写真:終戦の玉音放送を聞く若者
猫を棄てる―父親について語るとき
戦争と父①
戦争と父②
父は1950年に東大経済学部を卒業し、三井銀行に入行しました。
同期には、海兵(海軍兵学校)を経て東大法学部を卒業した人がいて、馬が合ったらしく、49歳で亡くなるまで家族ぐるみの付き合いをしていました。
母によれば、最初の配属は新橋支店。幹部候補生が最初に配属される支店だということです。東大卒の父はエリート行員だったのでしょう。
昭和5年(1930年)生まれの母は、15歳で終戦を迎え、商業高校を出て三井銀行に入社して、父と知り合いました。
「あのころはかっこよかったのよ」
私が物心ついたころの父は鼻が赤く、いかにも飲兵衛という顔でした。父がいつごろから深酒をするようになったのかはわかりません。
銀行の仕事が忙しかったせいもあるかもしれませんが、平日に家族で夕食を囲むということはほとんどありませんでした。いつも、酒に酔って、夜遅くに帰ってきました。
タクシーの中で泥酔し、困ったタクシー運転手が交番に駆け込んで、交番から呼び出されるということもしばしばでした。
休日も午前中からウイスキーの水割りを飲んでいました。安い大瓶(ハイハイニッカ?)で、切れると千円札を握らされて、近所の酒屋に買いに行かされました。900円だったので、おつりの100円をお駄賃としてもらえたのがうれしくもありました。
父の銀行での働きぶりはよくわかりません。
ただ、私がまだ幼いとき、支店の若い行員たちを家に呼んで、花火を見ながら宴会をしたことがあります。
少し前に伯母が離婚して出戻ってきたので、平屋だった家に二階を増築し、ついでに少し広めの物干し台を作りました。そこから夏の多摩川の花火大会がよく見えたのです。
伯母は小唄の師匠をしており、弟子の練習のために、新式のテープレコーダーを買いました。人の声を録音、再生できるのが不思議で、私より4歳半上の兄は、面白半分にいろんなものを録音していました。
花火の宴会のときも、ひそかにテープを回していて、そのときの会話が録音されていました。私が大きくなってからその録音を聞くと、若い行員たちは、酔いが回るにつれ支店長や職場に対する不満を父にもらし、父は聞き役をつとめていました。
若い行員からの信頼は、それなりに勝ち得ていたようでした。
花火大会が終わりに近づき、ひときわ大きな花火が上がりました。
父はそれを見て、
「断末魔だな」
と言いました。幼稚園児だった私はそれを聞き、
「ダンナツマ? だんな(旦那)のつま(妻)はダンナツマ」
と言って、その場にいた人たちを大笑いさせたことも、しっかり録音されていました。
そのとき、父の職責は都内のある支店の次長でした。
同期の幹部候補生たちが次々に支店長に昇進する中、いつしか父は出世街道からはずれていたのです。その理由が父の飲酒にあることは明らかでした。
当時の家族は、父、母、兄、祖父、祖母そして伯母の7人。
自分も酒飲みの祖父は何も言いませんでしたが、それ以外の家族はいつも父の飲酒をなじっていました。そんな家庭の雰囲気もあって、父は家に早く帰りたくなかったのかもしれません。
私が小学校5年生のときに祖父が胃癌で亡くなってから、父の酒量はいっそう増えました。
そしてついに、銀行から業務命令で、アル中治療のための病院に強制入院させられたのです。
「これで酒がやめられなければ、君の銀行人生は終わりだ」
とまで言われたそうです。
しかし、節制は退院後1か月ほどしか続きませんでした。
銀行員の給料がどれくらいだったかわかりませんが、その多くが酒代に消えて行ったのは確かです。
小学校の3年か4年の時、兄と私は後楽園球場で巨人戦に連れて行ってもらったことがあります。ナイターの試合で、帰り道、父の行きつけのすし屋に連れていかれました。五反田の江戸虎というすし屋ですが、今検索しても出てこないので店を閉めたのでしょう。父は寅年生まれなので、この店を贔屓にしていました。
私と兄は寿司が食べられるので大喜び。父は寿司は食べず、刺身の盛り合わせをつまみにビールと日本酒(熱燗)を飲んでいました。板前にビールをごちそうしたりもしていました。
お勘定は四千円。当時、私のお小遣いが月三~四百円(学年かける百円)でしたので、四千円という金額にびっくりして、今でも記憶に残っています。
(毎日、こんなに使ってるんだ!)
ツケで飲んでいた店も多かったようです。ボーナスはほとんどツケの支払いに充てられ、残らなかった、と母が嘆いていました。
父が亡くなって何か月か経ったとき、着物姿の女性が父を訪ねてきました。飲み屋の女将でした。残っていた支払いを取り立てに来たのです。亡くなったことを伝えると、「じゃツケのお金はお香典ということにします」と言って帰って行きました。
父は48歳で食道癌が見つかりました。1年に1回健診を受けていたのに、見つかったときは末期でした。若いので進行が速かったかもしれません。2回の開腹手術の甲斐なく、最後は全身に転移し、闘病1年で亡くなりました。
長年の喫煙と飲酒によるものと思われます。
何が父を酒に向かわせたのか?
銀行という仕事が向いておらずストレスをためこんでいた?
四十九日だったか、一周忌だったか、法事の時に銀行で同期だった親友(海兵、東大出身)が線香を上げに来てくれました。当時、三井銀行の役員になっていました。
「あいつは豆腐が好きだったからね」
仏前に豆腐を供えてくれました。
「ま、銀行はそんなに甘いところじゃなかった、ていうことだ」
銀行が向いていなかったのかもしれません。
父は、大学卒業後、三井銀行以外に日本経済新聞社を受けたそうです。もしかしたら、そっちが本命だったかもしれません。社主の話を、煙草を吸いながら聞き流していたら、試験問題は「今の話を〇〇字以内でまとめよ」だった。
もし経済新聞社に入っていたら、やりがいをもって仕事に臨み、酒に溺れることはなかったんじゃないか。
家に帰ると妻や母(私の祖母)からなじられた、ということもあるでしょう。
祖母は、父の生前から、
「最高学府で経済学をやったなんて言っても、家の経済が管理できないんじゃしょうがない」
などと言っていましたし、死後は、兄や私に向かって、
「酒は飲んでも飲まれるな」
ということわざ(?)を口癖のように言い聞かせていました。
でもやっぱり、戦争が大きかったのじゃないか、と思うのです。
かっこいい兵隊さんにあこがれて、大東亜戦争開戦後に陸士に入り、一度は「本土決戦」の覚悟を決めたが、敗戦。
戦後の大学で、手のひら返しのように「民主思想」を教えられ、戦前の日本の価値観が全否定された。
自分が今まで学んだもの、信じてきたものはなんだったんだ?
国のために死んでいった友人はどうなるんだ?
すぐに頭を切り替えることができた人たちは、高度経済成長期にうまく世渡りをしましたが、父はそれができず、酩酊の世界に逃げ込んだのではないか。
村上春樹のエッセイがきっかけとなって、あらためて父とその時代を振り返ってみての、私なりの結論です。
猫を棄てる―父親について語るとき
戦争と父①
戦争と父②
父は1950年に東大経済学部を卒業し、三井銀行に入行しました。
同期には、海兵(海軍兵学校)を経て東大法学部を卒業した人がいて、馬が合ったらしく、49歳で亡くなるまで家族ぐるみの付き合いをしていました。
母によれば、最初の配属は新橋支店。幹部候補生が最初に配属される支店だということです。東大卒の父はエリート行員だったのでしょう。
昭和5年(1930年)生まれの母は、15歳で終戦を迎え、商業高校を出て三井銀行に入社して、父と知り合いました。
「あのころはかっこよかったのよ」
私が物心ついたころの父は鼻が赤く、いかにも飲兵衛という顔でした。父がいつごろから深酒をするようになったのかはわかりません。
銀行の仕事が忙しかったせいもあるかもしれませんが、平日に家族で夕食を囲むということはほとんどありませんでした。いつも、酒に酔って、夜遅くに帰ってきました。
タクシーの中で泥酔し、困ったタクシー運転手が交番に駆け込んで、交番から呼び出されるということもしばしばでした。
休日も午前中からウイスキーの水割りを飲んでいました。安い大瓶(ハイハイニッカ?)で、切れると千円札を握らされて、近所の酒屋に買いに行かされました。900円だったので、おつりの100円をお駄賃としてもらえたのがうれしくもありました。
父の銀行での働きぶりはよくわかりません。
ただ、私がまだ幼いとき、支店の若い行員たちを家に呼んで、花火を見ながら宴会をしたことがあります。
少し前に伯母が離婚して出戻ってきたので、平屋だった家に二階を増築し、ついでに少し広めの物干し台を作りました。そこから夏の多摩川の花火大会がよく見えたのです。
伯母は小唄の師匠をしており、弟子の練習のために、新式のテープレコーダーを買いました。人の声を録音、再生できるのが不思議で、私より4歳半上の兄は、面白半分にいろんなものを録音していました。
花火の宴会のときも、ひそかにテープを回していて、そのときの会話が録音されていました。私が大きくなってからその録音を聞くと、若い行員たちは、酔いが回るにつれ支店長や職場に対する不満を父にもらし、父は聞き役をつとめていました。
若い行員からの信頼は、それなりに勝ち得ていたようでした。
花火大会が終わりに近づき、ひときわ大きな花火が上がりました。
父はそれを見て、
「断末魔だな」
と言いました。幼稚園児だった私はそれを聞き、
「ダンナツマ? だんな(旦那)のつま(妻)はダンナツマ」
と言って、その場にいた人たちを大笑いさせたことも、しっかり録音されていました。
そのとき、父の職責は都内のある支店の次長でした。
同期の幹部候補生たちが次々に支店長に昇進する中、いつしか父は出世街道からはずれていたのです。その理由が父の飲酒にあることは明らかでした。
当時の家族は、父、母、兄、祖父、祖母そして伯母の7人。
自分も酒飲みの祖父は何も言いませんでしたが、それ以外の家族はいつも父の飲酒をなじっていました。そんな家庭の雰囲気もあって、父は家に早く帰りたくなかったのかもしれません。
私が小学校5年生のときに祖父が胃癌で亡くなってから、父の酒量はいっそう増えました。
そしてついに、銀行から業務命令で、アル中治療のための病院に強制入院させられたのです。
「これで酒がやめられなければ、君の銀行人生は終わりだ」
とまで言われたそうです。
しかし、節制は退院後1か月ほどしか続きませんでした。
銀行員の給料がどれくらいだったかわかりませんが、その多くが酒代に消えて行ったのは確かです。
小学校の3年か4年の時、兄と私は後楽園球場で巨人戦に連れて行ってもらったことがあります。ナイターの試合で、帰り道、父の行きつけのすし屋に連れていかれました。五反田の江戸虎というすし屋ですが、今検索しても出てこないので店を閉めたのでしょう。父は寅年生まれなので、この店を贔屓にしていました。
私と兄は寿司が食べられるので大喜び。父は寿司は食べず、刺身の盛り合わせをつまみにビールと日本酒(熱燗)を飲んでいました。板前にビールをごちそうしたりもしていました。
お勘定は四千円。当時、私のお小遣いが月三~四百円(学年かける百円)でしたので、四千円という金額にびっくりして、今でも記憶に残っています。
(毎日、こんなに使ってるんだ!)
ツケで飲んでいた店も多かったようです。ボーナスはほとんどツケの支払いに充てられ、残らなかった、と母が嘆いていました。
父が亡くなって何か月か経ったとき、着物姿の女性が父を訪ねてきました。飲み屋の女将でした。残っていた支払いを取り立てに来たのです。亡くなったことを伝えると、「じゃツケのお金はお香典ということにします」と言って帰って行きました。
父は48歳で食道癌が見つかりました。1年に1回健診を受けていたのに、見つかったときは末期でした。若いので進行が速かったかもしれません。2回の開腹手術の甲斐なく、最後は全身に転移し、闘病1年で亡くなりました。
長年の喫煙と飲酒によるものと思われます。
何が父を酒に向かわせたのか?
銀行という仕事が向いておらずストレスをためこんでいた?
四十九日だったか、一周忌だったか、法事の時に銀行で同期だった親友(海兵、東大出身)が線香を上げに来てくれました。当時、三井銀行の役員になっていました。
「あいつは豆腐が好きだったからね」
仏前に豆腐を供えてくれました。
「ま、銀行はそんなに甘いところじゃなかった、ていうことだ」
銀行が向いていなかったのかもしれません。
父は、大学卒業後、三井銀行以外に日本経済新聞社を受けたそうです。もしかしたら、そっちが本命だったかもしれません。社主の話を、煙草を吸いながら聞き流していたら、試験問題は「今の話を〇〇字以内でまとめよ」だった。
もし経済新聞社に入っていたら、やりがいをもって仕事に臨み、酒に溺れることはなかったんじゃないか。
家に帰ると妻や母(私の祖母)からなじられた、ということもあるでしょう。
祖母は、父の生前から、
「最高学府で経済学をやったなんて言っても、家の経済が管理できないんじゃしょうがない」
などと言っていましたし、死後は、兄や私に向かって、
「酒は飲んでも飲まれるな」
ということわざ(?)を口癖のように言い聞かせていました。
でもやっぱり、戦争が大きかったのじゃないか、と思うのです。
かっこいい兵隊さんにあこがれて、大東亜戦争開戦後に陸士に入り、一度は「本土決戦」の覚悟を決めたが、敗戦。
戦後の大学で、手のひら返しのように「民主思想」を教えられ、戦前の日本の価値観が全否定された。
自分が今まで学んだもの、信じてきたものはなんだったんだ?
国のために死んでいった友人はどうなるんだ?
すぐに頭を切り替えることができた人たちは、高度経済成長期にうまく世渡りをしましたが、父はそれができず、酩酊の世界に逃げ込んだのではないか。
村上春樹のエッセイがきっかけとなって、あらためて父とその時代を振り返ってみての、私なりの結論です。
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