※この記事は鳩山首相の辞任とは関係ありません。
1914年9月1日,米国シンシナティの動物園で一羽の鳩が死にました。北アメリカで数千年に渡って栄えていたリョコウバトが絶滅した瞬間です。
以下,文化人類学者・言語学者西江雅之氏の新刊『食べる』(2010年,青土社)から,ご紹介します。
リョコウバトは北アメリカ東部,カナダからルイジアナ,フロリダに至る広い地域に生息していた鳩で,北部で子育てを終えると南部で冬を過ごすため,1年に2度の渡りをすることから「リョコウバト」の名がつきました。
広葉樹林に大群で棲むこの鳥は,かつて北アメリカに60~90億羽いたと言われます。記録によると,リョコウバトは巨大な雨雲のようになって大地を曇らせ,十数キロの長さの群れをなして飛んでいたそうです。全盛期にはアメリカに棲む陸鳥の実に25~40%に達し,地球で最も多くの個体数を誇ったと言われます。
そしてこのリョコウバトが絶滅したのは,人間が食べたからなのでした。
渡りに膨大なエネルギーを必要とするリョコウバトは大食漢で,樫,栗,ブナなどの木の実,果実,虫類(特に幼虫)そして,人間が栽培する穀物もエサにしました。アメリカが開拓の時代を迎えると,開拓者が進出していく先々で,薪や建築材料として広葉樹が次々と伐採されていきました。そして,人々は穀物を荒らす害鳥と見なしました。あまりにも数が多いため,群れの中に入って棒を振り回したり,石を投げたりするだけで,面白いように鳩が落ちてきたそうです。
アメリカ大陸に白人が来る前,インディアンたちにとってリョコウバトは大切な食料でした。しかしその利用は限られており,繁殖期には狩りをしないなどの節度を守っていました。
ところが,白人の開拓者たちは鳩を際限なく獲り尽くしました。捕獲を生業とする者も現れ,多くの巣がかけられている木を選んで切り倒したり,囮を用いて網に追い込むなどして一挙に何百羽というリョコウバトが捕らえられ,大陸に敷かれた鉄道に乗せて出荷されました。一日に,1万羽をとった者もいたとのことです。
鳥類学者・画家オーディポンの描写によれば…
「…数千羽というハトが,棒を手にした人びとにあっという間にたたき落とされた。鳥たちは途切れることなく飛んで来た。…何千羽ものハトがそこらじゅうに舞い下り,積み重なるように枝にとまった。その重みで,次々に枝がすさまじい音をたてて折れ,地面に落ちた。落ちてくる鳥たちの下敷きになって,何百羽もの鳥たちが息絶え,枝々にぎっしり止まっていた鳥たちも振り落とされた。騒音と混乱。すぐ近くにいる人にさえ,話しかけるどころか,どなってみても,まったく無駄だった。銃声すらほとんど聞こえず,弾込めしている人の姿を見て,初めて銃が発射されたことがわかった。…ハトは拾いあげられ,山のように積み上げられた。各人が処理できるだけ集めてしまうと,残りは豚を放して食べさせるのだった」
リョコウバトは塩漬けにされ,樽に詰められて,東部各地の都会に出荷されました。ハトは安価でありふれた食べ物になり,人々は「もうハトをうんざり」というほどだったそうです。
19世紀初めに60億とも90億ともいわれたリョコウバトは,1867年にリョコウバト保護法ができたとき,すでに珍鳥になっていました。1885年には群れを見ることはほとんどなくなり,1894年には野外でリョコウバトを見ることはなくなりました。野生のリョコウバトが最後に捕獲されたのは1899年。1914年には動物園にたった一羽を残すのみになりました。最後のリョコウバト,「マーサ」です。
鳥類の歴史始まって以来,最大の個体数を誇ったといわれるリョコウバトのあっと言う間の絶滅の理由は,集団を組むことで生命を支えられている集団性の動物が,その生活の支えであった集団を失ってしまったためであると言われます。
私がハトを食べたのは,かれこれ30年前。台湾でのことでした。飲茶のひと品として注文したハト。挽き肉状態で,中華パンにレタスといっしょにはさんで食べました。おいしかったけれども,醤油系の濃い味がついていたので,ハトの肉の味というのはよくわかりませんでした。
1914年9月1日,米国シンシナティの動物園で一羽の鳩が死にました。北アメリカで数千年に渡って栄えていたリョコウバトが絶滅した瞬間です。
以下,文化人類学者・言語学者西江雅之氏の新刊『食べる』(2010年,青土社)から,ご紹介します。
リョコウバトは北アメリカ東部,カナダからルイジアナ,フロリダに至る広い地域に生息していた鳩で,北部で子育てを終えると南部で冬を過ごすため,1年に2度の渡りをすることから「リョコウバト」の名がつきました。
広葉樹林に大群で棲むこの鳥は,かつて北アメリカに60~90億羽いたと言われます。記録によると,リョコウバトは巨大な雨雲のようになって大地を曇らせ,十数キロの長さの群れをなして飛んでいたそうです。全盛期にはアメリカに棲む陸鳥の実に25~40%に達し,地球で最も多くの個体数を誇ったと言われます。
そしてこのリョコウバトが絶滅したのは,人間が食べたからなのでした。
渡りに膨大なエネルギーを必要とするリョコウバトは大食漢で,樫,栗,ブナなどの木の実,果実,虫類(特に幼虫)そして,人間が栽培する穀物もエサにしました。アメリカが開拓の時代を迎えると,開拓者が進出していく先々で,薪や建築材料として広葉樹が次々と伐採されていきました。そして,人々は穀物を荒らす害鳥と見なしました。あまりにも数が多いため,群れの中に入って棒を振り回したり,石を投げたりするだけで,面白いように鳩が落ちてきたそうです。
アメリカ大陸に白人が来る前,インディアンたちにとってリョコウバトは大切な食料でした。しかしその利用は限られており,繁殖期には狩りをしないなどの節度を守っていました。
ところが,白人の開拓者たちは鳩を際限なく獲り尽くしました。捕獲を生業とする者も現れ,多くの巣がかけられている木を選んで切り倒したり,囮を用いて網に追い込むなどして一挙に何百羽というリョコウバトが捕らえられ,大陸に敷かれた鉄道に乗せて出荷されました。一日に,1万羽をとった者もいたとのことです。
鳥類学者・画家オーディポンの描写によれば…
「…数千羽というハトが,棒を手にした人びとにあっという間にたたき落とされた。鳥たちは途切れることなく飛んで来た。…何千羽ものハトがそこらじゅうに舞い下り,積み重なるように枝にとまった。その重みで,次々に枝がすさまじい音をたてて折れ,地面に落ちた。落ちてくる鳥たちの下敷きになって,何百羽もの鳥たちが息絶え,枝々にぎっしり止まっていた鳥たちも振り落とされた。騒音と混乱。すぐ近くにいる人にさえ,話しかけるどころか,どなってみても,まったく無駄だった。銃声すらほとんど聞こえず,弾込めしている人の姿を見て,初めて銃が発射されたことがわかった。…ハトは拾いあげられ,山のように積み上げられた。各人が処理できるだけ集めてしまうと,残りは豚を放して食べさせるのだった」
リョコウバトは塩漬けにされ,樽に詰められて,東部各地の都会に出荷されました。ハトは安価でありふれた食べ物になり,人々は「もうハトをうんざり」というほどだったそうです。
19世紀初めに60億とも90億ともいわれたリョコウバトは,1867年にリョコウバト保護法ができたとき,すでに珍鳥になっていました。1885年には群れを見ることはほとんどなくなり,1894年には野外でリョコウバトを見ることはなくなりました。野生のリョコウバトが最後に捕獲されたのは1899年。1914年には動物園にたった一羽を残すのみになりました。最後のリョコウバト,「マーサ」です。
鳥類の歴史始まって以来,最大の個体数を誇ったといわれるリョコウバトのあっと言う間の絶滅の理由は,集団を組むことで生命を支えられている集団性の動物が,その生活の支えであった集団を失ってしまったためであると言われます。
私がハトを食べたのは,かれこれ30年前。台湾でのことでした。飲茶のひと品として注文したハト。挽き肉状態で,中華パンにレタスといっしょにはさんで食べました。おいしかったけれども,醤油系の濃い味がついていたので,ハトの肉の味というのはよくわかりませんでした。
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