⇧1945年4月沖縄戦激戦地の伊江島では、「生きて米軍の捕虜になるな」と言われた住民たちが、この断崖から次々と飛び降りて、海岸は血で染まったそうです。「わびあいの里」専従ボランティアの方が、東京からの団体を迎えて超忙しい中、私たち3人のために車で伊江島の戦跡・反基地闘争跡地巡りをしてくださいました。心より感謝しています。
⇧米軍占領後当時は伊江島の60%が軍用地にとられ、
爆撃・落下傘降下等の演習に使用されてきました。
現在でもあの小さい島の35.2%が米軍基地です。
しかし阿波根昌鴻さんたち地主たちが体を張って基地内耕作を続けたため、
今は基地の中の黙認耕作地は全体の60%となっているとのことです。
写真は、黙認耕作地の葉タバコ畑。
伊江村の主産業は農業で、
電照菊の生産収益は年間約16億円、葉タバコは8~9億円、肉牛4億円とのことです。
牛はこの島の人口(4200人~4600人)とほぼ同じ頭数いるそうですが、
オスプレイが飛ぶようになって牛の流産、早産が相次ぐようになってしまったそうです。
「電照菊」…「かりゆし58」の歌に同名のものがありますね。
『♪電照菊の光よ この暗闇を照らしてくれないか
大切な人がいつか 夜道に迷うことなく 帰りつけるように…♪』
⇧1951年旧安保条約締結にともない、
翌1952年には、その具体的な取り決めとして
「日米行政協定」(1960年日米地位協定へと引き継がれた)が調印されました。
それは日本国内において治外法権のアメリカ領土(米軍基地)を認めるというものでした。
写真は、米軍基地を横切らなければ学校に行けない子どもたちが、
米軍機が飛んでこないのを見計らい、大急ぎで横切って通学する様子です。
もし、自分の子や孫がこんな目に遭うとしたら……、
これがどれほど酷いことか分かりますね……(涙)。
安保条約に付随する日米地位協定は恐ろしいことに、
現在も、そして沖縄だけでは決してなく、日本全土の空を
米軍が好き勝手に飛ぶことを保証しています。
ただ、米軍兵士家族の住宅地を除いて。
なぜ除くかというと、もちろん危ないからです。
⇧書いてある通りです。
伊江島の戦争ー基地の歴史は、
阿波根昌鴻著『米軍と農民』、『命こそ宝』(岩波新書)に詳述されています。
私は中国にその本を持って行って、夜な夜な読んでいました。
写真は「ヌチドウ宝館」の展示から。
〈銃剣とブルドーザー〉で土地を盗られた島民が1961年に建てた「団結道場」のトイレに大きく書かれた言葉。
他にも、この道場には、
「殺し合いではなく助け合う人間、
奪い合いではなく譲り合う人間、
だまし合いではなく教え合う人間、
そういう人間が平和を作る」
「戦争は誰を守るために、誰が命令して、誰が殺し合いをさせられるのか
歴史に学ぼう」
「みんなの宝は 土地から生まれる」
といった平和を希求する数々の言葉があります。
今、日本は戦争できる国へと歩を進め、南スーダンに自衛隊員が
行かされています。
のんびりと(まさかこの平和な日本が戦争なんて)と感じている人の多いこと、
(自分や自分の家族には関係ない)と思う人の多いことに
呆然とすることがありますが、
戦争への前線基地とされる沖縄では、人びとの危機意識は本土と全く違います。
知らないまま、戦争したい政府に騙されるのではなく、
学びあい、教え合い、助け合って、平和な国を作っていきたいものだと、
しみじみ思いました。
伊江島での学びは本当に大きくて、
記録はまだこれからも続けたいと思います。
もうじき山東省に戻るとあって、一日でも娘や孫たちの側に居たく思い、
ブログも滞りがちですが、山東省に行くと暇ですので(笑)、
毎日でも記憶を記録にとどめる所存です(* ̄0 ̄)/ オゥッ!!。