犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』

2011-09-28 23:57:58 | 近現代史

 以前、このブログで、『愛と民族-ある韓国人の提言』(同成社1975年)の内容を紹介したことがあります。(任文桓①任文桓②任文桓③

 もっともこのときは鄭大均『日本(イルボン)のイメージ』からの孫引きでした。そこに引用されていた部分が感動的であったので、いつか読んでみたいと思っていたのですが、最近、『日本帝国』と大韓民国に仕えた官僚の回想』の書名で草思社より復刊されたので、この連休に読みました。460ページの分厚い本でしたが、読み始めたら止まらず、二日間で読了しました。


 朝鮮が国を失う少し前、1907年に全羅北道の小地主の次男として生まれたバウトク(文桓の幼名、本書ではこの名前で通している)は、物心ついてから日本帝国の臣民として幼時を過ごす。日本人専用の6年間の尋常小学校より2年短い4年間の普通学校を経て2年間の簡易農業学校(学校とは名ばかりの作業場)を修了。14歳にして私設学校の代用教員に。その間、日本による通貨改革によって、祖父が自宅に貯め込んでいた葉銭(朝鮮の通貨)の価値は地に落ち、土地を切り売りして食いつなぐも、儒者気取りの父親はいっさい労働をしないため、一家は急速に没落し、歳の離れた兄は農業、バウトク以下の兄弟は物乞いをするまでに身を落とす。

 青雲の志をもつバウトクは親戚じゅうから借りた金を元手に、1923年、東京を目指すが関東大震災のため、異国での生活を京都で始める。16歳のバウトクは、以来、職工、新聞配達、人力車夫、便所掃除、牛乳配達、大学教授邸掃除夫、家庭教師、岩波書店小売部店員などの職業に従事し、経済的危機に陥るたびに日本人から学費の援助を受けながら、京都で同志社中学、岡山で第六高等学校、東京で東京帝国大学法学部を卒業、日本の高等文官試験に合格して官僚に上りつめる。

 本書は、半島で過ごした16歳までの生活、同志社中学時代、六高から東大時代、朝鮮総督府官吏時代、光復後「親日派」としての断罪と6.25(朝鮮戦争)、李承晩による農林部長官(大臣)への登用と政界引退後の生活に、それぞれ章を分けて綴られます。

 日本での苦学と日本人との交友、朝鮮総督府での「深淵の上での綱渡り」、李承晩政権での「団結・勤勉・節約という日本統治三六年間に培養された国民の価値観を守るため」の戦い、それぞれ実に興味深いのですが、私の心に最も残ったのは、朝鮮戦争のときの記述でした。

 ざっと内容を要約すると…

 当時42歳のバウトクは、親日派の烙印を押されつつ、請われて務めていた商工部次官を降り、鉱業関連の公企業の社長を務めるとともに韓国の中央銀行である韓国銀行設立準備の仕事をしていた。そこに突如ふりかかったのが6.25(ユギオ)だった。

 北部で砲声が響いてわずか30時間後、政府はソウルを放棄して水原に逃れる。しかしラジオは「政府は首都を死守している」という虚偽の放送を流、東亜日報も同様の内容の号外を出す。27日夜、北から敗走してきた兵士がソウルに入ってくるのを見て、バウトクは、家族を知人宅に預け、南下を決める。しかし、28日未明、唯一の南行ルートであった漢江橋は、ソウル市内に残っていた多数の市民、兵士を北に残したまま、韓国の軍隊自身の手によって爆破された。無数の兵士、現職次官一人、国会議員の3分の1以上が江北に取り残され、共産軍の手中に落ちた。

 この瞬間からバウトクは韓国右翼、親日派の大物として共産軍から追われる身になる。自宅は28日の早朝に襲われ、留守を守っていた使用人はバウトクの居所を厳しく追及された。共産軍が発行する身分証明書を持たないものは逮捕される。

 貧民街に住む人々は、意外なことに、苦労の末に建てた掘っ建て小屋を失うのを恐れ、「私有財産は認めない」という共産主義をひどく嫌っていたため、バウトクとその家族はその中に身を潜める。第一に共産勢力に同調したのは「後家」たちだった。彼女たちは儒教の戒律にしばられて再婚の道が閉ざされていたが、共産国家になれば世が変革されると信じたものらしい。貧民街で目立ち始めた彼は、かつて総督府時代の部下などの家を転々とする。

 7月末に、妻はつかまり、夫の行方を問われて拷問を受ける。共産軍は「右翼」人士に対し自首すれば罪は許されると宣伝し、5万人の人々が自首したが、これらの人々は9月下旬に共産軍敗走とともに北に連れ去られその後の行方は杳としてわからない。バウトクは自首をしても、親日派としての過去があるかぎり処刑は逃れられないと考えたが、家族を助けるためには自首以外にないと観念し、自首用の写真まで用意した。

 ところが家族が共産軍の手を逃れてきたのが確認されたため、自首をとりやめた。妻が身を寄せている家に「すでに自首をした」と嘘をついたが、すぐに露顕。翌日、別の借家を借りて移ったが、その直後、追手が迫る。

 バウトクはやむなく家族を残し、一人で山に籠もる。ここで一緒になった一人の男とともに山中でほとんど自給自足の生活をしたあと、冬になるとそれもできないので、別の部 落へ落ち延びる。そこで身分証明書の偽造のために動き始めた矢先、ラジオでマッカーサーの仁川上陸のニュースを聞く…。9月15日のことである。

 共産軍は一般民に変装して北へ引き上げていく。連行される「右翼」人士は、足手まといになると容赦なく処分される。一方、共産軍への協力者たちは、手のひらを返したように南軍歓迎の姿勢を見せるが、まだ潜んでいた共産軍に背後から銃撃された者もいたという。

 北上してきた南軍は、漢江をなかなか渡ろうとせず、市内に潜んだパルチザン掃討に時間を使う。バウトクはしびれを切らし、10月の漢江を泳いで渡河する覚悟で出ていったが運良く南軍兵士の乗る小さな渡し船に乗ることができ、やっと身の安全が確保される。

 幸いにバウトクの家族はすべて無事だったが、自宅は、北に殺されたと信じた近隣住人に荒らされ、全財産を失った。そして今度は北に協力した市民に対する追及が始まる…。


 政府をはじめいわゆる漢江を渡って釜山に逃れて楽に暮らした渡江派の要人たちが、意気揚々とソウルに戻ってきた。市民を棄てて首都から逃げ出し、そのうえ自分達だけ逃げればよいと言わんばかりに漢江橋をあわてて早めに切り落とし、多くの市民を犠牲にした罪についても、乱世の理と言えよう。さらに、首都を逃げ出していながら、首都を死守しているとラジオ放送を命じ新聞の号外を発行させて、市民をまどわせた罪についても、また乱世の理と言えよう。しかしこれらは、乱世の理であったとしても、治世になれば明らかに非理だ。こんな政府の手落ちはいっさい棚に放り上げたまま、ソウル残留派の治世の非だけを罪として問いたがる。路上で会うと、良い着物に良い血色の渡江派達が、見すぼらしい衣服に栄養の足りない残留派を見下ろして、最初に発する言葉が振るっている。「釜山では、皆死んだと聞いていたのに、皆生きているね」。これはひどい、治世の非理を公然と犯す言語がほかにあろうか。

(中略)

 渡江派の家族は、動乱三カ月を自宅でのびのびと暮らし、市街戦のなかった町に住んだものは、家財道具の損失もまったくなかった。と言うのは、釜山に逃げて、ソウルに居ないのがはっきりしているので、初めから逮捕を断念した北の政権は、その家族をつかまえて追及しても、徒労だとあきらめていたからである。すでにソウルから逃げた政府が、ソウルを死守していると放送させた虚報を信じて、漢江橋が切られる前にソウルを脱出しなかった者とその家族のみが、北の政権の追及と拷問の対象にされた。何故ならば、ソウルに残っていながら「自首もせず、一言の挨拶もしないで、逃げ回るのがけしからん」と思うのは、人情として当然のことだからである。拷問にかけられる家族が、それを避けるために自宅から逃げ出した。空家の家財道具が、近所に住んでいる食えない人達の手で荒らされた。これが残留派有名人の身の上話である。これはすべて乱世の理であろう。ところが治世が訪れると、政府の非理の罪は問わず、残留した事実自体が非理だから、査問に付すると言う。治世の理なるものも、ずいぶん勝手である。正義とはいつも、錦の御旗の見方をするとは限るまいに。

 朝鮮戦争については、同じ草思社から白善著『若き将軍の朝鮮戦争』というすぐれた戦記が刊行されています(→リンク)。しかし、当時のソウルの惨状を市民の目から描写した、本書を併せ読むことで、あの悲劇の全貌を捉えることができると思います。

 太平洋戦争時の空襲によって、日本の大都市は灰塵に帰し、朝鮮戦争よりも多くの一般市民の犠牲者を出したかもしれないけれど、本土決戦が回避され、「同族相食む」悲劇を味わうことがなかったのは、不幸中の幸いだったといえるでしょう。


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