韓国では、慰安婦支援団体(正義連と尹美香、ナヌムの家)の不正疑惑に対する報道が続いていますが、それに対する「識者」やマスメディアの、次のような論調に危惧をおぼえます。
「尹美香が募金を私的に流用していたことはよくないので、検察にしっかり捜査してほしい。でも、これは尹美香個人の犯罪であって、支援団体がこれまで果たしてきた功績を否定すべきではない」
というような論調です。
たとえば、「日本軍慰安婦研究会」会長のヤン・ヒョナ(ソウル大学法学専門大学院教授)という人は、進歩系のメディアであるハンギョレに、次のような文章を寄稿しています。
[寄稿]被害者を代弁するということーあの多くの「ハルモニたち」はどこへ(リンク)
抜粋すると…
李容洙(イ・ヨンス)さんが行った告発のうち、正義記憶連帯(正義連、旧韓国挺身隊問題対策協議会)の会計不透明疑惑は今後の調査で明らかになるはずだ。
李容洙さんのもう一つの告発、正義連が「ハルモニたちを売った」「ハルモニたちを利用した」「自分たちの意向に合うハルモニたちだけで活動した」という、運動のやり方に対する発言については、指摘が正しいのか考えてみたい。
筆者は1998年から2001年まで「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」の準備の一環として被害者たちに会い、証言調査研究を行なった。
私たちは研究者の質問を中心とするのではなく、証言者の記憶を中心にしつつ、当時の社会的脈絡と構造を見逃さない質問と聴取を通じて「証言者中心主義」の証言方法論を作り上げていった。
被害者の言葉は大切なものだが、その中の迷い、言説で表現しがたい体験、沈黙、不明確な記憶、感情と欲望の地帯など様々な屈曲が存在する。この非言語的地帯、情動(affect)の地帯を言語の行間に表現するということは、当然多くの悩みと責任を負うことだ。何よりも、被害者「そのひと」を深く理解しなければならないのであり、彼女を愛さなければならないのである。これが(慰安婦被害者だけでなく)被害者を再現するということの持つ複合性と責任、そしてその不完全性を表すのではないかと思う。李容洙さんは正義連の支援行為を「売った」と表現した。自分の望んだ通りに問題が解決されず、むしろ市民団体のために自分が活用されたと思いながら使った表現であろう。しかし、あまりにも胸の痛む表現だ。
1993年に出版された『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』証言第1集から証言第6集(2004)まで、挺対協は「韓国挺身隊研究所」とともに証言集を共同出版あるいは単独で出版した。つまり、『強制連行』シリーズで挺対協が出版の主体から外れたことはなかった。李容洙さんの証言は1993年の証言第1集に掲載されている。私は無条件に正義連をかばうつもりはないが、これは動かざる事実だ。この機会に生存者100人余りの証言を収録した韓国の各証言集を、小中高校や大学で教材として採択し、市民たちも読んでみることを強く勧める。
高齢の被害者たちを、それも数十年間持続的に世話をし、人権運動家として共に歩んできた正義連と全国の「慰安婦」関連市民団体に対して、韓国社会と国家は深い敬意を示さなければならないと考える。
ヤン教授はこのように、挺対協が軍慰安婦たちの証言集を苦労の末にまとめ上げたことを高く評価しています。李容洙が1993年にどのような証言をしていたのかは、こちらで読むことができます(リンク)。
16歳のとき、友人に誘われて家出をし、就職詐欺に引っかかって、台湾で慰安婦になった。
という証言です。
ところがその後、李容洙の証言はどんどん変わっていき、最後には
14歳のとき、寝ているところを日本の軍人に銃剣を突き付けられて連れて行かれた。
という、最初の証言と大きく異なる内容に変貌を遂げます。
この証言内容の変化は、誰によって引き起こされたのでしょうか。水曜集会に最初に募金箱を持ち込んだ尹美香と当時の挺対協が、「被害者性を強めて、国民の同情をもっとひき、たくさんの募金を集めるために」、李容洙に助言や誘導を行った結果ではないでしょうか。
先のヤン教授は、次のようにも書いています。
これまで韓国政府に届け出た韓国の被害者は、2019年現在240人だが、今日の生存者は17人だ。さらに重要なのは、母国に帰還できなかった被害者が、8万人から20万人と推算される朝鮮人被害者の大多数を占めるという点だ。彼らは他国でディアスポラとなり、または亡くなったであろう。
これまた、韓国では今でも信じられている虚構です。慰安婦は朝鮮出身者だけで8万人から20万人いて、その大多数が韓国に帰還できずに、現地に取り残されたり、死んだりした。そのため、韓国で名乗り出た慰安婦は240人にすぎないのだ、というわけです。
日本の一部の研究者は、
「慰安婦の総数は、そんなに多くはなく、朝鮮人の比率も日本人や中国人より少なく、ほとんどは韓国に帰還した」
と主張しています。
問題は、尹美香の個人的犯罪ではなく、挺対協が初期の「証言集」以後におこなった「証言操作」を通じて、虚構の「慰安婦残酷物語」を作り上げ、それを韓国のメディアが無批判に報じることによって、韓国人の間に「通説」として定着し、それをもとに「少女像」が次々に建てられたり、日本に対して法的責任と賠償を追及し続けたりしていることです。
韓国の通説に対する異議申し立ては、『帝国の慰安婦』の朴裕河教授や、『反日種族主義』の李栄薫教授の努力で、少しずつ韓国民にも知られるようになってきていますが、「尹美香事態」をきっかけに、挺対協によって作り上げられた「慰安婦残酷物語」の誤りと「慰安婦の実像」が韓国民に正しく理解されることを望みます。
「尹美香が募金を私的に流用していたことはよくないので、検察にしっかり捜査してほしい。でも、これは尹美香個人の犯罪であって、支援団体がこれまで果たしてきた功績を否定すべきではない」
というような論調です。
たとえば、「日本軍慰安婦研究会」会長のヤン・ヒョナ(ソウル大学法学専門大学院教授)という人は、進歩系のメディアであるハンギョレに、次のような文章を寄稿しています。
[寄稿]被害者を代弁するということーあの多くの「ハルモニたち」はどこへ(リンク)
抜粋すると…
李容洙(イ・ヨンス)さんが行った告発のうち、正義記憶連帯(正義連、旧韓国挺身隊問題対策協議会)の会計不透明疑惑は今後の調査で明らかになるはずだ。
李容洙さんのもう一つの告発、正義連が「ハルモニたちを売った」「ハルモニたちを利用した」「自分たちの意向に合うハルモニたちだけで活動した」という、運動のやり方に対する発言については、指摘が正しいのか考えてみたい。
筆者は1998年から2001年まで「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」の準備の一環として被害者たちに会い、証言調査研究を行なった。
私たちは研究者の質問を中心とするのではなく、証言者の記憶を中心にしつつ、当時の社会的脈絡と構造を見逃さない質問と聴取を通じて「証言者中心主義」の証言方法論を作り上げていった。
被害者の言葉は大切なものだが、その中の迷い、言説で表現しがたい体験、沈黙、不明確な記憶、感情と欲望の地帯など様々な屈曲が存在する。この非言語的地帯、情動(affect)の地帯を言語の行間に表現するということは、当然多くの悩みと責任を負うことだ。何よりも、被害者「そのひと」を深く理解しなければならないのであり、彼女を愛さなければならないのである。これが(慰安婦被害者だけでなく)被害者を再現するということの持つ複合性と責任、そしてその不完全性を表すのではないかと思う。李容洙さんは正義連の支援行為を「売った」と表現した。自分の望んだ通りに問題が解決されず、むしろ市民団体のために自分が活用されたと思いながら使った表現であろう。しかし、あまりにも胸の痛む表現だ。
1993年に出版された『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』証言第1集から証言第6集(2004)まで、挺対協は「韓国挺身隊研究所」とともに証言集を共同出版あるいは単独で出版した。つまり、『強制連行』シリーズで挺対協が出版の主体から外れたことはなかった。李容洙さんの証言は1993年の証言第1集に掲載されている。私は無条件に正義連をかばうつもりはないが、これは動かざる事実だ。この機会に生存者100人余りの証言を収録した韓国の各証言集を、小中高校や大学で教材として採択し、市民たちも読んでみることを強く勧める。
高齢の被害者たちを、それも数十年間持続的に世話をし、人権運動家として共に歩んできた正義連と全国の「慰安婦」関連市民団体に対して、韓国社会と国家は深い敬意を示さなければならないと考える。
ヤン教授はこのように、挺対協が軍慰安婦たちの証言集を苦労の末にまとめ上げたことを高く評価しています。李容洙が1993年にどのような証言をしていたのかは、こちらで読むことができます(リンク)。
16歳のとき、友人に誘われて家出をし、就職詐欺に引っかかって、台湾で慰安婦になった。
という証言です。
ところがその後、李容洙の証言はどんどん変わっていき、最後には
14歳のとき、寝ているところを日本の軍人に銃剣を突き付けられて連れて行かれた。
という、最初の証言と大きく異なる内容に変貌を遂げます。
この証言内容の変化は、誰によって引き起こされたのでしょうか。水曜集会に最初に募金箱を持ち込んだ尹美香と当時の挺対協が、「被害者性を強めて、国民の同情をもっとひき、たくさんの募金を集めるために」、李容洙に助言や誘導を行った結果ではないでしょうか。
先のヤン教授は、次のようにも書いています。
これまで韓国政府に届け出た韓国の被害者は、2019年現在240人だが、今日の生存者は17人だ。さらに重要なのは、母国に帰還できなかった被害者が、8万人から20万人と推算される朝鮮人被害者の大多数を占めるという点だ。彼らは他国でディアスポラとなり、または亡くなったであろう。
これまた、韓国では今でも信じられている虚構です。慰安婦は朝鮮出身者だけで8万人から20万人いて、その大多数が韓国に帰還できずに、現地に取り残されたり、死んだりした。そのため、韓国で名乗り出た慰安婦は240人にすぎないのだ、というわけです。
日本の一部の研究者は、
「慰安婦の総数は、そんなに多くはなく、朝鮮人の比率も日本人や中国人より少なく、ほとんどは韓国に帰還した」
と主張しています。
問題は、尹美香の個人的犯罪ではなく、挺対協が初期の「証言集」以後におこなった「証言操作」を通じて、虚構の「慰安婦残酷物語」を作り上げ、それを韓国のメディアが無批判に報じることによって、韓国人の間に「通説」として定着し、それをもとに「少女像」が次々に建てられたり、日本に対して法的責任と賠償を追及し続けたりしていることです。
韓国の通説に対する異議申し立ては、『帝国の慰安婦』の朴裕河教授や、『反日種族主義』の李栄薫教授の努力で、少しずつ韓国民にも知られるようになってきていますが、「尹美香事態」をきっかけに、挺対協によって作り上げられた「慰安婦残酷物語」の誤りと「慰安婦の実像」が韓国民に正しく理解されることを望みます。
ヤン・ヒョナさんは事実を知りながら詭弁を弄していますね。
>私たちは何度も被害者に会い、各人の揺ぎない真実を発見することができた。この過程で様々な悩みがあったが、その一つに、研究者たちの知っている「慰安婦」像にふさわしい証言だけを「慰安婦」の証言としなければならないのかという問題があった。私たちの知っている「民族の被害者」、あるいは性暴力被害者としての彼女たちと、実際私たちが会った彼女たちが打ち明けた話の構造と焦点はかなり違っていた。---------------(略)---------告白すると、証言チームの研究者たちは証言者との関係を持続したケースがほとんどなかった。証言研究が終わると、私たちはそれぞれ生活が忙しく、ハルモニたちとの関係が疎遠になったのだ。
私が25年位前の学生の時にヤン・ヒョナさんのいう「社会的脈絡と構造を見逃さない質問と聴取」に沿って慰安婦達の証言が「事実か否かを確かめる」インタービューをしていると関係者の一人から聞きました。慰安婦になるまでの住んでいた町の様子や生活、慰安所での生活等、優しく尋ねて言ったらしいです。
私はこの話を聞いた時に、日本のリベラルの学者の週刊誌的な手法に較べたら良識的だなと思いました。
その結果
「実際私たちが会った彼女たちが打ち明けた話の構造と焦点はかなり違っていた。」、「証言チームの研究者たちは証言者との関係を持続したケースがほとんどなかった。証言研究が終わると、私たちはそれぞれ生活が忙しく、ハルモニたちとの関係が疎遠になったのだ。」
で、日本の悪を暴くと意気込んでいた学者達の大半がこの問題から手を引いたと聞きました。
なので、ヤン・ヒョナさんの建前と詭弁を感じます。
韓国ではこう言わないと生きてはいけないので仕方がないとは思います。
私自身も上のようなことを耳に挟んだり、ナヌムの家でのおばあさん達の世間話や戦前を女学生として生活していた人たちの話を聞いて慰安婦強制連行に疑問を持つようになりました。
ただ、韓国に不利益になるような言説には耳を傾けない自尊心が韓国人の大多数にあるので、慰安婦の実像が韓国民に正しく理解されることは難しいと思います。
ヤン・ヒョナという人がどんな学者か知りませんが、ご指摘のように、証言から、学問的な手法で慰安婦生活の実像を探りだしたが、いわゆる「慰安婦」像にそぐわない「事実」がでてきてしまい、それらを切り捨てることを要求され、学者としての良心がとがめて、心ある研究者が去っていった、というのが本当のところかもしれません。
ソウル大学名誉教授の安秉直(アン・ビョンジク)は次のようなことを言っています。
「だから,これは一種の慰安婦問題という普遍的な慰安婦問題として一般性を持っているのだが,「軍慰安婦」だから強制的に動員した可能性はある。であるから私たちがそこに関して集中的に研究しなければならないわけで,実際に私は挺対協(挺身隊対策協議会)といっしょに初期の3年間,調査したのだ」
「三年間挺対協で活動し,その後やめた理由は、ここの人々(の研究)は慰安婦問題の本質を把握し,今日の惨めな慰安婦現象を防止するための研究ではなく,日本と争うための研究(だったからだ)」
「だから,そんな反日運動に今日,何の意味があるか。そこに疑問があったので私はその活動から抜けた」
https://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/59a549a95ded20713df9d96bbd91e88c