今回は在日ではなく,韓半島で日本の支配を受けた世代の証言です。
鮮于輝(ソヌ・ヒ,1922年生まれ)は,韓国の小説家であり,「朝鮮日報」の主筆も務めた言論人でもあります。言葉が通じなかったわけではありませんが、植民地支配、戦争という状況がもたらした親子の葛藤の例として紹介します。
父は七十歳頃までも,米一俵位は,両手でもって軽くなげる位の体力をもった人であった。朝鮮人が中国人によって大量虐殺されたという,謀略的万宝山事件(1931年7月)の時は,激昂した人達に追い詰められて助けをもとめて来た山東出身の中国農民三十余名を家にかくまって,襲撃に来た人達と小川をはさんで渡り合い,遂に中国人農民を虐殺から救ったほどの父であったが,その父が生涯を通じて恐れたのは,実に日本人の警官であった。
一緒に歩いていたところ,急にかしこまった父が低く頭を下げるのを見てその相手が誰であるかを知っては,よく幻滅を感じたものである。ほとんどの場合それが若い日本人警官であったからである。
年頃になった私が「何も悪いことをしていないのに,そんなにまでへり下る必要がありますか」と問いただしたところ,父は泰然とした顔で,「人間というものは,巡査の恐ろしさを知らなくちゃ」と答えたのである。父の言葉に含まれた意味は「人間は法を守ることが大切だ」という遵法精神であったように思われるが,若い時分は,父のそういう態度が只只恥ずかしいだけであった。
そういう父の「善良性」がだんだん変わっていったのは,いわゆる満州事変,支那事変,大東亜戦争とますます戦争状態が甚だしくなったのと正比例する。
その原因は日常生活が実際におびやかされるようになったことと,韓国人としての伝統的生き方の基本がだんだんおかしくなって来たことによると思う。
太平洋戦争がすすむにつれて,父は,警官を恐れながらも,だんだん警官のいうことをきかなくなっていった。いわば法を守らなくなったのである。
ある冬の休暇に家に帰ったところが,父は真夜中にひそかに私を起こした。できれば家族にも見られたくない素振りであった。
星空の庭におりたった父は,納屋からツルハシとシャベルをもってこさせて,私を裏の栗林までつれていった。そして栗の大木の地面を指さしながら一緒に穴を掘ろうといった。
私はすぐそれが何を意味するのかを察して,
「お父さんもこういうことをするんですか」
となじった。答えない父に私はおっかぶせた。
「お父さん,こういうことをしていいんですか」
すると父はいった。
「いいも悪いもない。今はそういっている場合じゃない」
それでも私はひるまなかった。学校で教わった通り行うのが善であり,その時の現実をあまり疑わなかった私である。
「お父さん,これは法にたがうことなんですよ」
その時,父の激しい言葉がかえって来た。
「法を守れば飢えて死ぬんだ。死んでまで守る法などあってたまるか」
そうまで激しい言葉を聞くとは露ほども思わなかった私は,さすがに驚いて二の句がつげなかった。
その時の父の脳裏には,骨身に沁むほど経験した李朝末の無法と,日本の戦争遂行のための無法が重なったに違いない。
その後,面書記とか警官が米供出の督促にくると父は普段の「善良な農民」にもどって見るも哀れな表現と卑屈な態度で,
「ナリニム(官吏に対する敬語),私には,他に米一粒残っていません。私は生涯一度も嘘をいったことのない人間です」
と九十度以上に頭を下げたのである。
私が,その父を見て戦慄すると同時に感じたのは,おしひしがれた人間の卑屈さの強度は,不敬さの強度と同じだということであった。
鮮于輝/司馬遼太郎他『日韓ソウルの友情』(中公文庫1988年)
軍事独裁政権だったころ、鮮于輝は当局の検閲に抗議して真っ白の新聞を発行しました。ヒロイズムとは無縁な「ただの人」として闘った言論人、鮮于輝の姿は関川夏中央『「ただの人」の人生』(文芸春秋、1993年)にくわしい。
鮮于輝(ソヌ・ヒ,1922年生まれ)は,韓国の小説家であり,「朝鮮日報」の主筆も務めた言論人でもあります。言葉が通じなかったわけではありませんが、植民地支配、戦争という状況がもたらした親子の葛藤の例として紹介します。
父は七十歳頃までも,米一俵位は,両手でもって軽くなげる位の体力をもった人であった。朝鮮人が中国人によって大量虐殺されたという,謀略的万宝山事件(1931年7月)の時は,激昂した人達に追い詰められて助けをもとめて来た山東出身の中国農民三十余名を家にかくまって,襲撃に来た人達と小川をはさんで渡り合い,遂に中国人農民を虐殺から救ったほどの父であったが,その父が生涯を通じて恐れたのは,実に日本人の警官であった。
一緒に歩いていたところ,急にかしこまった父が低く頭を下げるのを見てその相手が誰であるかを知っては,よく幻滅を感じたものである。ほとんどの場合それが若い日本人警官であったからである。
年頃になった私が「何も悪いことをしていないのに,そんなにまでへり下る必要がありますか」と問いただしたところ,父は泰然とした顔で,「人間というものは,巡査の恐ろしさを知らなくちゃ」と答えたのである。父の言葉に含まれた意味は「人間は法を守ることが大切だ」という遵法精神であったように思われるが,若い時分は,父のそういう態度が只只恥ずかしいだけであった。
そういう父の「善良性」がだんだん変わっていったのは,いわゆる満州事変,支那事変,大東亜戦争とますます戦争状態が甚だしくなったのと正比例する。
その原因は日常生活が実際におびやかされるようになったことと,韓国人としての伝統的生き方の基本がだんだんおかしくなって来たことによると思う。
太平洋戦争がすすむにつれて,父は,警官を恐れながらも,だんだん警官のいうことをきかなくなっていった。いわば法を守らなくなったのである。
ある冬の休暇に家に帰ったところが,父は真夜中にひそかに私を起こした。できれば家族にも見られたくない素振りであった。
星空の庭におりたった父は,納屋からツルハシとシャベルをもってこさせて,私を裏の栗林までつれていった。そして栗の大木の地面を指さしながら一緒に穴を掘ろうといった。
私はすぐそれが何を意味するのかを察して,
「お父さんもこういうことをするんですか」
となじった。答えない父に私はおっかぶせた。
「お父さん,こういうことをしていいんですか」
すると父はいった。
「いいも悪いもない。今はそういっている場合じゃない」
それでも私はひるまなかった。学校で教わった通り行うのが善であり,その時の現実をあまり疑わなかった私である。
「お父さん,これは法にたがうことなんですよ」
その時,父の激しい言葉がかえって来た。
「法を守れば飢えて死ぬんだ。死んでまで守る法などあってたまるか」
そうまで激しい言葉を聞くとは露ほども思わなかった私は,さすがに驚いて二の句がつげなかった。
その時の父の脳裏には,骨身に沁むほど経験した李朝末の無法と,日本の戦争遂行のための無法が重なったに違いない。
その後,面書記とか警官が米供出の督促にくると父は普段の「善良な農民」にもどって見るも哀れな表現と卑屈な態度で,
「ナリニム(官吏に対する敬語),私には,他に米一粒残っていません。私は生涯一度も嘘をいったことのない人間です」
と九十度以上に頭を下げたのである。
私が,その父を見て戦慄すると同時に感じたのは,おしひしがれた人間の卑屈さの強度は,不敬さの強度と同じだということであった。
鮮于輝/司馬遼太郎他『日韓ソウルの友情』(中公文庫1988年)
軍事独裁政権だったころ、鮮于輝は当局の検閲に抗議して真っ白の新聞を発行しました。ヒロイズムとは無縁な「ただの人」として闘った言論人、鮮于輝の姿は関川夏中央『「ただの人」の人生』(文芸春秋、1993年)にくわしい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます