犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

戦争と父②

2022-12-11 23:05:00 | 思い出

写真:1950年東大卒業記念品(バックル)

戦争と父①より続く

 マッカーサーによる陸士・海兵出身者の東京帝国大学入学禁止措置が解かれ、父は1947年4月に東京帝国大学経済学部に入ったと思われます。

 家に父が卒業したときに記念品としてもらったバックルがあります。裏面には「1950年卒業記念」と刻まれています。当時の学制(旧制)では大学は3年制でしたので、計算上、入学は1947年になります。

 東京帝国大学が名称を東京大学に変えたのは1947年9月のことですから、入学時は東京帝国大学だったはずです。

 当時の東大総長は南原繁。南原は1945年の東京帝国大学の存亡の危機において奔走し、大学を守ったそうです。

「本土決戦」が現実味を帯びてきた45年6月、日本軍部は帝都防衛の指令部を置くために東京帝国大学の接収を申し入れましたが、学部長会議(当時南原は法学部長)で申し入れを断ることを決定。

 日本敗戦後の8月30日、今度は日本に進駐軍として乗り込んできたマッカーサーが、東大を接収してGHQの指令部を置こうとしましたが、このときも南原はそれを拒否して東大を保全しました。

 敗戦によって日本は連合国軍の占領下におかれ、52年に独立するまで、国政は占領行政のもとに行われていました。教育は占領政策の中で特に重視され、父が大学に入ったとき、日本の教育界は大変動に見舞われていました。

 そんな混乱期ですから、大学入学にあたってまともな入学試験があったのかもよくわかりません。

 1945年9月15日、文部省は連合国軍の方針や指令が発せられる前に「新日本建設ノ教育方針」を発表しました。

「今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムルト共ニ軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ科学的思考力ヲ養ヒ平和愛好ノ念ヲ篤クシ智徳ノ一般水準ヲ昂メテ世界ノ進運ニ貢献スル」

 それに先立ち、8月16日に学徒動員の解除を通知。24日に学校教練・戦時体錬・学校防空関係の諸法令を廃止。9月に中等学校以下の教科書からの戦時教材の削除、高等学校理科生徒の文科への転科承認、疎開学童の復帰などを通知。

 10月以降、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は矢継ぎ早に指令を発します。

 その主なものは、軍国主義者、国家主義者の排除。いわゆる「教職追放」です。また、国家神道は解体され、信教の自由の確保、国家と宗教との分離が図られました。修身、日本史、地理の授業は停止され、教科書は回収されました。

「教職追放」は46年5月に実施され、5340人の教師が追放されました。

 日本の教育を「改革」するため、46年3月に米国教育使節団が来日、3週間ほどの滞在の間に報告書がまとめられました。報告書は、これまでの軍国主義的教育に代えて民主的教育の理念、方法、制度などを提言。基本的人権の尊重と民主主義、自由主義の理念を強調したものでした。

 新しい学制として六・三・三・四制、9年間の無償義務教育、男女共学を提唱。また、日本語の表記法として、ローマ字の採用、漢字の廃止(制限)などの国語改革を勧告しました。

「漢字廃止とローマ字化」がいかに阻止されたかについては、井上ひさしが「東京セブンローズ」という小説で詳しく描いています。

 それまで女学生は帝国大学から排除されていましたが、1946年に解禁されます。父が入学した47年には東京帝国大学にも初めての女性が入学したそうです。その中には社会人類学者の中根千枝(文学部、のちに女性初の東大教授)、政治家の森山真弓(法学部、のちに文部大臣、法務大臣、女性初の官房長官)がいたそうです。学部は違いますが、父と同期だったのですね。経済学部にも女性がいたかどうかはわかりません。

 東大経済学部も激動のさなかにありました。

 戦時中に、東大経済学部の多くの教授陣が思想的な問題で学校を追放され、軍国主義的、国家主義的な人々が教鞭をとっていましたが、45年9月に学部長の橋爪明男が退任。11月には、荒木光太郎、中川友長、難波田春夫が追放され、その代わりにそれまで追放されていた学者たちが復職しました。

 1945年12月の経済学部は、矢内原忠雄(植民政策)を学部長とし、復職した大内兵衛(財政)、有沢広巳(統計学)、土屋喬雄(経済史)、山田盛太郎(農業政策)、脇村義太郎(経営史)らのほかに、戦中に追放を免れていた大塚久雄(西洋経済史)、上野道輔(会計学)、大河内一男(社会政策)らがいたようです。

 学生たちも多様だったはずです。

 学徒動員から復員した学生、旧制高校(主に一高)卒の学生に交じって、父のように陸士・海兵上がりの学生もいました。

 追放されていた教授たちの授業内容は、軍国主義、国家主義を厳しく批判するものであったことは容易に想像できます。

 戦争中は言論統制が敷かれていましたから、軍隊内部にいても、正しい戦況はわからなかったはずです。大東亜戦争(日本での呼称)がいかに愚かな戦いだったか、帝国陸軍がいかに非合理的・独善的な組織だったかについては、父も戦後に初めて知ったことでしょう。

 当時の東大経済学部の様子は、こちらに書かれています。

東大生が体験した「8月15日」

「大内(兵衛)先生が『戦争は儲かるか』というテーマで講義をし、戦争批判をしていた」

 19歳までの教育で軍国主義を注入されてきた皇国少年の父、教育勅語を暗唱していた父が、この手のひら返しの雰囲気の中で、何を感じたか。

 学徒動員に怨みをもっていた学生もいたでしょうし、戦死・戦災で家族を失った学生も多かったでしょう。そのような学生に囲まれていた父にとって、大学はそれほど居心地がいいところではなかったような気がします。

 戦時中に発禁図書だったマルクスの『資本論』は解禁され、教授の中にはマル経(マルクス主義経済学)の学者も多かった。

 父が大学で何を学び、どんな本を読んだかはわかりません。父の蔵書はほとんどありませんでした。本は高価でしたから、図書館で読むか、人から借りて読んだ、あるいは卒業と当時に古本屋に売ったのかもしれません。

 数少ない本の一冊が、マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。箱入りハードカバーの本でした。

 一回り上のいとこが慶応の経済学部に入ったとき、「自分が大学時代にいちばん勉強になった本だ」といって貸してあげていたのを覚えています。

 父の死後、高校2年の夏休みの指定図書の一冊だったので、私も読んでみました。「資本主義がプロテスタントの禁欲主義から生じた」ことを論じた内容でしたが、そもそもカトリックとプロテスタントの違いもあやふやだったので、あまりよくわかりませんでした。

 父は、「大学では野球をやっていた」と言っていました。家には、大学時代に使っていたというキャッチャーマスク(プロテクター)がありました。野球のユニフォーム姿の写真も見たことがあります。東大野球部で正式にやっていたのかどうか、定かではありません。

 1950年の春に父は大学を卒業し、三井銀行に入行しました。学んだ経済学が生かせる職場でもあり、父親(私の祖父)も銀行員だったので、自然な就職先だったといえるでしょう。


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