水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

#通読+α 2022年10月分まとめ

2022年10月31日 13時46分42秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆10月19日
私が社会人一年目の秋に、母教会で同じ聖書学び会だったリーダーは工学を修めた方だったが、割と啓発的な本を読んでいる方だった。社会人一年目、私は会社では碌に教えてもらえなかったので、彼に倣ってカーネギーを二冊ばかり読んだ。もうそれらは手元にないが、『道は開ける』は、マタイによる福音書6章34節「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 (新共同訳)を、具体的な誰彼の人生を挙げて、含めるように読者に言い聞かせる本だったと思う。読んだ時はそれなりに圧倒されたが、私の心労は減らず。(そうは言ったって、誰が問題を解決してくれるんよ?……自分じゃん!)という思いが拭えなかったのだ。このマタイ6:34の御言葉が腑に落ちるようになってきたのはここ一、二年だと思う。なぜ楽観的になれてきたかと言えば、神様に心を預けて人生を歩むことで(本当に神様は守って下さった……!)という実感を重ねてこられたからだろう。以前は、最悪の事態を想定し先手先手で行動し、疲労困憊してた。小さい頃、母に「あんたは努力しないと駄目だ」と言われてたのもずっと呪縛になっていた。私はどの程度努力すればいいのか判らなかったのだ。それで(倒れるまでやれば辛うじて許してもらえるだろう)というマインドになっていった。勉強も、大学のサークル活動も、死ぬ思いでやった(それで身体を壊した)。会社勤め始めてからも必死で仕事をした。社会は矛盾だらけ。過大な要求を突き付けておいて、それをこなそうと無茶すると「普通」からはみ出ないようにやれ、と言う。まるで、カーネギーの『人を動かす』をタイトルだけ見て勘違いしているような人達ばかりだった(同書は良書だった記憶があるが、詳細は覚えていない)。人の押し付けてきた仕事をこなすために平日は忙殺されており、有給を取った日に出勤してようやく自分自身の仕事をこなしている状態だった。私が精神を病んで障害者になったことは、他人からは気の毒に見えるかもしれないが、私としては、守ってもらえる盾をやっと得たという感覚が強い。
   *  *  *
<新共同訳 詩編127編1〜2節>
主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み 焦慮してパンを食べる人よ それは、むなしいことではないか 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
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今、この御言葉の真実さを信じて(主は、私に与えた役目を、私が充分休息を取った上でやり遂せるよう、判断力・思い巡らす時間・体力などを備えて下さる、と信じて)過ごせることは、本当に幸いである。

◆10月24日
[*2020年2月21日作歌の拙歌「報酬を多くもらうは搾取だと四年の学びの末の結論」を引いた上で、詐欺メールへのエアリプ]
今もらってる障害年金額は、私の初任給の手取りと大して変わらん。(年金は精神二級。慎ましく暮らすのには慣れてる)(猜疑心つよい人達からの圧迫で、当時の給与明細写真を晒す必要がそのうち出てくるかもね)(まぁ物価は上がってるしいずれ切迫感は出てくるかも、だが)
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<新共同訳 フィリピの信徒への手紙4章11〜13節>
物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

◆10月31日
私は何でも卒なく振る舞うことができない。例えば、用事が控えているので教会の大掃除を途中で抜け出そうとしたのに、忘れ物をしたため取りに戻って大いに目立ってしまい、気まずい思いをしたり。まぁその程度のことならバッシングはされないが、他のシチュエーションでは非難されたこともあった(他のクリスチャンが着物を着付けてくれるというので従ったら礼拝に遅刻し、私のみ牧師に批判された)。仕事の段取りを組むのも大層下手で、多々失敗してきた。今は「できる人」みたいに見られることも増えたが、私としてはただ経験値を積んだからだとハッキリ言える。私は傍からも(模索中なんだな)とか(忘れてたことを今思い出したんだな)とか、分かりやすいためか、私を見ていると色んな気づきを得られるらしく、一挙手一投足が注目されてる感じがある。見られていることは時々重荷だが、自身が神に喜ばれる生き方ができるように守られているのも感じている。
   *  *  *
<新改訳第三版 ヘブル人への手紙5章1〜2節>
大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
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私はあまりにも不器用だったから、投げ槍な指示や命令に翻弄されてきた半世紀だった。けれど、その時々で掴み取ってきたものが今活きているというのを強く感じる。しかし私は元々傲慢な人間なので、少し学び始めると先生ヅラして教えたがるところが。だから、神様が私に地位を与えなかったのは周りの方々のためでもあり、私自身のためでもある。そのことを主に示されているのは幸いである。
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<新改訳第三版 詩篇119篇73〜74節>
あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。
(*9月18日礼拝の交読詩篇より)

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