水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読+α 2022年7月分まとめ[追記あり]

2022年07月31日 07時01分11秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆7月13日
5月29日の教会研修会では、従来の平日の聖研が、通読の聖書の章の解説を信徒が持ち回りで担当する形式で行なっていたため(教会員の高齢化と相俟って)、参加者へのご負担が大きくなっていたという実態が明らかにされた。この【聖書と祈る会】は2020年4月2週目より休会になっていたが、日曜礼拝以外にも聖書を学ぶ機会が欲しいという教会員の声を受け、2020年10月15日より【今週の聖句に聴く会】(*ローズンゲンに基づく)というのが週一で始められた。後発の会は、牧師先生が説き明かし、参加者も感想を言ったり、解説を受けて日常を振り返っての思いを分かち合えたり、なかなか有益な機会になってる模様。ただ休止していた【聖書と祈る会】について「聖書を独りで通読して理解するのは難しい。あの会は貴重な場だった」との声も。その発言者は県の文学の賞を受賞されてた方で、ホラー的な物語を書くのに長じてる方なので私は正直驚いた。
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<新改訳第三版 イザヤ書29:11〜14>
そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
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母教会の良かったことの一つは、説教中に聖句引用の際いちいち聖書を開くこと。これにより、聖句が印象づけられたし、後から説教を振り返って辿れもした。citationの意識が明確だったのかもしれない。そのお蔭で、教会内の立場の上下に拘らず、御言葉から互いにchallengeすることもできた。時に、恣意的な聖句の読みをしたり、律法的に相手を裁き過ぎるきらいはあったが。でも、「聖句は部分だけで読むんじゃなく全体を見なければ解らない」と慎重になり過ぎるあまりに、個人で聖書に親しむハードルを必要以上に上げている感じを今の所属教会では受ける。色々な参考文献を読んだりするのは勿論有益。だけど、初めは取っ付きにくい御言葉を少しずつ読み、(これはどういう意味ですか?)と心の裡に神様に問いかけつつ読む楽しさを奪ったら、元も子もないのでは。そして神様に直に示されることの喜びを知ったら、自分でずんずん読んでいくよ。

◆7月18日
高2か高3の時、通学中に段々身体が冷えてきて気持ち悪くなり、学校に着くなり保健室に行ってベッドに横にならせてもらったことがあった。たまたま同じ時間帯に登校してたクラスメートが保健室に来て「大丈夫?」と手を握ってくれた。その子はちょっと不思議ちゃんで、周りから避けられてる子だった。
別の時に(細かい経緯は忘れたが)、私は彼女を避けたことがあった。それに気づいた彼女は「まさか……(◯◯さんまで)」と言いかけたが、自分を諭すように「まぁいいや」と小声で言った。真相はその「まさか」だったのだ。
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<新改訳第三版 マルコの福音書14:66〜72>
ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い 出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。
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主にあれだけ良くしてもらいながら、都合の悪い場面では人目を気にしてイエスを否認したペテロと、私は全く同じであった。
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イエスを信じてることを隠し立てしない今だが、ペテロと似たような自己欺瞞を他の人に対してしていないか、時々省みる。

◆7月31日
私は決められた時間に合わせての行動が得意でない。だから、作業所に定刻に行くのだけで凄く努力が要る。前に作業所にいたネブカドネツァルは、その辺凄く突ついてくる人だった。誰かが遅刻してくると皆の前で「寝坊?」と訊いたり、事務の職員が他の職員よりも遅く出勤してくるのにケチをつけたり(そういう時間での契約だろうに)。ネブカドネツァルが以前働いていたところで1分でも遅刻してくると減給されたと言っていたが、その恨みを誰彼なく向けて晴らしているような感じだった(私が苦しんでるんだからお前も苦しめ!みたいな)。
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私が昨年7月25日に作ったイヤな短歌(カッコいいよりは何だかかわいそう他部署の暴に返す残業代)の行動に出たのは、BGM会社で映像グループの人に殴られたからだけではない。50がらみの男性が私を殴っているのを傍で見ていた映像グループの女性が、「私達は◯◯ちゃんが残業している時の光熱費も稼いでいるのよ」と言ってきたので、頭に来たのだ。(そんなに言うなら残業代くらい返してやる!)と入社からその時点までの残業代を(週末で明細見て)計算し、月曜に給料の払い元である親会社の口座に振り込んだ。
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学校の級友や職場の従業員の中での不均衡に対し、牙を剥く人は結構いる。私も兄弟の間の不公平への僻みから長年抜け出せなかった。
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<新改訳第三版 イザヤ書53章5節>
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
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兄らからの不当な仕打ちに私は独り我慢しているつもりで憎しみを腹に蓄えていた。でも実際は、イエスが苦しまなければ私は癒されなかった。私は自分と巻き添えになってくれる人がいなければ、私怨をエスカレートさせるだけの業の深い人間だった。今でも基本的にはそうだ。そして(イエス様、ごめんなさい…)と言うしかできない者である。
コメント
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