少し前にご紹介した小説『パチンコ』は、1910年から1989年までの朝鮮半島と日本が舞台になっています。
小説の中には、日韓間の歴史的事件がたくさん出てきます。それについて私は「重大な事実誤認は見当たらなかった」と書きました。これは裏を返せば、軽微な事実誤認はある、ということです。
以下に、私が「?」と思った点について、挙げてみたいと思います。
『パチンコ』の著者、イ・ミンジン女史は、8歳のときに米国に移民したそうですから、教育はほとんど米国で受けたはずです。韓国語はしゃべれるかもしれませんが、読むのは難しいでしょうから、韓国の歴史は、もっぱら英語で書かれた歴史書で勉強したのでしょう。2007年から夫の仕事の都合で日本に住み、在日コリアンへの取材を行っていますので、おそらくは通訳を通して、在日コリアンの間で信じられている「日韓の歴史」に接する機会もあったでしょう。
米国の韓国人コミュニティーで、どのような歴史教育が行われていたかはよくわかりません。一般に、韓国では、主に国定教科書によって、日本が朝鮮半島を支配していた時代のことを教えられます。
日本が支配した時代を日帝時代とか、日帝強占期といいますが、その時期に、日本は韓国から7つのものが奪ったといわれます(七奪)。
その7つというのは、国王、国土、耕地、国語、名前、国民、生命。
具体的に言えば、
国王:大韓帝国の国王を廃位し、
国土:日韓併合条約によって国土を併合し、
耕地:土地調査事業にによって耕地を奪い、
国語:教育を日本語で行うことによって国語(韓国語)を奪い、
名前:創氏改名によって名前を奪い、
国民:徴用によって男性の労働力を奪い、従軍慰安婦制度によって女性を性奴隷にし、
生命:虐殺や徴兵などによって生命を奪った、
ということになっています。
これ以外にも、「産米増殖計画」によって米を奪い、森林を伐採し、史書を略奪・焼却し、神社参拝強制によって信教の自由を奪ったなどと言われます。
では、これらの歴史が『パチンコ』ではどのように描かれているでしょうか。
主人公のヤンジンの父親は、釜山の南、影島の農民でしたが、1911年より少し前に行われた「土地調査」の結果、小作権を失ったそうです。(上巻13ページ)
また、ヤンジンの娘のソンジャと結婚するパク・イサクの実家は平壌の地主でしたが、日本から課された税金のため、土地を手放したそうです。
地主の多くは、日本から新たに課された税金を払いきれなくて土地を手放している。(上巻137ページ)
新たな土地調査後に課せられた税金を納めるため、イサクの両親でさえ所有する土地の一部を切り売りしなくてはならなかった。(上巻160ページ)
「土地調査事業」は、日本が大韓帝国を併合した後の1910年から18年にかけて実施されたもので、小作農から小作料を徴収して租税を払っていた地主に土地の所有権を認め、その結果、小作料が払えなくなった小作農が小作権を失うケースが出てきました。『パチンコ』の記述は、そのあたりの事情を描いています。しかし、税金に関しては、調査事業後の税率がそれ以前に比べて必ずしも高くなったわけではない、という研究もあり、地主が土地を手放した理由を「日本による重税」とするのは不正確です。土地調査事業については、以前このブログで書いたことがあります(リンク)。
小説に出てくる石炭売りのチュンは、1932年頃に、次のように話します。
「ヒロヒトって輩はこの国を乗っ取った。一番いい土地、米、魚を盗んだ。そのうえ今度は若い連中まで盗んでいこうとしてる」(上巻34ページ)
これは、日韓併合、「土地調査事業」による土地の収奪、「産米増殖計画」による米の移出、「徴用令」による労務動員などを指すと思われます。
土地の収奪については、先のリンク先にある通り、調査事業によって必ずしも「土地収奪」が行われたわけではありませんでした。
「米」についてはどうでしょうか。
日本は、1919年、コメ不足と米価暴騰による米騒動を受けて、朝鮮で米を増産することを計画しました(産米増殖計画)。1920年から30年計画で土地改良と米の増産を行いましたが、安い朝鮮米の移入は日本国内の米価暴落と農村恐慌をもたらすとして、日本の政治家の反対にあい、34年に計画打ち切りが決まりました。その間、朝鮮米は日本に移入(国内間移動なので輸入とは言わず移入という)されましたが、これは農家から相場価格で買い上げられたもので、対価なしに「盗まれた」ものではありませんでした。この移入により、朝鮮の地主と輸出業者は大きな利益を上げ、その資金は、朝鮮の国内産業発展に貢献しました。この辺りの事情は、以下の記事で読むことができます。
日帝時代の検証~食料収奪①
日帝時代の検証~食料収奪②
日帝時代の検証~土地収奪③
日帝時代の検証~食料収奪④
労務動員に関していえば、次のような記述もあります。これもやはり、1932年のことです。
(イサクが、ソンジャの妊娠の話を聞いて)子供の父親は日本の炭鉱や工場で働いていて不在なのだろうと想像するのは自然なことだった。(上巻86ページ)
日本では、太平洋戦争期に多くの男性が徴兵され、内地の労働者が不足したため、1939年以降、朝鮮半島からの労働力の導入を図り、民間による募集、官斡旋による募集を経て、44年から徴用による動員が行われました。これらはいずれも戦争が激しくなった時期のことであり、それ以前には、朝鮮半島から日本への就労目的の渡航は制限されていました。したがって、日本への労務動員が、「1932年」に朝鮮半島で話題にのぼることはなかったはずです。
また、ヒロヒト(昭和天皇)は、1926年に25歳で即位し、32年は31歳。1910年の日韓併合や1910~1918年の土地調査事業を、ヒロヒトに結びつけるのは無理があります。
次にいわゆる従軍慰安婦。
これも、1932年のハンスの話として、次のようなことが語られます。
「近ごろ、彼らは若い娘を探しているようだ。総督府の話だよ。若い女性を中国に連れて行って兵士の相手をさせるんだ。誰かに誘われても、絶対ついていってはいけない。声をかけてくるのはおそらく朝鮮人だ。男のこともあれば、女のこともある。中国や日本でいい仕事を紹介すると言ってくる。きみの知り合いのこともあるかもしれない」(上巻51ページ)
総督府が、若い女性を軍慰安婦に連れて行くという内容です。韓国では「強制連行」が行われたと信じられていますが、研究によれば、軍や官憲による強制連行の証拠は今のところ見つかっていません。上の記述は、慰安婦の募集が女衒(多くは朝鮮人)による就職詐欺の形で行われたことを正しく書いています。しかし、そのような募集が朝鮮半島で行われたのは主に1930年代後半以降であり、1932年という早い時期に、朝鮮半島でそうした事例が噂になるということはありえません。
さらに294ページには、1944年の釜山の状況として、
「小さな村から大勢の女たちが連れ去られている」
と書かれています。慰安婦強制連行を連想させますが、これまでの研究で、「小さな村から大勢の女たちが連れ去られる」事例は見つかっていません。
1933年、パク・イサクと妻のキム・ソンジャは大阪に渡ります。
総督府の方針で、朝鮮人はみな少なくとも二つか三つの名前を持っているのが普通だったが、釜山にいたころ、ソンジャが身分証明書に記載された日本式の通名-金田宣子-を使ったことはほとんどなかった。ソンジャは学校に通っておらず、公的な書類が必要になる場面もめったになかった。ソンジャの姓はキムだが、妻が夫の姓を名乗ることの多い日本ではパク・ソンジャと呼ばれ、これを日本式に読むとボク・ノブコとなる。そして身分証明書上の通名は坂東宣子だった。朝鮮の人々がそれまでの姓を日本式の氏に変えるよう強制されたとき、イサクの父は「坂東」を選んだ。朝鮮語の「反対」と音が似ているからで、押し付けられた日本名にちょっとした皮肉を込めていたわけだ。
これは、総督府が朝鮮人(朝鮮半島在住)に対して行った「創氏改名」を指せていると思われます。韓国人は、これをもって「名前が奪われた」と言います。朝鮮の制度では、女性は結婚しても男性の家系に入ることは許されず、姓はそのままでした(現代韓国でもそうです)。一方、日本の家制度では、結婚によって女性は男性の戸籍に入り、女性は男性の氏を名乗ります。この制度を朝鮮にも導入しようとしたのが「創氏改名」です。これにより、朝鮮で朝鮮人は、本来の姓とは別に、家の名である氏(名字)を創ることが義務づけられました。もともと総督府の警察は、朝鮮人と内地人(日本人)の区別がつきにくくなるとして、この制度の導入に反対しており、朝鮮半島で朝鮮人が日本式の「通名」を名乗ることも禁止されていました。一方、内地では朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人が、差別を避けるため、また商売上都合がいいなどの理由で、通名を名乗ることが多かった。そして総督府は、内鮮一体政策を推し進めるために警察の反対を押し切って、創氏改名を実施しました。
上の文章では、1932年以前に、夫のパク・イサク(当時平壌在住)は「姓を日本式の氏に変えるよう強制され、イサクの父は「坂東」を選んだ」ことになっており、釜山にいたキッム・ソンジャは身分証明書に「金田宣子」という名が記載されていたということになっています。
しかし、上記の創氏改名が行わたのは1940年であり、1932年に朝鮮半島の人々が日本式の氏を名乗ることを強制されたということはありえません。逆に、朝鮮半島の人々が日本式の通名を名乗ることは禁じられていたのです。
創氏改名については以下を参照。
創氏改名①
創氏改名②
次に宗教弾圧について。
1939年の大阪で、長老派キリスト教徒のイサクと同じ教会のフーという朝鮮人が警察官に尋問され、「神社参拝は偶像崇拝に当たるから、自分は二度と参加しない」と答えたために連行されたとき、イサクはもう一人の牧師とともにフーを弁護したところ、この二人も拘留されてしまいました。
3人は1942年まで3年間、拘留され、2人は獄死、イサクは瀕死の状態で自宅に帰された後死亡します。
(ソンジャは、イサクが通っている)教会の古参信者から、逮捕された朝鮮人が家に帰されるのは、たいがい余命わずかになってからだと聞いていた。留置場で死なれては面倒だからだ。逮捕者は暴行を受け、食べ物を与えられず、服も取り上げられて、体力を失っていく。(上巻264ページ)
この問題について私は知識がないので、ネットを調べたところ、朝鮮長老派教会の牧師、朱基徹(チュ・キチョル、1897~1944年)が神社参拝を拒否し、5度の刑務所行きの末に平壌刑務所で獄死したという事件を見つけました。
しかし、日本で朝鮮人のキリスト教信徒が参拝拒否で逮捕、暴行、虐待を受けて獄死したという事例は見つかりませんでした。
日本で長老派の流れをくむ日本基督教会は、国民儀礼として神社参拝を許容していましたが、朝鮮の長老派は偶像崇拝と見なして神社参拝を行わなかったため、1938年、日本基督教会の富田満が朝鮮に行き、朝鮮の長老派に対して神社参拝を行うよう説得したこともあるようです。
『パチンコ』に描かれている獄死事件は、実際の事件を根拠にしているのではなく、小説の中の架空の事件と思われます。
以上、小説『パチンコ』の中の歴史的事件について、検証してきました。多くの出来事は史実を反映していますが、特に、それが起こった時期については、実際とは異なっているケースが散見されます。
著者、李ミンジン氏が調べた資料にそう書かれていたのかもしれませんし、小説の中の都合で、事実と違うことを承知で、そのように記述したのかもしれません。
しかし、英語版を読んだアメリカの読者が、この小説の中の記述を史実として受け止めるなら、それは困ったことです。
小説の中には、日韓間の歴史的事件がたくさん出てきます。それについて私は「重大な事実誤認は見当たらなかった」と書きました。これは裏を返せば、軽微な事実誤認はある、ということです。
以下に、私が「?」と思った点について、挙げてみたいと思います。
『パチンコ』の著者、イ・ミンジン女史は、8歳のときに米国に移民したそうですから、教育はほとんど米国で受けたはずです。韓国語はしゃべれるかもしれませんが、読むのは難しいでしょうから、韓国の歴史は、もっぱら英語で書かれた歴史書で勉強したのでしょう。2007年から夫の仕事の都合で日本に住み、在日コリアンへの取材を行っていますので、おそらくは通訳を通して、在日コリアンの間で信じられている「日韓の歴史」に接する機会もあったでしょう。
米国の韓国人コミュニティーで、どのような歴史教育が行われていたかはよくわかりません。一般に、韓国では、主に国定教科書によって、日本が朝鮮半島を支配していた時代のことを教えられます。
日本が支配した時代を日帝時代とか、日帝強占期といいますが、その時期に、日本は韓国から7つのものが奪ったといわれます(七奪)。
その7つというのは、国王、国土、耕地、国語、名前、国民、生命。
具体的に言えば、
国王:大韓帝国の国王を廃位し、
国土:日韓併合条約によって国土を併合し、
耕地:土地調査事業にによって耕地を奪い、
国語:教育を日本語で行うことによって国語(韓国語)を奪い、
名前:創氏改名によって名前を奪い、
国民:徴用によって男性の労働力を奪い、従軍慰安婦制度によって女性を性奴隷にし、
生命:虐殺や徴兵などによって生命を奪った、
ということになっています。
これ以外にも、「産米増殖計画」によって米を奪い、森林を伐採し、史書を略奪・焼却し、神社参拝強制によって信教の自由を奪ったなどと言われます。
では、これらの歴史が『パチンコ』ではどのように描かれているでしょうか。
主人公のヤンジンの父親は、釜山の南、影島の農民でしたが、1911年より少し前に行われた「土地調査」の結果、小作権を失ったそうです。(上巻13ページ)
また、ヤンジンの娘のソンジャと結婚するパク・イサクの実家は平壌の地主でしたが、日本から課された税金のため、土地を手放したそうです。
地主の多くは、日本から新たに課された税金を払いきれなくて土地を手放している。(上巻137ページ)
新たな土地調査後に課せられた税金を納めるため、イサクの両親でさえ所有する土地の一部を切り売りしなくてはならなかった。(上巻160ページ)
「土地調査事業」は、日本が大韓帝国を併合した後の1910年から18年にかけて実施されたもので、小作農から小作料を徴収して租税を払っていた地主に土地の所有権を認め、その結果、小作料が払えなくなった小作農が小作権を失うケースが出てきました。『パチンコ』の記述は、そのあたりの事情を描いています。しかし、税金に関しては、調査事業後の税率がそれ以前に比べて必ずしも高くなったわけではない、という研究もあり、地主が土地を手放した理由を「日本による重税」とするのは不正確です。土地調査事業については、以前このブログで書いたことがあります(リンク)。
小説に出てくる石炭売りのチュンは、1932年頃に、次のように話します。
「ヒロヒトって輩はこの国を乗っ取った。一番いい土地、米、魚を盗んだ。そのうえ今度は若い連中まで盗んでいこうとしてる」(上巻34ページ)
これは、日韓併合、「土地調査事業」による土地の収奪、「産米増殖計画」による米の移出、「徴用令」による労務動員などを指すと思われます。
土地の収奪については、先のリンク先にある通り、調査事業によって必ずしも「土地収奪」が行われたわけではありませんでした。
「米」についてはどうでしょうか。
日本は、1919年、コメ不足と米価暴騰による米騒動を受けて、朝鮮で米を増産することを計画しました(産米増殖計画)。1920年から30年計画で土地改良と米の増産を行いましたが、安い朝鮮米の移入は日本国内の米価暴落と農村恐慌をもたらすとして、日本の政治家の反対にあい、34年に計画打ち切りが決まりました。その間、朝鮮米は日本に移入(国内間移動なので輸入とは言わず移入という)されましたが、これは農家から相場価格で買い上げられたもので、対価なしに「盗まれた」ものではありませんでした。この移入により、朝鮮の地主と輸出業者は大きな利益を上げ、その資金は、朝鮮の国内産業発展に貢献しました。この辺りの事情は、以下の記事で読むことができます。
日帝時代の検証~食料収奪①
日帝時代の検証~食料収奪②
日帝時代の検証~土地収奪③
日帝時代の検証~食料収奪④
労務動員に関していえば、次のような記述もあります。これもやはり、1932年のことです。
(イサクが、ソンジャの妊娠の話を聞いて)子供の父親は日本の炭鉱や工場で働いていて不在なのだろうと想像するのは自然なことだった。(上巻86ページ)
日本では、太平洋戦争期に多くの男性が徴兵され、内地の労働者が不足したため、1939年以降、朝鮮半島からの労働力の導入を図り、民間による募集、官斡旋による募集を経て、44年から徴用による動員が行われました。これらはいずれも戦争が激しくなった時期のことであり、それ以前には、朝鮮半島から日本への就労目的の渡航は制限されていました。したがって、日本への労務動員が、「1932年」に朝鮮半島で話題にのぼることはなかったはずです。
また、ヒロヒト(昭和天皇)は、1926年に25歳で即位し、32年は31歳。1910年の日韓併合や1910~1918年の土地調査事業を、ヒロヒトに結びつけるのは無理があります。
次にいわゆる従軍慰安婦。
これも、1932年のハンスの話として、次のようなことが語られます。
「近ごろ、彼らは若い娘を探しているようだ。総督府の話だよ。若い女性を中国に連れて行って兵士の相手をさせるんだ。誰かに誘われても、絶対ついていってはいけない。声をかけてくるのはおそらく朝鮮人だ。男のこともあれば、女のこともある。中国や日本でいい仕事を紹介すると言ってくる。きみの知り合いのこともあるかもしれない」(上巻51ページ)
総督府が、若い女性を軍慰安婦に連れて行くという内容です。韓国では「強制連行」が行われたと信じられていますが、研究によれば、軍や官憲による強制連行の証拠は今のところ見つかっていません。上の記述は、慰安婦の募集が女衒(多くは朝鮮人)による就職詐欺の形で行われたことを正しく書いています。しかし、そのような募集が朝鮮半島で行われたのは主に1930年代後半以降であり、1932年という早い時期に、朝鮮半島でそうした事例が噂になるということはありえません。
さらに294ページには、1944年の釜山の状況として、
「小さな村から大勢の女たちが連れ去られている」
と書かれています。慰安婦強制連行を連想させますが、これまでの研究で、「小さな村から大勢の女たちが連れ去られる」事例は見つかっていません。
1933年、パク・イサクと妻のキム・ソンジャは大阪に渡ります。
総督府の方針で、朝鮮人はみな少なくとも二つか三つの名前を持っているのが普通だったが、釜山にいたころ、ソンジャが身分証明書に記載された日本式の通名-金田宣子-を使ったことはほとんどなかった。ソンジャは学校に通っておらず、公的な書類が必要になる場面もめったになかった。ソンジャの姓はキムだが、妻が夫の姓を名乗ることの多い日本ではパク・ソンジャと呼ばれ、これを日本式に読むとボク・ノブコとなる。そして身分証明書上の通名は坂東宣子だった。朝鮮の人々がそれまでの姓を日本式の氏に変えるよう強制されたとき、イサクの父は「坂東」を選んだ。朝鮮語の「反対」と音が似ているからで、押し付けられた日本名にちょっとした皮肉を込めていたわけだ。
これは、総督府が朝鮮人(朝鮮半島在住)に対して行った「創氏改名」を指せていると思われます。韓国人は、これをもって「名前が奪われた」と言います。朝鮮の制度では、女性は結婚しても男性の家系に入ることは許されず、姓はそのままでした(現代韓国でもそうです)。一方、日本の家制度では、結婚によって女性は男性の戸籍に入り、女性は男性の氏を名乗ります。この制度を朝鮮にも導入しようとしたのが「創氏改名」です。これにより、朝鮮で朝鮮人は、本来の姓とは別に、家の名である氏(名字)を創ることが義務づけられました。もともと総督府の警察は、朝鮮人と内地人(日本人)の区別がつきにくくなるとして、この制度の導入に反対しており、朝鮮半島で朝鮮人が日本式の「通名」を名乗ることも禁止されていました。一方、内地では朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人が、差別を避けるため、また商売上都合がいいなどの理由で、通名を名乗ることが多かった。そして総督府は、内鮮一体政策を推し進めるために警察の反対を押し切って、創氏改名を実施しました。
上の文章では、1932年以前に、夫のパク・イサク(当時平壌在住)は「姓を日本式の氏に変えるよう強制され、イサクの父は「坂東」を選んだ」ことになっており、釜山にいたキッム・ソンジャは身分証明書に「金田宣子」という名が記載されていたということになっています。
しかし、上記の創氏改名が行わたのは1940年であり、1932年に朝鮮半島の人々が日本式の氏を名乗ることを強制されたということはありえません。逆に、朝鮮半島の人々が日本式の通名を名乗ることは禁じられていたのです。
創氏改名については以下を参照。
創氏改名①
創氏改名②
次に宗教弾圧について。
1939年の大阪で、長老派キリスト教徒のイサクと同じ教会のフーという朝鮮人が警察官に尋問され、「神社参拝は偶像崇拝に当たるから、自分は二度と参加しない」と答えたために連行されたとき、イサクはもう一人の牧師とともにフーを弁護したところ、この二人も拘留されてしまいました。
3人は1942年まで3年間、拘留され、2人は獄死、イサクは瀕死の状態で自宅に帰された後死亡します。
(ソンジャは、イサクが通っている)教会の古参信者から、逮捕された朝鮮人が家に帰されるのは、たいがい余命わずかになってからだと聞いていた。留置場で死なれては面倒だからだ。逮捕者は暴行を受け、食べ物を与えられず、服も取り上げられて、体力を失っていく。(上巻264ページ)
この問題について私は知識がないので、ネットを調べたところ、朝鮮長老派教会の牧師、朱基徹(チュ・キチョル、1897~1944年)が神社参拝を拒否し、5度の刑務所行きの末に平壌刑務所で獄死したという事件を見つけました。
しかし、日本で朝鮮人のキリスト教信徒が参拝拒否で逮捕、暴行、虐待を受けて獄死したという事例は見つかりませんでした。
日本で長老派の流れをくむ日本基督教会は、国民儀礼として神社参拝を許容していましたが、朝鮮の長老派は偶像崇拝と見なして神社参拝を行わなかったため、1938年、日本基督教会の富田満が朝鮮に行き、朝鮮の長老派に対して神社参拝を行うよう説得したこともあるようです。
『パチンコ』に描かれている獄死事件は、実際の事件を根拠にしているのではなく、小説の中の架空の事件と思われます。
以上、小説『パチンコ』の中の歴史的事件について、検証してきました。多くの出来事は史実を反映していますが、特に、それが起こった時期については、実際とは異なっているケースが散見されます。
著者、李ミンジン氏が調べた資料にそう書かれていたのかもしれませんし、小説の中の都合で、事実と違うことを承知で、そのように記述したのかもしれません。
しかし、英語版を読んだアメリカの読者が、この小説の中の記述を史実として受け止めるなら、それは困ったことです。
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