最近,「Japanese Talking Bar」という珍しい飲み屋を発見して,通い始めています。
そこにアルバイトで来ているアガシが大学生だというので聞いてみました。
「どこの大学?」
「淑明女子大学です。ご存じですか。」
「ああ,あのお嬢さん学校ね。たしか日本人が作ったんだよね」
「えっ? そんな話聞いたことありませんけど。わが大学は,朝鮮の王室が作ったはずですが…」
「へえ,そういうことになってるんだ?」
以前,ネットで淑明女子大の創設に力をつくした日本女性の話を読んだことがあったので,家に帰って調べ直してみました。
淵沢能恵(1850-1936)教育者
福沢諭吉の『西洋事情』を読んで西欧文化にひかれ、31歳のとき釜石鉱山の技師・バーゼル家の女中としてロサンゼルスに渡り、のちに自立してサンフランシスコで英語を学ぶ。帰国後、同志社女学校に入学、東洋英和女学院で教鞭をとるなど女子教育に没頭する。1905年(明治38)に韓国に渡り、翌年には明新女学校(のちに淑明女子高等普通学校と改称)を設立、その女子教育にかける熱意は地元・韓国でも評価され、李王朝から校地や資金を援助される。1936年(昭和11)、87歳で死去。彼女の創立した学校は、現在も名門私立学校として多くの人材を輩出している。
最近,その伝記も出版されたようです(村上淑子『淵沢能恵の生涯海を越えた明治の女性』原書房 2005年12月)。
亡くなる直前に,その功を表彰されたときの新聞記事も出てきた(京城日報1935年9月4日~21日)。
朝鮮を育んだ人々
施政二十五周年記念開発功労者紙上表彰【本社事業の一】
女子教育を天職に身心を打込む
今は八十六の高齢で病床に
女子教育の母,淵沢能恵女史
わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治三十八年に来鮮して以来、雨の日も風の日も孜々として育英事業に携わり、今や八十六歳の高齢に達して病床に横たはる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、子女の教育に投じた人といえる。
そして先年病篤かった時、勲六等に叙せられた。しかし、そこまで漕ぎつけるには血涙をしぽるような苦境に立ったことも一再ならずあったようだ。決して愚痴をこぼさぬ淵沢さんは、自分から、彼れ是れ言わぬが、第一に来鮮早々頭をうって了った。
女子の教育の必要はいうまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった。自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に話をもちかけて見ると、趣旨に賛成するが――それだけの話で一向動いてはくれなかった。悲観した、といって、誰が形をつけてくれよう。そこで厳妃を総裁に仰いで日韓婦人会を創設して、双方の婦人を交際させお互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た。ついに時機到来して耳をかす人も現われ、愈よ学校を開設することになって、李太王に校名をつけていただくことになった。すると快く『晋信館』とおつけになったが、何うも学校名としてはふさわしくない。それでこれをお返しして再び校名を御依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてに何うか』とおっしゃった。これで『明新女学校』の木の香もゆかしい看板をかがけて蓋をあけたが、結果はすっかり案に相違した。
大体淵沢さんが朝鮮で女子教育を施さうとしたのは、同氏の言葉をかりていえば
『日本は初め朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていますから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って来鮮したのです』
というんだから、確固として動かない信念がある。如何なる障害に当面しても、それを乗越え、突き破らねばならぬ。しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった五名という案の相違に人知れず溜息を洩らすより仕方がなかった。そこで更に各方面を勧誘して漸次生徒も増加した。そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田畑を下賜されたので、学校の経営は始めて本格的になり、現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った。
淑明という今の校名は、李太王からおつけしていただいた『明新』は李王垠殿下の御雅号と同字なので改めようと思っている矢先、明治四十四年十一月朝鮮教育令が実施され、内容を充実させると共に淑明女子高等普通学校と改めたものである。
また卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが、その数二十余名にのぼっている。これらの教え子は、今いずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている。また一般卒業生のためには淑女会を組繊して、何くれとなく指導しているので、慈母の如く親まれている。天職に身心を打込むとはこういう人をいうのだろう。そこで『若き女性に求むるところ』を求めて見ると、肺炎後に扁桃腺炎をわずらって、ひからびては痛む咽頭をおさえつつ
『私は女性から政治家が出てもいい思っています。しかしそれは百人に一人とか千人に一人で、政治家となるべき特質をもったものに限られるべきで、例外の部類です。一般の女性は、家庭にあって夫を助け、妻として又母として自然性に、そむかぬ本分を磨き、且つその範囲の生活を完全に生活してゆくべきだと思います。女子は家庭という範疇の中で縁の下の力もちとなることを喜び、信仰の生活を忘れてはいけないと思います』
なお同女史は愛国婦人会の役員や婦人□風会(朝鮮)の会長をしている。
ところが,これが韓国でどうなっているかというと……。
まず,淑明女大のホームページ。
韓国の女性教育の母胎である淑明女子大学校は民族の受難期である1906年高宗皇室厳皇貴姫によって設立された国内初の民族女性私学であります。淑明は100年の歴史と伝統を経て貞淑-賢明-正大の教訓を基礎に、実力と品性を備えた女性エリートを育成し、現在8の学部に一万余名、12の大学院に三千余名の在学生、六万名の卒業生を輩出してきた大学として成長しています。
次は韓国の週刊誌の記事(『週刊朝鮮』2000年10月18日号)
淑明女大の歴史
-高宗皇室が1906年に設立した民族女性私学
淑明女大は1906年高宗皇室が,わが国の力で作った女性教育機関の必要性を痛感し,ヨングン洞に学校の敷地を定め,創学の下地を整えた。日帝下だった当時,わが国の近代教育史上,初めて韓国人校長(カトリック婦人李ジョンスク女史)が就任した淑明女大は,英親王宮など皇室が下賜した農耕地からの収益金を財源として,11歳~25歳の女学生5人を選抜して門を開いた。
このように,韓国では韓国の産業や文化の発展に貢献した日本人の痕跡が次々に消されていきます。
これで韓国人がハッピーなら,それはそれでとやかく言うようなことじゃないかもしれませんが,日本人としては何ともやりきれない思いが残ります。
そこにアルバイトで来ているアガシが大学生だというので聞いてみました。
「どこの大学?」
「淑明女子大学です。ご存じですか。」
「ああ,あのお嬢さん学校ね。たしか日本人が作ったんだよね」
「えっ? そんな話聞いたことありませんけど。わが大学は,朝鮮の王室が作ったはずですが…」
「へえ,そういうことになってるんだ?」
以前,ネットで淑明女子大の創設に力をつくした日本女性の話を読んだことがあったので,家に帰って調べ直してみました。
淵沢能恵(1850-1936)教育者
福沢諭吉の『西洋事情』を読んで西欧文化にひかれ、31歳のとき釜石鉱山の技師・バーゼル家の女中としてロサンゼルスに渡り、のちに自立してサンフランシスコで英語を学ぶ。帰国後、同志社女学校に入学、東洋英和女学院で教鞭をとるなど女子教育に没頭する。1905年(明治38)に韓国に渡り、翌年には明新女学校(のちに淑明女子高等普通学校と改称)を設立、その女子教育にかける熱意は地元・韓国でも評価され、李王朝から校地や資金を援助される。1936年(昭和11)、87歳で死去。彼女の創立した学校は、現在も名門私立学校として多くの人材を輩出している。
最近,その伝記も出版されたようです(村上淑子『淵沢能恵の生涯海を越えた明治の女性』原書房 2005年12月)。
亡くなる直前に,その功を表彰されたときの新聞記事も出てきた(京城日報1935年9月4日~21日)。
朝鮮を育んだ人々
施政二十五周年記念開発功労者紙上表彰【本社事業の一】
女子教育を天職に身心を打込む
今は八十六の高齢で病床に
女子教育の母,淵沢能恵女史
わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治三十八年に来鮮して以来、雨の日も風の日も孜々として育英事業に携わり、今や八十六歳の高齢に達して病床に横たはる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、子女の教育に投じた人といえる。
そして先年病篤かった時、勲六等に叙せられた。しかし、そこまで漕ぎつけるには血涙をしぽるような苦境に立ったことも一再ならずあったようだ。決して愚痴をこぼさぬ淵沢さんは、自分から、彼れ是れ言わぬが、第一に来鮮早々頭をうって了った。
女子の教育の必要はいうまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった。自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に話をもちかけて見ると、趣旨に賛成するが――それだけの話で一向動いてはくれなかった。悲観した、といって、誰が形をつけてくれよう。そこで厳妃を総裁に仰いで日韓婦人会を創設して、双方の婦人を交際させお互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た。ついに時機到来して耳をかす人も現われ、愈よ学校を開設することになって、李太王に校名をつけていただくことになった。すると快く『晋信館』とおつけになったが、何うも学校名としてはふさわしくない。それでこれをお返しして再び校名を御依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてに何うか』とおっしゃった。これで『明新女学校』の木の香もゆかしい看板をかがけて蓋をあけたが、結果はすっかり案に相違した。
大体淵沢さんが朝鮮で女子教育を施さうとしたのは、同氏の言葉をかりていえば
『日本は初め朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていますから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って来鮮したのです』
というんだから、確固として動かない信念がある。如何なる障害に当面しても、それを乗越え、突き破らねばならぬ。しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった五名という案の相違に人知れず溜息を洩らすより仕方がなかった。そこで更に各方面を勧誘して漸次生徒も増加した。そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田畑を下賜されたので、学校の経営は始めて本格的になり、現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った。
淑明という今の校名は、李太王からおつけしていただいた『明新』は李王垠殿下の御雅号と同字なので改めようと思っている矢先、明治四十四年十一月朝鮮教育令が実施され、内容を充実させると共に淑明女子高等普通学校と改めたものである。
また卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが、その数二十余名にのぼっている。これらの教え子は、今いずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている。また一般卒業生のためには淑女会を組繊して、何くれとなく指導しているので、慈母の如く親まれている。天職に身心を打込むとはこういう人をいうのだろう。そこで『若き女性に求むるところ』を求めて見ると、肺炎後に扁桃腺炎をわずらって、ひからびては痛む咽頭をおさえつつ
『私は女性から政治家が出てもいい思っています。しかしそれは百人に一人とか千人に一人で、政治家となるべき特質をもったものに限られるべきで、例外の部類です。一般の女性は、家庭にあって夫を助け、妻として又母として自然性に、そむかぬ本分を磨き、且つその範囲の生活を完全に生活してゆくべきだと思います。女子は家庭という範疇の中で縁の下の力もちとなることを喜び、信仰の生活を忘れてはいけないと思います』
なお同女史は愛国婦人会の役員や婦人□風会(朝鮮)の会長をしている。
ところが,これが韓国でどうなっているかというと……。
まず,淑明女大のホームページ。
韓国の女性教育の母胎である淑明女子大学校は民族の受難期である1906年高宗皇室厳皇貴姫によって設立された国内初の民族女性私学であります。淑明は100年の歴史と伝統を経て貞淑-賢明-正大の教訓を基礎に、実力と品性を備えた女性エリートを育成し、現在8の学部に一万余名、12の大学院に三千余名の在学生、六万名の卒業生を輩出してきた大学として成長しています。
次は韓国の週刊誌の記事(『週刊朝鮮』2000年10月18日号)
淑明女大の歴史
-高宗皇室が1906年に設立した民族女性私学
淑明女大は1906年高宗皇室が,わが国の力で作った女性教育機関の必要性を痛感し,ヨングン洞に学校の敷地を定め,創学の下地を整えた。日帝下だった当時,わが国の近代教育史上,初めて韓国人校長(カトリック婦人李ジョンスク女史)が就任した淑明女大は,英親王宮など皇室が下賜した農耕地からの収益金を財源として,11歳~25歳の女学生5人を選抜して門を開いた。
このように,韓国では韓国の産業や文化の発展に貢献した日本人の痕跡が次々に消されていきます。
これで韓国人がハッピーなら,それはそれでとやかく言うようなことじゃないかもしれませんが,日本人としては何ともやりきれない思いが残ります。
何が事実かわからないものも多いですけれどね。
韓国の場合、都合の悪い事実が多すぎるのが、ちょっとかわいそう。
敗戦で淑明最後のクラスとなった時の思い出話です。
「朝鮮女子として立派たれ。」と、日本人の女性先生がクラスの皆に言い残され言葉が忘れられないそうです。
呉善花さんも,生き証人にインタビューして本を書いていたはずです。
鳳仙花さんも,ぜひ頑張ってください。
来月淵澤の故郷岩手県にて、淵澤に関するフォーラムがあり、ネット上にある淵澤の情報をあさっておりました。
詳しい調査にもとづきこのように分かりやすくまとめてくださり、真にありがとうございます。
淑明学園は誰がつくったか?という問いに対する回答は非常に難しいものかと思います。
「淵澤能恵の生涯」を韓国語に翻訳し出版した姜奉植氏(岩手県立大学教授)でさえも、前書きで「大韓帝国皇室の厳妃は近代教育普及に熱心であったが、明新女学校の教育担当者を最初は韓国人女性教育者から捜したが、適任者がおらず結局日本人の中から捜すようになったようであり、ここに淵澤が参加したのであった」
と書いております。
本の本文自体は村上淑子氏の原文どおり「淵澤が学校を作った」となっております。
私としては、淑明学園は誰がつくったか、という問いに対しては、誰か一人に絞るのは難しく、「淵澤がつくった」とも言えるし「厳妃がつくった」ともいえるのではないかと考えております。
とにかく、日帝下での日本人の功績がすべて潰されていく現実は悲しいことと感じております。
我が岩手県の輩出した人物に大きく関心を持ってくださる犬鍋様に、感謝と敬意を表します。
コメントありがとうございます。
学校創設というのは大がかりな事業ですから,個人の力でできることではありませんね。
村上氏の本はいつか読ませていただきます。