春の夜を震えて咲(ひら)くマグノリア 祈りは常に形をなさず
クリスチャンでも「祈りが得意」という人はあまりいないだろう。苦手だから人前では絶対に祈りたくない、と頑なに拒む方もいる。それは、纏まらず怯えている内面が全能の神の前に晒け出された様が他者に注意深く聞かれているという状況に遭遇し、身の縮む思いをしたからかもしれない。けれど、為すすべなく打ちひしがれている時に、また他者が壮絶な苦しみの中にあるのを傍目に見守っているしかできない時に、あるいは音信の絶えそのご健康などが気にかかる方を思う時に、ただ神の前に縋るように佇むしかできないことは多くの方が経験されていることに違いない。
マグノリアはモクレン科の総称であり、具体的には紫木蓮、白木蓮、辛夷、泰山木、ホオノキなどを指す。寒さが緩み始める時分、祈りとも願いとも呻吟ともつかぬ思いが、誰の見ているわけでもない夜に、大きなマグノリアの花弁のように確かな存在感をもって震える——非常に美しい描写であると同時に、ある痛々しさも湛えている歌である。木蓮や辛夷が花ひらく頃に詠まれた歌であれば、もしかしたら東日本大震災の犠牲者のことを悼んで、つと永田の胸に降りてきた一首かとも考えられる。
長崎で被爆したクリスチャン歌人・竹山広にこういう歌がある。
一分の黙禱はまこと一分かよしなきことを深くうたがふ
この歌が収められているのは、『射禱』という題の歌集である。射祷(しゃとう)とは、カトリック信徒の間に根付いているごく短い祈りのことで、矢を射るように繰り返し祈る作法だということだ。竹山の歌集を追っていくと、第二次大戦後、竹山が長年に亘って反戦集会に参列していたことが分かる。この一首を詠んだ頃には老いも深まって集会参加はできなかったようだが、長崎への原爆投下の時刻に合わせて起きて座したことを詠んだ歌も同じ連作中には含まれていた。人の目に見える黙禱はただの一分であっても、その前には長い個人的な思索と水面下の祈りがある——。忙しさに取り紛れて何となく日々を過ごしがちな私達に、深く問いかけてくる歌である。
重い二首を引いてきたが、祈りへの敷居を高くすることが本稿の狙いではない。一つ助けになると思われる本をご紹介する。女子パウロ会発行の、来住英俊『目からウロコ〜とりなしの祈り』というごく薄い本で、この中に「イメージで祈る」という項がある。そこでは、執り成しの祈りをする際に、ある人の病状の回復や、震災・戦禍などの中にある人々の平安や具体的な助けなどを、言葉にして祈ることが毎日できるに越したことはないが、ずっと言葉で祈り続けるのは難しい場合も多いことに言及されている。その上で、祈ってあげたい人を思い浮かべ、その人と共にイエス様がいてくださること、守りの御手が添えられているのをイメージすることを通じて、執り成しの祈りが形式化したり頓挫してしまったりするのを防ぐことになると説かれている。
祈りは言葉であって、言葉でない——。前段と逆のことを述べるようであるが、バビロンの王宮に仕えた旧約聖書のダニエルという預言者について触れたい。ダニエル書9章は、祖国エルサレムの荒廃が終わるまでに七十年の歳月がかかると文書によって悟ったダニエルが、取り乱して神に訴え続ける祈りの言葉で章の半分以上が占められていることに私は注目する。動揺のままにワーッと神に語りかける言葉が続き、冷静さからはおよそ遠い祈りである。
心の奥でふと他者に思いを馳せる祈り、感情的な祈りの言葉の奔出、神はどちらにも心を留めておいでになる。神様は、きちんと整った祈りだけをお聞きになるような狭量な方ではない。皆さんの日々に、主がいつも共にいてくださいますように。
永田淳『光の鱗』
クリスチャンでも「祈りが得意」という人はあまりいないだろう。苦手だから人前では絶対に祈りたくない、と頑なに拒む方もいる。それは、纏まらず怯えている内面が全能の神の前に晒け出された様が他者に注意深く聞かれているという状況に遭遇し、身の縮む思いをしたからかもしれない。けれど、為すすべなく打ちひしがれている時に、また他者が壮絶な苦しみの中にあるのを傍目に見守っているしかできない時に、あるいは音信の絶えそのご健康などが気にかかる方を思う時に、ただ神の前に縋るように佇むしかできないことは多くの方が経験されていることに違いない。
マグノリアはモクレン科の総称であり、具体的には紫木蓮、白木蓮、辛夷、泰山木、ホオノキなどを指す。寒さが緩み始める時分、祈りとも願いとも呻吟ともつかぬ思いが、誰の見ているわけでもない夜に、大きなマグノリアの花弁のように確かな存在感をもって震える——非常に美しい描写であると同時に、ある痛々しさも湛えている歌である。木蓮や辛夷が花ひらく頃に詠まれた歌であれば、もしかしたら東日本大震災の犠牲者のことを悼んで、つと永田の胸に降りてきた一首かとも考えられる。
長崎で被爆したクリスチャン歌人・竹山広にこういう歌がある。
一分の黙禱はまこと一分かよしなきことを深くうたがふ
この歌が収められているのは、『射禱』という題の歌集である。射祷(しゃとう)とは、カトリック信徒の間に根付いているごく短い祈りのことで、矢を射るように繰り返し祈る作法だということだ。竹山の歌集を追っていくと、第二次大戦後、竹山が長年に亘って反戦集会に参列していたことが分かる。この一首を詠んだ頃には老いも深まって集会参加はできなかったようだが、長崎への原爆投下の時刻に合わせて起きて座したことを詠んだ歌も同じ連作中には含まれていた。人の目に見える黙禱はただの一分であっても、その前には長い個人的な思索と水面下の祈りがある——。忙しさに取り紛れて何となく日々を過ごしがちな私達に、深く問いかけてくる歌である。
重い二首を引いてきたが、祈りへの敷居を高くすることが本稿の狙いではない。一つ助けになると思われる本をご紹介する。女子パウロ会発行の、来住英俊『目からウロコ〜とりなしの祈り』というごく薄い本で、この中に「イメージで祈る」という項がある。そこでは、執り成しの祈りをする際に、ある人の病状の回復や、震災・戦禍などの中にある人々の平安や具体的な助けなどを、言葉にして祈ることが毎日できるに越したことはないが、ずっと言葉で祈り続けるのは難しい場合も多いことに言及されている。その上で、祈ってあげたい人を思い浮かべ、その人と共にイエス様がいてくださること、守りの御手が添えられているのをイメージすることを通じて、執り成しの祈りが形式化したり頓挫してしまったりするのを防ぐことになると説かれている。
祈りは言葉であって、言葉でない——。前段と逆のことを述べるようであるが、バビロンの王宮に仕えた旧約聖書のダニエルという預言者について触れたい。ダニエル書9章は、祖国エルサレムの荒廃が終わるまでに七十年の歳月がかかると文書によって悟ったダニエルが、取り乱して神に訴え続ける祈りの言葉で章の半分以上が占められていることに私は注目する。動揺のままにワーッと神に語りかける言葉が続き、冷静さからはおよそ遠い祈りである。
心の奥でふと他者に思いを馳せる祈り、感情的な祈りの言葉の奔出、神はどちらにも心を留めておいでになる。神様は、きちんと整った祈りだけをお聞きになるような狭量な方ではない。皆さんの日々に、主がいつも共にいてくださいますように。