水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(27):小中英之「欠落の部分を神に感じ始めつ」

2016年03月05日 14時32分17秒 | 一首鑑賞
枇杷の花咲く空あをし欠落の部分を神に感じ始めつ
小中英之『過客』


 小中の母親は熱心なクリスチャンであった。だが小中自身は確たる信仰を受け継げず、さりとて生まれた時から囲まれて育った聖書の言葉を完全に無視することもできなかったらしい。生涯にわたって小中の歌には「罪」「神」という言葉が登場し、その頻度にはもはや執念のようなものすら感じさせる。
 もし掲出歌の三句以降が「欠落の部分感じ始めつ」なら、がらんとした青空にふと神を感じ始めた、という非常に素直な歌に取れる。そこを「欠落の部分感じ始めつ」とするところが、小中ならではである。けれども初句から二句までの清々しさで意味がばっさり切れて、それに比して神とは何たる欠けの多いものか…!という憤怒を読み取ろうとするのは、少し無理があるように思う。
 私はこう解釈した。つまり、完全無比・全知全能の神のイメージにがんじがらめにされてきた小中が、枇杷の花が咲きこぼれる空の洞を眺めてふと、あの神にも欠落している部分があるのかもしれない、と眉間に入っていた力がスッと抜けるような感覚を抱いた瞬間があったということではないだろうか。
 コロサイの信徒への手紙1章24節に「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」 という聖句がある。複数の病に苦しみながら六十四歳で命尽きた小中が、実存の煩悶から逃れ切れなかったことは、遺された数々の歌によって窺い知れる。しかし、神には欠落があると小中が洞察した時、あのキリストでさえも私達とつながるために<苦しみの欠けたところ>を残されたということを彼がどこか感受していたと考えるのは、読みが恣意的に過ぎるだろうか。

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