洪思翊は1889年,韓国の貧しい農村に生まれた。幼時に父を失い,19歳年長の兄に育てられ教育された。おそらくは書堂で漢学を学んだのであろう。学業は優秀,四書五経をすべて諳じていたという。
16歳のときソウルに出,1908年,二十歳のときに大韓帝国陸軍武官学校に入学。翌年,日本留学を命じられ09年,日本の陸軍幼年学校に編入。一年後,韓国は日本に併合される。
8月29日の条約調印後のある日曜日,韓国人留学生たちは青山墓地に集まり,日韓併合という突然の事態にどう対するかを相談した。
山本七平は「なぜ青山墓地が選ばれたかわからない」と書いています。
だが,その理由はそれほど難しくないように思います。青山墓地には金玉均の墓があるからです。
金玉均は1884年,日本主導のクーデター(甲申政変)を起こしたが三日天下に終わり失敗,その後日本に亡命した。国内幽閉の4年を過ごしたあと,上海に渡ったときに朝鮮王朝の差し向けた刺客に暗殺された。ときの閔妃は金玉均に対する恨み骨髄に達し,死骸を運ばせてさらに八つ裂きにするという刑罰を加え,晒しものにした。のちに遺髪が日本に持ち帰られ青山墓地に葬られた。
5年ほど前,ある掲示板で,在日の方が青山墓地を訪れて金玉均の墓をお参りしたところ,その隣に朴裕宏という名の墓があった。この朴裕宏とは一体何者か,という疑問を掲示板に投げかけたことがあります。
それで私はこの朴裕宏について少し調べてみました。実は父が陸士出だったこともあり,家に『陸軍士官学校』(山崎正夫編、秋本書房,1969年)という本がありました。年表をつらつらとめくるうち、発見しました、朴裕宏の名を。
1883年1月、朝鮮国人朴裕宏、幼年生徒として入校
1888年5月、歩兵士官生徒朝鮮国人朴裕宏、自殺する。
金玉均は、1981年から84年にかけて日本に三たび往来しながら、徐載弼ら50余名の日本留学生派遣に努力し、実現させました。朴裕宏もその50余名の一人だったようです。
朴裕宏が死んだ88年といえば、金玉均は札幌に幽閉中。金玉均はクーデター失敗後、日本に亡命しましたが,日本政府は彼の存在を対清外交の障害とみて86年8月から小笠原諸島,88年8月からは北海道札幌に幽閉しました。身勝手な話です。
件の本に自殺の原因は言及がありませんが、後に金玉均の墓が隣につくられたことからして、恩人の不遇を悲観した末の自殺とみるのが妥当でしょう。
そして,約20年後,洪思翊をはじめとする幼年学校の留学生たちが,日韓併合後の国の行く末を案じて話し合うのに青山墓地を選んだ。実に納得できる話です。
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まあ面白かったです。軍隊と言うところが野蛮なところだと言うことを再認識しました。私の高校時代に体育系でしごかれたのはお遊び程度ですね。また筋金入りの軍人の迫力も感じました。
ところでこのお話しの真実度はいかほどのものか?下記ではかなり疑問視ならぬ危険視してますね。軍人関係のお話しなのでちょっと書いてみました。
http://www.modern-korea.net/column/20040726.html
これについては調べたことがないのでわかりません。
でもご紹介の評者のいうように抹殺指令なんてなかったんじゃないでしょうかね。
軍事時代の残虐行為の告発は、誇張や嘘が多いですから。
直前のコメントの標題にある「オマエラ軍隊シッテルカ」
いずれブログでとりあげます。
また、著者: 姜健栄『開化派リーダーたちの日本亡命: 金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る』にも、書かれています。
http://books.google.co.jp/books?id=C4_YKRPHfYkC&pg=PA329&lpg=PA329&dq=朴裕宏&source=bl&ots=AKrzYRZqLr&sig=wDhCnLkAfxW8ns2ijPwrfLFPdYI&hl=ja&sa=X&ei=KUk2U-rxFYaNkAW2wYCgCw&ved=0CCYQ6AEwAA
本の紹介、ありがとうございました。サンプルページも読ませていただきました。
朴裕宏氏についての長年の謎が解けました。
本もいずれ読んでみようと思います。