなければ、励ましにも頑なになる
◆8月15日
旧約の預言書で、神が仰ったことと預言者自身の言葉の境目が判り辛いな、と常々。エレミヤ書9章を読んでて、新改訳では〈わたし〉が神で、〈私〉が預言者自身だとはたと気づく。永田愛さんの歌集での〈いもうと〉と〈妹〉表記の使い分けを、近江瞬さんが指摘されてたお蔭。ありがとうございます
◆8月19日
ガラテヤ4:20。聖書協会の各訳で、パウロは対面で糾弾を望んでるのかと。新改訳「…今あなたがたといっしょにいることができたら…こんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っている…」で誤読と判明。パウロはネット社会の困難を先取りしてたかも
◆8月21日
新改訳ガラテヤ6:3「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです」。無宗教と言う朋の手紙に「◯◯ちゃんは神様に選ばれた人と思う」と。実際選ばれた感はある(発病で都落ちしたから余計に)が、誇るまい。召し出しもただ賜物だから
◆8月22日
主の栄光を前に茫然と「わたしは汚れた唇の者」と叫んだイザヤ(イザヤ6:5)や、時に毒々しくなるエレミヤやパウロを神が召し出した意味を考えてる。そういう器だから用いた、というのではないかもしれないが。もちろん彼らの例を自己正当化の根拠にしてはならないのは言うまでもない。
◆8月23日
新改訳エレミヤ20:8「私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」。短歌界では異端児と自覚あり。ある方が、個人的な信仰で我儘に短歌へ言及する向きに不快感を。歌を見て聖句が呼び覚まされる私の性向は如何ともし難い。新共同20:9「わたしの負けです」
◆8月29日
新改訳エレミヤ26:14。高官らに「このとおり、私はあなたがたの手の中にあります…あなたがたがよいと思うよう…なさい」とエレミヤ。12:1「主…が正しい…それでも、さばきについて…お聞きしたい…なぜ、悪者…は栄え…」と神に挑んだ彼がここまで。究極、敵も御手の内と悟ったか(詩31:15)
◆8月30日
エレミヤ28章。自分の重荷を安易に取り除いてくれそうな人を見境なく支持しがちな私達。ハナンヤはエレミヤから枷を外して阿ることを言った(28:10-11)が、主の御心は違った。軛を負うことで最終的にご計画が成し遂げられる場合もある(28:14)。神にいつも尋ねつつ歩む者でありたい。