写真:ユンボギこと李潤福(1990年頃)
『ユンボギが逝って―青年ユンボギと遺稿集』第3部から、ユンボギの一生を振り返ります。
ユンボギの家は6人家族。父は大邱で木工職人をしていた。
父が仕事で腰を痛めてから、仕事がうまくいかなくなり、酒を飲むようになった。酒癖が悪く、女遊びやギャンブルにも手を出して、母に暴力をふるった。母は、生活苦と父の仕打ちに我慢できず、ユンボギが小学校に入る前に家を飛び出した。末っ子のテスニは乳飲み子だった。
家賃が払えず、山羊小屋だった掘っ立て小屋に引っ越し、ユンボギと長女のスンナはガム売り、靴磨き、物乞いなどをして食いつないだ。ガムを一つ売ると5ウォン(当時のレートで約7円)、30ウォン稼げればいいほうだった。ガム売りは法律で禁止されており、市は補導班を作ってそのような子どもを捕まえ、少年補導所(日記の中では「希望園」)に収容した。ユンボギも捕まって逃げ出したことがある。
ユンボギが日記を書き始めたのは、国民学校(小学校。後の金泳三大統領の時、国民学校は日帝残滓だといって、現在の初等学校に名称変更)4年生の時。担任の柳英子(ユ・ヨンジャ)先生はクラス全員に日記をつける宿題をだした。ノートを買うお金のないユンボギに日記帳を買い与え、ときどき赤ペンでコメントを書いては、毎日日記をつけ続けるようはげました。いい内容の日記はクラスで涙ながらに読み上げ、また自宅を訪ねたり、弁当をもってこられないユンボギに自分の弁当を分けたりした。
柳英子先生がほかの教職員に日記を紹介すると、今度は金東植(キム・ドンシク)という先生がユンボギに関わるようになった。「日記」の後半には、柳先生よりも金先生への言及が増えた。
金東植はユンボギのことを東亜日報の記者に紹介し、全国版の新聞記事となった。この記事によって、ユンボギの名前は全国に知られるようになった。さらに金東植は知り合いの若い小説家、朴進錫(パク・ジンソク)に話し、ユンボギの日記を出版することを思いついた。
金東植は、『ユンボギの日記』の序文に次のように書いている。
「ユンボギ君の日記を読んでいて思い浮かんだのは、在日同胞の安本末子が書いた『にあんちゃん』のことです。ユンボギ君の日記を単行本として出版できないかと着眼するにいたったのです」
出版を伝える東亜日報の記事は次の通り。
「物乞いと行商で、生活力を失った父と幼い弟妹の世話をしながら学業を続けた五年生の涙ぐましい韓国版「にあんちゃん」、『あの空にも悲しみが』という本が日の目を見た。
大邱明徳国民学校五年イ・ユンボク君は、父親の李正煕が事業に失敗、家の財産を使い果たすや、家庭不和のまま母親が家出、父親は病気で床に伏すようになったため、苦難の道に入った。
同君は働くことができない父親のかわりにガムを売りに市内の喫茶店をまわり、安いうどんを買っては父親と幼い弟妹に与え、収入のない日にはブリキ缶を持って物乞いをしながらも学業にはげんだ…」
本は、当時としては記録的なベストセラーとなり、ユンボギは中学進学時に印税として27万ウォン(約38万円)を受け取った。このお金は、ユンボギが高校を卒業するまで、学校の「奨学金管理委員会」に預けられ、ユンボギはその利子を毎月6,750ウォン(1万円)のみ支給された。学費は免除されていたので、そのお金は家族5人の生活費として使われた。
そして、彼は「模範青少年全国代表」に選ばれ、青瓦台(大統領官邸)で朴正煕大統領に面会した。
つづいて「ユンボギの日記」は映画化され、大ヒットした。映画の原作料としてユンボギは12万ウォンを受け取り、そのお金で家を一軒購入することができた。
しかし、映画の公開はいいことばかりではなかった。父親は、酔いどれの自分の姿がそのまま描かれたため息子を恨み、ユンボギ自身も傷ついた。また、恩師の柳英子先生が実際とは違って冷たく恐い先生として描かれ、ユンボギは申し訳なく思った。それとは対照的に、金東植先生のほうは実際以上に情の深い献身的な先生として描かれていた。
行方不明だった母は新聞記者たちが所在を調べ、ユンボギが知る前に記事になった。母は別の場所で新生活を始め、息子までもうけていたのである。ユンボギは失望したが、その後も父の目を盗んで定期的に母に会いに行き、父が何日も家を空けるとき、母は自宅に来て過ごすこともあった。後年、ユンボギが高校を卒業し、大学進学のために考試院(受験勉強のための下宿)に住むときは、母といっしょに暮らした。
ユンボギが中学に進む準備をしているころ、池仁淑(チ・インスク)という女性が突然訪ねてきた。彼女は熱心なクリスチャンで「ユンボギの日記」に感動して、ユンボギのお姉さんになってあげたいと思い、ユンボギの父親の許可を得て同居するようになった。しかし、父が酒を飲んだりギャンブルをしたりするとそれを批判し、言い争いになった。 池仁淑は6か月ほどで出ていくことになる。
中学時代、日本で翻訳出版された日記を読んだ在日コリアンから、日本に招いて大学卒業まで面倒を見てあげるという申し出があったが、父や弟妹を残して日本に行くわけにはいかないと言って断った。
中学時代、利子として毎月もらっていたお金はすべて家族の食費に使い、ユンボギは相変わらず弁当を持っていくことができず、昼ごはん抜きの生活だった。ユンボギは高校に進むときも、希望していた高校ではなく、奨学金がもらえる別の高校に進学せざるをえなかった。
高校時代のユンボギは、政府が進めたMRA(道徳再武装運動)に参加した。ユンボギの名を世に知らしめるきっかけを作った金東植先生の勧めによるものだった。しかし、さまざまな理由でユンボギと金東植の関係は疎遠になっていった。
ユンボギは1972年に高校を卒業する。高校までは、奨学金のおかげで通うことができたが、大学だけは他人の助力なしに行きたいと思った。しかし、家計の状態はそれを許さなかった。
「奨学金管理委員会」からは『ユンボギの日記』の印税の元本、27万ウォンが返還された。しかしそれまでに溜まっていた借金10万ウォンを返すと17万ウォンしか残らなかった。彼はこのお金で大邱からソウルに出て、小さな部屋を借り、受験勉強をすることになった。
母はそれに合わせて上京し、ユンボギが勉学に専念できるようにと、小さな店を出したが店はうまくいかなかった。ユンボギは勉強を中断し、金物屋を皮切りに、小学生相手の塾、本の行商など、さまざまな仕事をした。高卒の学歴しかないユンボギは、ちゃんとした会社の正社員になることはできなかった。
ユンボギは「ユンボギの日記」の主人公であるという身分を隠していた。いつまでも「ガム売りの少年」というイメージをもたれるのが嫌だったからである。ある市場関係者が、市場の中の店舗をユンボギに任せると言ってきた。ただし「ユンボギの日記の主人公がこの市場で働いている」ということを市場の宣伝に使うことが条件だった。ユンボギはその申し出を断った。
ユンボギが本の行商から野菜と魚の行商に商売替えし、母親にリヤカーを押してもらいながら、生活が安定しかけたとき、「入営令状」(徴兵通知)が届いた。彼は大学進学をあきらめ、大邱に戻って入営までの間、靴下を売り歩くなどして家族の生活を支えた。弟のユンシギにはそんな苦労をさせまいと学費を作ってやり、ユンシギは大学に進むことができた。
3年間の軍隊生活を終え、除隊後に就職活動をしたがよい就職先が見つからなかった。友人は履歴書に「ユンボギの日記の主人公だ」と書くよう勧めたが、彼はそうしたくなかった。
やっと見つけた就職先が栗山(ユルサン)アルミニウム。しかし放漫経営のため財閥企業に吸収され、社員は解雇された。次に就職したのが小さな建設会社だったが、不正工事のため倒産。ついに、映画の原作料で購入した家も手放した。
失業中に出会ったのが李炳淑(イ・ビョンスク)。友人の紹介で出会い、結婚の約束をするようになった。李炳淑は、彼があの有名なユンボギとは知らずにつきあい始めたが、あとで周囲の人からそのことを知り、びっくりしたという。
反対する李炳淑の両親を説得し、部屋を一つ借りて暮らし始めた。しばらくして長女のカヨンが生まれた。妻子を養うため、土方、靴の行商などをしたのち、妻の親戚筋の紹介で、柳韓キンバリーという製紙会社(トイレットペーパーの製造販売)で働くことになり、これが最後の職場となった。
彼はトイレットペーパーをリヤカーに積み、車の入れない路地を回ることで業績をあげた。会社側は「自社製品をリヤカーで売るのはみっともない」と言われたが、彼が「日記」の著者であることがわかってから一目置くようになり、彼の努力を認めて、最初は大邱支社に、のちにソウル本社への発令を受けた。
このころから、日本語版の印税もわずかながら受け取ることができるようになり、ユンボギの生活は安定した。娘はすでに三歳だったが、遅ればせの結婚式をあげることができた。
しかし、激務がたたって慢性肝炎が悪化、ユンボギは妻と二人の幼い子どもを残して、38歳で亡くなった。
中学時代、日本で翻訳出版された日記を読んだ在日コリアンから、日本に招いて大学卒業まで面倒を見てあげるという申し出があったが、父や弟妹を残して日本に行くわけにはいかないと言って断った。
中学時代、利子として毎月もらっていたお金はすべて家族の食費に使い、ユンボギは相変わらず弁当を持っていくことができず、昼ごはん抜きの生活だった。ユンボギは高校に進むときも、希望していた高校ではなく、奨学金がもらえる別の高校に進学せざるをえなかった。
高校時代のユンボギは、政府が進めたMRA(道徳再武装運動)に参加した。ユンボギの名を世に知らしめるきっかけを作った金東植先生の勧めによるものだった。しかし、さまざまな理由でユンボギと金東植の関係は疎遠になっていった。
ユンボギは1972年に高校を卒業する。高校までは、奨学金のおかげで通うことができたが、大学だけは他人の助力なしに行きたいと思った。しかし、家計の状態はそれを許さなかった。
「奨学金管理委員会」からは『ユンボギの日記』の印税の元本、27万ウォンが返還された。しかしそれまでに溜まっていた借金10万ウォンを返すと17万ウォンしか残らなかった。彼はこのお金で大邱からソウルに出て、小さな部屋を借り、受験勉強をすることになった。
母はそれに合わせて上京し、ユンボギが勉学に専念できるようにと、小さな店を出したが店はうまくいかなかった。ユンボギは勉強を中断し、金物屋を皮切りに、小学生相手の塾、本の行商など、さまざまな仕事をした。高卒の学歴しかないユンボギは、ちゃんとした会社の正社員になることはできなかった。
ユンボギは「ユンボギの日記」の主人公であるという身分を隠していた。いつまでも「ガム売りの少年」というイメージをもたれるのが嫌だったからである。ある市場関係者が、市場の中の店舗をユンボギに任せると言ってきた。ただし「ユンボギの日記の主人公がこの市場で働いている」ということを市場の宣伝に使うことが条件だった。ユンボギはその申し出を断った。
ユンボギが本の行商から野菜と魚の行商に商売替えし、母親にリヤカーを押してもらいながら、生活が安定しかけたとき、「入営令状」(徴兵通知)が届いた。彼は大学進学をあきらめ、大邱に戻って入営までの間、靴下を売り歩くなどして家族の生活を支えた。弟のユンシギにはそんな苦労をさせまいと学費を作ってやり、ユンシギは大学に進むことができた。
3年間の軍隊生活を終え、除隊後に就職活動をしたがよい就職先が見つからなかった。友人は履歴書に「ユンボギの日記の主人公だ」と書くよう勧めたが、彼はそうしたくなかった。
やっと見つけた就職先が栗山(ユルサン)アルミニウム。しかし放漫経営のため財閥企業に吸収され、社員は解雇された。次に就職したのが小さな建設会社だったが、不正工事のため倒産。ついに、映画の原作料で購入した家も手放した。
失業中に出会ったのが李炳淑(イ・ビョンスク)。友人の紹介で出会い、結婚の約束をするようになった。李炳淑は、彼があの有名なユンボギとは知らずにつきあい始めたが、あとで周囲の人からそのことを知り、びっくりしたという。
反対する李炳淑の両親を説得し、部屋を一つ借りて暮らし始めた。しばらくして長女のカヨンが生まれた。妻子を養うため、土方、靴の行商などをしたのち、妻の親戚筋の紹介で、柳韓キンバリーという製紙会社(トイレットペーパーの製造販売)で働くことになり、これが最後の職場となった。
彼はトイレットペーパーをリヤカーに積み、車の入れない路地を回ることで業績をあげた。会社側は「自社製品をリヤカーで売るのはみっともない」と言われたが、彼が「日記」の著者であることがわかってから一目置くようになり、彼の努力を認めて、最初は大邱支社に、のちにソウル本社への発令を受けた。
このころから、日本語版の印税もわずかながら受け取ることができるようになり、ユンボギの生活は安定した。娘はすでに三歳だったが、遅ればせの結婚式をあげることができた。
しかし、激務がたたって慢性肝炎が悪化、ユンボギは妻と二人の幼い子どもを残して、38歳で亡くなった。
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