◆10月2日
新改訳⑵テモテ2:24〜「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう」。人を赦せぬことが苦い根になって苦しんでるメンバーが職場に。私はこの聖句を信じようと思った。今朝生涯で初めて「柔和さを下さい」と祈った。続けて祈る。
◆10月12日
フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる
◆10月14日
新改訳ヘブル2:18「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。イエスが悪魔から試みを受けたとマタイ4章。説教では誘惑内容の分類的な解説になりがちだが、主が幻聴の苦しみを経験されたことがもっと語られても良いのでは?
◆10月20日
協同訳ヘブライ4:15「…私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた…」作業所某メンバーのため祈り始めて彼への主の想いが解ってきた。ヨハネ5章の、38年間病気で絶望してた人のネガティヴを裁かず、尚も治るのを信じたのが主
◆10月21日
エゼキエル37章。骨を前に神はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか」と。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えた彼に「枯れた骨よ、主の言葉を聞け…お前たちは生き返る」と預言せよと神。彼は従うが内心信じてたかどうか。疑いつつも従って奇跡を見るってある
◆10月28日
新改訳ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」。作業所某メンバーの癒しと私自身の柔和さを求め「神様、◯◯さんといて下さい。そして私とも一緒にいて下さい」と祈り始め、手応えがあった。 でも今朝「ああFEBCスタッフの方々も祈って下さっていたんだ!」と目から鱗 。FEBC宛に通読感想をツイートしてたのは私の勇気のなさ故だが、こうして綴り続けることでスタッフの方々も共に祈って下さっていたんだなと。自分一人の祈りが聞かれてるかに思った傲慢さが恥ずかしい
◆10月29日
ヘブライ13:3「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。被虐者を思いやるのは大切。だが、同調・自分語りにより彼らの毒を助長してしまうのは避けたい
◆10月30日
ヤコブ1:19「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。怒るな、とは言ってないんだと改めて。不義に対する憤りというのもある。ただ、過剰な怒りに飲み込まれて私達が苦しむのを心配されてるのかも
◆10月31日
ダニエル2章。複雑な夢を見たネブカドネツァルは、占い師や賢者らを呼び、もし夢を当ててその解釈をせねば彼らの体を八つ裂きにし家も打ち壊すが、言い当てて正しく解釈すれば、贈り物と大いなる名誉を授けると約束。激しい気性が伝わってくる。2:8で「わたしの命令が必ず実行されることを知っているので、時間を稼ごうとしている」と知者らを罵る王だが、NLTでは〈…because you know I am serious when I say,〉とあり、王は正直な性格だったよう。後で王の夢を当て解釈したダニエルに約束通り名誉を与えた。作業所に豪快で知り合いがやたら多いボス的な女性がいるが、彼女は超正直者。嫌いな人には面と向かって「嫌い」と言うし、超お節介焼き。その彼女が昨日ある職員に「顔色悪い。月曜ちゃんと来てね」と心配してた。その職員は彼女が嫌ってた方。彼女の変容を見て、今朝改めてネブカドネツァルについての記述を読んで、ネブカドネツァルがのちに神を讃えたように、主を賛美する器として彼女を用意されたのでは、と思えてきた。誇大妄想かもしれないが、神にできないことはないので、信じて祈ることにした。
新改訳⑵テモテ2:24〜「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう」。人を赦せぬことが苦い根になって苦しんでるメンバーが職場に。私はこの聖句を信じようと思った。今朝生涯で初めて「柔和さを下さい」と祈った。続けて祈る。
◆10月12日
フィレモン25「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」。迫害する者のために祈れ、は有名だが実行は困難。私のある指摘以降、信徒のくせにと揚げ足取り的になった方が作業所に。彼が昔の傷を言うたび「神様、彼と共にいて下さい」と祈ると決心。これならできる
◆10月14日
新改訳ヘブル2:18「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」。イエスが悪魔から試みを受けたとマタイ4章。説教では誘惑内容の分類的な解説になりがちだが、主が幻聴の苦しみを経験されたことがもっと語られても良いのでは?
◆10月20日
協同訳ヘブライ4:15「…私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた…」作業所某メンバーのため祈り始めて彼への主の想いが解ってきた。ヨハネ5章の、38年間病気で絶望してた人のネガティヴを裁かず、尚も治るのを信じたのが主
◆10月21日
エゼキエル37章。骨を前に神はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるか」と。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えた彼に「枯れた骨よ、主の言葉を聞け…お前たちは生き返る」と預言せよと神。彼は従うが内心信じてたかどうか。疑いつつも従って奇跡を見るってある
◆10月28日
新改訳ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」。作業所某メンバーの癒しと私自身の柔和さを求め「神様、◯◯さんといて下さい。そして私とも一緒にいて下さい」と祈り始め、手応えがあった。 でも今朝「ああFEBCスタッフの方々も祈って下さっていたんだ!」と目から鱗 。FEBC宛に通読感想をツイートしてたのは私の勇気のなさ故だが、こうして綴り続けることでスタッフの方々も共に祈って下さっていたんだなと。自分一人の祈りが聞かれてるかに思った傲慢さが恥ずかしい
◆10月29日
ヘブライ13:3「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。被虐者を思いやるのは大切。だが、同調・自分語りにより彼らの毒を助長してしまうのは避けたい
◆10月30日
ヤコブ1:19「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」。怒るな、とは言ってないんだと改めて。不義に対する憤りというのもある。ただ、過剰な怒りに飲み込まれて私達が苦しむのを心配されてるのかも
◆10月31日
ダニエル2章。複雑な夢を見たネブカドネツァルは、占い師や賢者らを呼び、もし夢を当ててその解釈をせねば彼らの体を八つ裂きにし家も打ち壊すが、言い当てて正しく解釈すれば、贈り物と大いなる名誉を授けると約束。激しい気性が伝わってくる。2:8で「わたしの命令が必ず実行されることを知っているので、時間を稼ごうとしている」と知者らを罵る王だが、NLTでは〈…because you know I am serious when I say,〉とあり、王は正直な性格だったよう。後で王の夢を当て解釈したダニエルに約束通り名誉を与えた。作業所に豪快で知り合いがやたら多いボス的な女性がいるが、彼女は超正直者。嫌いな人には面と向かって「嫌い」と言うし、超お節介焼き。その彼女が昨日ある職員に「顔色悪い。月曜ちゃんと来てね」と心配してた。その職員は彼女が嫌ってた方。彼女の変容を見て、今朝改めてネブカドネツァルについての記述を読んで、ネブカドネツァルがのちに神を讃えたように、主を賛美する器として彼女を用意されたのでは、と思えてきた。誇大妄想かもしれないが、神にできないことはないので、信じて祈ることにした。