毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「死刑求刑:相模原障がい者殺傷の植原被告に」No.3788

2020-02-17 23:20:58 | 人権

2016年7月の津久井やまゆり園事件で

19人の障がい者を殺害した元職員の植松聖被告に

検察は死刑を求刑し、

判決は3月16日に下される予定です。

私はこの事件のことを何度かブログに書こうとしたのですが、

その度に精神的に打ちのめされて

たいていベッドに倒れこむのでした。

この事件と同様の感覚に襲われた事件は

我が人生でいくつかありますが

その一つは神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件です。

当時大阪の教員だった私は

(もし、自分のクラスに酒鬼薔薇聖斗がいたら、

彼の殺人を食い止められただろうか、

おそらくできなかっただろう)と、

教師になって初めてとも言える

大きな無力感に襲われたものでした。

私は「障害児」と呼ばれる子どもを担任したことも

何度かありますが、

心と心がかみ合わないと感じたことは

一度たりとてありません。

それどころか純真な心がビンビン伝わってきて、

ひねくれ者の自分も正直な人間になれそうな気にさせられ、

ザックリ言えば一回りも二回りも

広く、大きい心にしてもらって、

「毎日がちょっと感動」の日々でした。

植松被告にはそうした経験がなかったようです。

なぜならば彼は障がい者を「心失者」「心が無い者」で

生きる価値がない存在だと決めつけているからです。

自分のことを自慢するように聞こえたら不本意ですが

相手の心を感じるには、

自分の心のアンテナを鋭敏にしなければなりません。

どうして泣くのかな、どうして笑ったのかな、

どうしてそうしているのかな、と相手に関心を持ち

自分の身に引きつけて考えたり

あれこれ試行錯誤しているうちに

(なあんだ、そうだったのか)と分かることがとても多いのです。

私自身の体験ですが、

障がい者は口先で交流するんじゃなく

全身が「心(こころ)」で成り立っており、

だから体から心が伝わってくるんだ

と思えることすらありました。

植松聖被告は、そういう試行錯誤をしたのでしょうか。

実はそれは、特別に障がい者だけが

対象になるわけではありません。

多くの人が他者を理解するために

日々、自然にやっていることです。

 

彼は大麻を吸って障がい者と交流を試みたようですが

それは絶望的に間違ったやり方に思えます。

大麻はただ自己中心的な感覚を拡大するだけで

相手の立場に立つことはできないと、

体験者から聞いたことがあるからです。

植松被告は障がい者を殺傷したことについて

自分は正しいことをしたと主張しています。

ずっと以前、大阪の中学生たちが

夜、野宿している人を

殴る・蹴るなどの暴行を加えて殺し、逮捕されて、

「社会のごみを片づけて社会の役に立つことをした」

と胸を張って言った事件もありましたね。

この中学生たちも

ホームレスの人との交流は全くなかったのです。

経験と思考の浅い人間が

社会が抱える課題について短絡的に決めつけ、

攻撃する事例は山ほどあります。

福島の子ども差別、和歌山県イジメ、中韓叩きe.t.c.

他人と心の交流ができないとかいう

個人の資質ももちろんあるでしょう。

しかし、それだけで片づけるわけにはいかない

私たちの社会の短絡さ・思考停止・一方通行性を

植松聖被告の事件は示しているのではないでしょうか。

↑植松聖に殺害された一人、美帆さん。

ーーー《資料》植松聖被告の手紙ーーー 

新聞、テレビが絶対に報じない「障害者殺人」植松被告の罪意識 『月刊「創」』https://ironna.jp/article/8149?p=2 

【9月5日付、植松聖被告の手紙】  

本日も遠くまで面会に足を運んで頂きまして、誠にありがとうございました。  

この度の面会で、篠田先生の言われました最後の質問は、とても考えさせられました。そして、上手く言葉にしてお伝えするには難しい内容ですが「人間が幸せに生きる為に、心の無い者は必要ない」と、考えております。  

大変恐縮ですが、篠田先生は死刑囚の肩をもつ文章が見受けられますが、それは、長年つきあう中で産まれた哀れみや同情と思います。  

それこそ人間のもつべき心情ではありますが、心失者を擁護しては誰も幸せになりません。

「罪を償う」とは「人の役に立つ」と、考えることはできないでしょうか。  しかし、人の役に立つことは容易ではございません。  

生きる為には常に与えられる必要がありますので、その対価を支払えないと判断され、死刑になるのは仕方が無い選択ではないでしょうか。  

なにとぞ、宜しく御願い申し上げます。

【9月21日付、植松聖被告の手紙】  

 「意思疎通がとれない者を安楽死させる」考えを本心で否定するのは「バカ」と「ブサイク」です。

バカは自分で考えることができずに、常識を丸呑みし、ブサイクは風当たりが厳しい為に、周囲の意見に同調します。更に言うと「自分より下の存在」が欲しいだけかもしれません。  

希望の無い者は人の足を引っぱることしかできませんし、山程ある問題を何も解決せずに否定をすることが博識と勘違いしています。

「私は考えています」それを主張する為に「障がい者」「障碍者」と述べる識者を、本当はバカなんだろう。と、疑っています。

 もし、手足がなければ面倒で不便な障害ですが、それを克服して強くなる姿に感動を覚えるはずです。  

人を想う心があれば、障害者も健常者も関係ありません。人生は、大麻を吸って楽しくお喋りすれば、それで充分です。    

日本人は「大麻」に対する無知の知を認め、学ぶ必要があります。  

大麻が「薬」になる理由は、楽しい心が身体を「超回復」させる為です。  大麻は生産性が落ちると指摘されますが、それは完全な誤解であり、その原因は“気温”です。  

大麻を認めない本当の理由は「タバコ・精神薬」を売り捌く為です。  

大麻を吸うと「生きている喜び」を改めて実感します。生きることが当たり前の社会では、命に対して無自覚になります。  

皆様は、首輪でしばられた番犬の気持ちを考えたことがあるでしょうか。  津久井警察署の前の家では番犬を飼っていましたが、その鳴き声は「人間死ね‼」と、憎しみに満ちていました。  

私は、大麻を吸って障害者支援の夜勤をしたことがあります。それは、より心を開き会話を試みる為ですが、それでも、心失者とは会話ができませんでした。  

話を戻しますと、年金・生活保護受給者などの自立できないヒマ人ばかりが声を挙げる日本で、私の考えに賛同できるはずがありませんし、空気を読めばそれが異質な思想であると分かります。  

ですが、その集団から離れて個人に問いかけた時に、心失者を擁護するわけがございません。彼らを安楽死させることは仕方が無いことです。  

このような文章では反感を買うだけかもしれませんが、私に人心掌握する技術はございませんので、自分の信じる正論を述べることしかできません。 

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