① 今日は礼拝を休んでしまったが、黙想がズゥーンと膨らんできて書き上げた。まぁこれで良かったのかな? 礼拝説教のup時刻がだいぶ遅めだったから、たぶん教会学校の今後についての話し合いがかなり長引いたんだろう。皆さんが今晩よくお休みになれますように。
② 来週日曜はいよいよ特別礼拝とドラマ腹話術の集いがある。講師の先生のご体調が整えられますように。私も来週はちゃんと行って、午後の部の駐車場係を務められますように。
② 来週日曜はいよいよ特別礼拝とドラマ腹話術の集いがある。講師の先生のご体調が整えられますように。私も来週はちゃんと行って、午後の部の駐車場係を務められますように。
出エジプト記31章、35章、36章を読んでると、主を讃えるための祭具等の用立てに誰が大きな働きをしたか、といったことが書いてあるけど、誰にやらせた、とかいう義務・任務的な記述とはちょっと違う趣きがある。
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新改訳第三版 出エジプト記31章2〜5節では、神様がモーセに 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである」と仰り、31章6〜11節で「見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない」と仰っているが、べツァルエルとオホリアブが神様に特別に召されたからって、こんな膨大な業務全部をこの二人に押っ付けた、ということではないと思う。
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<新改訳第三版 出エジプト記35章21〜29節>
感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを主への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。
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べツァルエルやオホリアブは総指揮的な役割を担ったろうし、必要に応じて色々指示も出したろうが、そうは言っても人間である。主の祭具の全体に対して細かくディレクションできたわけではないと思う。けれど主が一人一人の心を動かしてくださったので、みんな自分の持っているものを持ち寄ったし、総指揮の二人の専門外の分野でも、知恵を出し合って女性たちは自ら織物を紡いだし、その奉仕のわざに感動した立場の高い人々も高価な献げ物をした。
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新改訳第三版36章2〜7節に〈モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。〉と書いてある。主が民一人一人を力づけたので、献げ物と奉仕のわざは止まないほどになったのである。
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今日は結局体調が整わず礼拝へ行けなかった。そろそろ礼拝が終わって、教会学校の今後についての話し合いが持たれていることだろう。先週日曜に配られた《教会学校「大人とこどもの礼拝」の今後について》というプリントでは、つまるところ「誰がやるん?」という責任問題に話の方向が向いている感がある。
出エジプト記の他にも、旧約聖書にたくさん人名が列記されている箇所があるけど、あれは「誰が責任を果たしました」という報告書と言うよりは、神様に皆さんの献げ物や奉仕は憶えられているよ、ということなんじゃないかと思う。
私はベッドの中にいて、この黙想をiPhoneで入力しているだけだから、ちょっと申し訳ないけどね。
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新改訳第三版 出エジプト記31章2〜5節では、神様がモーセに 「見よ。わたしは、ユダ部族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである」と仰り、31章6〜11節で「見よ。わたしは、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブを、彼のもとに任命した。わたしはすべて心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『贖いのふた』、天幕のあらゆる設備品、机とその付属品、純金の燭台と、そのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえの祭壇と、そのあらゆる道具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司として仕える祭司アロンの聖なる装束と、その子らの装束、そそぎの油、聖所のためのかおりの高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない」と仰っているが、べツァルエルとオホリアブが神様に特別に召されたからって、こんな膨大な業務全部をこの二人に押っ付けた、ということではないと思う。
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<新改訳第三版 出エジプト記35章21〜29節>
感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。すべて心から進んでささげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を主にささげた者はみな、そうした。また、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物をささげる者はみな、それを主への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のすべての仕事のため、それを持って来た。また、心に知恵のある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。上に立つ者たちはエポデと胸当てにはめるしまめのうや宝石を持って来た。また、燈火、そそぎの油、かおりの高い香のためのバルサム油とオリーブ油とを持って来た。イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。
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べツァルエルやオホリアブは総指揮的な役割を担ったろうし、必要に応じて色々指示も出したろうが、そうは言っても人間である。主の祭具の全体に対して細かくディレクションできたわけではないと思う。けれど主が一人一人の心を動かしてくださったので、みんな自分の持っているものを持ち寄ったし、総指揮の二人の専門外の分野でも、知恵を出し合って女性たちは自ら織物を紡いだし、その奉仕のわざに感動した立場の高い人々も高価な献げ物をした。
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新改訳第三版36章2〜7節に〈モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。〉と書いてある。主が民一人一人を力づけたので、献げ物と奉仕のわざは止まないほどになったのである。
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今日は結局体調が整わず礼拝へ行けなかった。そろそろ礼拝が終わって、教会学校の今後についての話し合いが持たれていることだろう。先週日曜に配られた《教会学校「大人とこどもの礼拝」の今後について》というプリントでは、つまるところ「誰がやるん?」という責任問題に話の方向が向いている感がある。
出エジプト記の他にも、旧約聖書にたくさん人名が列記されている箇所があるけど、あれは「誰が責任を果たしました」という報告書と言うよりは、神様に皆さんの献げ物や奉仕は憶えられているよ、ということなんじゃないかと思う。
私はベッドの中にいて、この黙想をiPhoneで入力しているだけだから、ちょっと申し訳ないけどね。