
写真:関東大震災前の歌舞伎座
100年前の出来事について、62歳の私に直接的な思い出があるはずがありません。
実際に震災で被災した私の祖母の「思い出話」です。
私の祖母は1901年(明治34年)、東京生まれ。
両国の料亭の娘として生まれ、20歳のとき、銀行員だった私の祖父と結婚しました。祖父は人形町生まれで、銀座歌舞伎座の隣で歌舞伎茶屋をしていた親戚筋の養子になっていました。
第一子がまもなく生まれるというとき、1923年9月1日に関東地方を大地震が襲いました。
家は倒壊、近くで火の手が上がり、臨月だった祖母は、祖父、その養母とともに、家財道具をもって逃げました。
養母からは、「妊婦が火を見ると、生まれてくる子の顔にあざができる」からと、火を見ないように言われたそうですが、周りは火の海なので、火を見ないなんてことは不可能。震災の5日後、9月6日に生まれた長女(私の伯母)の顔にあざはなく、それが迷信だったことが証明されました。
当時、決められた「避難場所」などというものはなく、祖父母一家は、人の波に押されるまま、浜離宮に向かいました。しかし、着いた時にはもう避難民であふれていて、門が閉じられ、中に入ることができなかった。でも、後から聞いたところでは、離宮の中でも火災が発生して、多くの犠牲者が出たそう。
「入れなかったのがよかった。入っていたら助からなかったかも」
避難の際、臨月の祖母には重いものは持たせられないというので、家財道具はもっぱら祖父が背負い、お祖母さん(祖父の義母)は、位牌など小物を持っていたらしい。
布団を丸めて縛った大きな風呂敷を背負っていた祖父は、ひしめく避難民にぶつかりながら、あちらへよろよろ、こちらへよろよろ。祖母は、その姿を後ろから見て、「おかしくてしょうがなかった」と回想していました。
避難の途中、一休みしているとき、祖父が「ああ、喉が渇いた。牛乳がのみてぇなあ」とつぶやいた。養母は「こんなときに、あきれちゃうね」と言っていたそう。
祖父は人形町の生まれですが、そこで「牧場」をやっていたというのです。そんな東京のど真ん中に、はたして牧場があったのか、いまとなっては確かめることができません。
多くの人が火災の犠牲になった中で、祖父母一家は無事に逃げ延び、火事を免れた親戚の家に身を寄せて、予定日よりかなり早く、私の伯母を出産しました。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた、なんていう話を聞いた。当時、朝鮮人のことを「不逞鮮人」て呼んでたね。なんでも、ずいぶん多くの人が殺されたそうだよ」
祖母は、話を聞いただけで、実際に朝鮮人が殺される場面に遭遇したことはなかったとのことです。
銀座の歌舞伎茶屋は全焼。当時、家というものは建物に価値があり、土地はあまり重要視されなかった。取引先の弁当屋(弁松)から、焼け野原の跡地を譲ってほしいといわれたので、二束三文で売り払ったそうです。
「あのとき、売らないでおけば、ひと財産作れたかもしれないけど、家を建て直すお金なんてなかったから、しょうがなかった」
祖父母はその後、神楽坂に家を借り、伯母と父を育て上げました。子どもが二人だけというのは、当時としては珍しく少ない。
父を産んだ後、卵巣の病気を患い、卵巣を摘出したからだそうです。
祖父は私が小学校5年生のとき他界。祖母は、私が結婚した後、二番目のひ孫ができるまで健在で、明治、大正、昭和を生き抜き、平成2年(1990年)、89歳で天寿を全うしました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます