コロナの影響で、長らく再放送を流していたNHKの朝ドラ「エール」が、9月中旬から再開されました。
私もコロナの影響で自宅でのリモートワークが多いおかげで、朝ドラをリアルタイムで見ることができます。
ドラマの時代背景は、日本が日中戦から太平洋戦争に突入していく頃。社会全体が急速に戦時色を強め、主人公の周囲の人々にも次々に召集令状が届きます。妻の音も「音楽挺身隊」で活動したりしました。
当時、国家総動員体制で、男は戦争へ、女は挺身隊へと駆り出されていたのですね。
モデルになった夫婦(古関裕而、金子)はともに明治生まれですから、私の両親より1世代上。
私の父は、大正15年生まれで、日中戦争が始まった昭和12年はまだ旧制の中学生。軍人にあこがれ、中学を卒業すると陸軍士官学校(予科)に進学。戦況悪化により予科を繰り上げ卒業して本科に進んだところで終戦を迎えたので、外地への出征はしませんでした。
父の家族が当時住んでいたのは、東京の神楽坂。母(私の祖母)が洋品店を営むも、戦時統制で衣服が配給制となって商売が続けられず、店を畳んで郊外(今の大田区。当時は畑だらけだったらしい)に転居。そのおかげで戦災を免れました。
父の3つ上の姉(私の伯母)は、戦争中に女学校を卒業しましたが、大学に進むような状況になく、裁縫などを習っていました。そして「女子勤労挺身隊」に動員され、そこで軍服を縫ったりしていたそうです。
一方、私の母の実家は東京の目黒。昭和5年生まれで、戦争中は実業系の学校に通っていたそうです。しかし、「挺身隊」への動員で、学校ではほとんど勉強することなく、武器の部品などの工場で働いていたとのこと。
昭和20年の東京空襲で、母の実家は全焼。逃げまどったすえ、横浜の親戚宅で終戦を迎えたそうです。
以上が、わが家と「挺身隊」の関わりです。あの戦争で、家族の誰一人、死ななかったのは幸運と言えるでしょう。
「挺身隊」と言われてもう一つ思い浮かぶのは、韓国です。
韓国では、長らく挺身隊と慰安婦が混同されていました。いわゆる「従軍慰安婦」を告発する市民団体も、長い間、挺身隊問題対策協議会(挺対協)を名乗っていました。
戦争当時、日本の一部だった朝鮮半島にもいろいろな戦時動員がありました。一つは、今、「徴用工裁判」として日韓の外交問題になっている労務動員です。
「女子挺身隊」も、終戦間際の朝鮮半島で組織され、内地よりも低年齢の女子生徒が工場へ動員されました。
そして戦後、いつのころか「女子挺身隊の名のもとに動員され、慰安婦にさせられた少女がたくさんいる」という噂が流れ始め、ついに教科書に載るまでになってしまいまいした。
1990年代に慰安婦問題が勃発した時、「慰安婦」と「挺身隊」は別物であるという指摘がなされ、韓国政府もその事実を認めましたが、件の市民団体は指摘を受けても名称を変更しようとしませんでした。
私は、「挺身隊」には国民学校に通っていた少女というイメージがあり、「そんな少女を慰安婦にした日本の残虐性」を印象づけるために、あえて名称変更をしないのではないか、と疑っていました。
〈参考〉慰安婦と挺身隊(リンク)
2018年、挺対協は組織の名称を「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)へと改めました。これは、日本の軍慰安婦制度の残虐性をいっそう際立たせるためです。報道に寄れば、「性奴隷」という言葉を、当事者である元慰安婦たちは嫌っていたとのことですが、市民団体の主な収益源である募金を集めやすくするために、あえてこの名前を使ったと言われています。
この団体の代表を10年以上務めた尹美香(ユン・ミヒャン)は、今年、国会議員に当選後、寄付金の横領疑惑が噴出し、取り調べを受けましたが、国会議員の不逮捕特権があるため逮捕を免れ、その後も文在寅反日政権の庇護のもと、捜査は遅々として進んでいません。
さっさと逮捕してほしいものです。
私もコロナの影響で自宅でのリモートワークが多いおかげで、朝ドラをリアルタイムで見ることができます。
ドラマの時代背景は、日本が日中戦から太平洋戦争に突入していく頃。社会全体が急速に戦時色を強め、主人公の周囲の人々にも次々に召集令状が届きます。妻の音も「音楽挺身隊」で活動したりしました。
当時、国家総動員体制で、男は戦争へ、女は挺身隊へと駆り出されていたのですね。
モデルになった夫婦(古関裕而、金子)はともに明治生まれですから、私の両親より1世代上。
私の父は、大正15年生まれで、日中戦争が始まった昭和12年はまだ旧制の中学生。軍人にあこがれ、中学を卒業すると陸軍士官学校(予科)に進学。戦況悪化により予科を繰り上げ卒業して本科に進んだところで終戦を迎えたので、外地への出征はしませんでした。
父の家族が当時住んでいたのは、東京の神楽坂。母(私の祖母)が洋品店を営むも、戦時統制で衣服が配給制となって商売が続けられず、店を畳んで郊外(今の大田区。当時は畑だらけだったらしい)に転居。そのおかげで戦災を免れました。
父の3つ上の姉(私の伯母)は、戦争中に女学校を卒業しましたが、大学に進むような状況になく、裁縫などを習っていました。そして「女子勤労挺身隊」に動員され、そこで軍服を縫ったりしていたそうです。
一方、私の母の実家は東京の目黒。昭和5年生まれで、戦争中は実業系の学校に通っていたそうです。しかし、「挺身隊」への動員で、学校ではほとんど勉強することなく、武器の部品などの工場で働いていたとのこと。
昭和20年の東京空襲で、母の実家は全焼。逃げまどったすえ、横浜の親戚宅で終戦を迎えたそうです。
以上が、わが家と「挺身隊」の関わりです。あの戦争で、家族の誰一人、死ななかったのは幸運と言えるでしょう。
「挺身隊」と言われてもう一つ思い浮かぶのは、韓国です。
韓国では、長らく挺身隊と慰安婦が混同されていました。いわゆる「従軍慰安婦」を告発する市民団体も、長い間、挺身隊問題対策協議会(挺対協)を名乗っていました。
戦争当時、日本の一部だった朝鮮半島にもいろいろな戦時動員がありました。一つは、今、「徴用工裁判」として日韓の外交問題になっている労務動員です。
「女子挺身隊」も、終戦間際の朝鮮半島で組織され、内地よりも低年齢の女子生徒が工場へ動員されました。
そして戦後、いつのころか「女子挺身隊の名のもとに動員され、慰安婦にさせられた少女がたくさんいる」という噂が流れ始め、ついに教科書に載るまでになってしまいまいした。
1990年代に慰安婦問題が勃発した時、「慰安婦」と「挺身隊」は別物であるという指摘がなされ、韓国政府もその事実を認めましたが、件の市民団体は指摘を受けても名称を変更しようとしませんでした。
私は、「挺身隊」には国民学校に通っていた少女というイメージがあり、「そんな少女を慰安婦にした日本の残虐性」を印象づけるために、あえて名称変更をしないのではないか、と疑っていました。
〈参考〉慰安婦と挺身隊(リンク)
2018年、挺対協は組織の名称を「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)へと改めました。これは、日本の軍慰安婦制度の残虐性をいっそう際立たせるためです。報道に寄れば、「性奴隷」という言葉を、当事者である元慰安婦たちは嫌っていたとのことですが、市民団体の主な収益源である募金を集めやすくするために、あえてこの名前を使ったと言われています。
この団体の代表を10年以上務めた尹美香(ユン・ミヒャン)は、今年、国会議員に当選後、寄付金の横領疑惑が噴出し、取り調べを受けましたが、国会議員の不逮捕特権があるため逮捕を免れ、その後も文在寅反日政権の庇護のもと、捜査は遅々として進んでいません。
さっさと逮捕してほしいものです。
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