土曜日から3日間、華光の法座「華光大会」でした。
私は先に書いた研修会の関係で、夜からの参加でしたが、さまざまな自己に揺さぶられる、それでいてありがたい時間でしたね。
後生のことは、これでもかこれでもかとハッキリ向きあわさせられ、今生のことはもうあきれるくらいどうにもならないなと…
(普通は今生事はどうにでもなる…と言われるんですがね)
そんななか、姿勢という点で思わされることがあります。
あくまで、私の思いであって、人に押し付けるつもりはないという前提ですが。
法座には若い先生も多いのですが、それこそそういう先生が子どもや学生のころから知っています。
当然そのころは○○くんという感じで呼んでいますし、普段の場では今もそういう風に呼びますね。
私は、そういう気軽でもいられる関係の仲間でも、法話の講師として話されるときは当然○○先生と呼びます。
法をお取次ぎしてくださるわけですからね。
それから、座談会でも、○○先生と呼ぶように、心がけるというよりは当たり前のようにそうしています。
その先生の人や形で、たとえば若いからとか、普段良く知っているからということで、「子どものような気がして心配」とか「弟のように感じているから」なんてところで、評価するのは悲しいなと思うんですね。
そういうところで「でも良かったよ」とかいう気持ちが出てくるのは否定しませんし、それを伝えてあげることも気にしません。
そういうことも聞いておきたい方も居られるでしょう。
しかし、それを座談会で「今、聞かせていただいたところで話しましょう」というところで、そういう発言が続くとちょっといやな気持ちにさえなります。
(評価は反省会や休憩時間にでも十分できると思うんですが)
まぁ、いやになるのは私の問題ですから、そのことをそのまま表明すればいいし、できる場なんですが、今回はいろいろ余計なこだわりが付随して、その自分の思いがニュートラルなところから出ているのか、普通なら気にならないことが変に意識しているから偏って考えているのかの自信がなかったので、言葉にしませんでした。
でも、いやな気分は事実でしたね。
それでも、そういう「若い先生だというところで心配」している心をお持ちなのは事実なんで、それを表明されたということで受けるとしても、そういう評価の部分だけ口にして「ご法話の内容は…まぁいいや」なんてことが出てくると、もう何のためにここに居られるのかがわからなくなりますね。
まぁ、人のことはどうでもいいのですが、そういうことにこころ煩わされる私がいて、どこかで吐き出したいなと思い続けていたんでしょう。
百歩譲って、その発言者と先生が普段から良く知っていて、フランクな関係なんだとしても、その場には他にも「大事な時・場だ」と集まっておられる人がいるんですね。
先生を絶対視して、崇め奉れという気はさらさらないですが、法を取り次いでくださる方、そのために普段から骨を折ってくださっていることを敬い、大事に聞かせていただくということは、心にかけておきたいと思っています。
でも、普段はというか本当はそんな殊勝な気持ちもなく、師といえど足蹴にしているようなやつが、こんなときだけいいかっこして吼えるのもこっけいなことだとは思います。
そんなこっけいなやつだからこそ、忘れていると気づかされたときは頭を垂れて、師を仰ぎ、師を通して本願に向きあわさせてもらいたいなと。
そんな形式にこだわって馬鹿じゃない?なんて声があるかもしれないですけどね。
後から来る人は、良いも悪いも、前の人の形式を頼りにしますから、意識しておくことは無駄じゃないだろうなと。
とここまで書いてみて、そんな自分こそそんな形のことばかり話して、肝心の中身はどうだったんだと自問しちゃいますね。
うん、こんなことに煩わされるアホなやつだとますます痛感し、ますます「それがおめあて」の声が頼もしくあります。
南無阿弥陀仏
私は先に書いた研修会の関係で、夜からの参加でしたが、さまざまな自己に揺さぶられる、それでいてありがたい時間でしたね。
後生のことは、これでもかこれでもかとハッキリ向きあわさせられ、今生のことはもうあきれるくらいどうにもならないなと…
(普通は今生事はどうにでもなる…と言われるんですがね)
そんななか、姿勢という点で思わされることがあります。
あくまで、私の思いであって、人に押し付けるつもりはないという前提ですが。
法座には若い先生も多いのですが、それこそそういう先生が子どもや学生のころから知っています。
当然そのころは○○くんという感じで呼んでいますし、普段の場では今もそういう風に呼びますね。
私は、そういう気軽でもいられる関係の仲間でも、法話の講師として話されるときは当然○○先生と呼びます。
法をお取次ぎしてくださるわけですからね。
それから、座談会でも、○○先生と呼ぶように、心がけるというよりは当たり前のようにそうしています。
その先生の人や形で、たとえば若いからとか、普段良く知っているからということで、「子どものような気がして心配」とか「弟のように感じているから」なんてところで、評価するのは悲しいなと思うんですね。
そういうところで「でも良かったよ」とかいう気持ちが出てくるのは否定しませんし、それを伝えてあげることも気にしません。
そういうことも聞いておきたい方も居られるでしょう。
しかし、それを座談会で「今、聞かせていただいたところで話しましょう」というところで、そういう発言が続くとちょっといやな気持ちにさえなります。
(評価は反省会や休憩時間にでも十分できると思うんですが)
まぁ、いやになるのは私の問題ですから、そのことをそのまま表明すればいいし、できる場なんですが、今回はいろいろ余計なこだわりが付随して、その自分の思いがニュートラルなところから出ているのか、普通なら気にならないことが変に意識しているから偏って考えているのかの自信がなかったので、言葉にしませんでした。
でも、いやな気分は事実でしたね。
それでも、そういう「若い先生だというところで心配」している心をお持ちなのは事実なんで、それを表明されたということで受けるとしても、そういう評価の部分だけ口にして「ご法話の内容は…まぁいいや」なんてことが出てくると、もう何のためにここに居られるのかがわからなくなりますね。
まぁ、人のことはどうでもいいのですが、そういうことにこころ煩わされる私がいて、どこかで吐き出したいなと思い続けていたんでしょう。
百歩譲って、その発言者と先生が普段から良く知っていて、フランクな関係なんだとしても、その場には他にも「大事な時・場だ」と集まっておられる人がいるんですね。
先生を絶対視して、崇め奉れという気はさらさらないですが、法を取り次いでくださる方、そのために普段から骨を折ってくださっていることを敬い、大事に聞かせていただくということは、心にかけておきたいと思っています。
でも、普段はというか本当はそんな殊勝な気持ちもなく、師といえど足蹴にしているようなやつが、こんなときだけいいかっこして吼えるのもこっけいなことだとは思います。
そんなこっけいなやつだからこそ、忘れていると気づかされたときは頭を垂れて、師を仰ぎ、師を通して本願に向きあわさせてもらいたいなと。
そんな形式にこだわって馬鹿じゃない?なんて声があるかもしれないですけどね。
後から来る人は、良いも悪いも、前の人の形式を頼りにしますから、意識しておくことは無駄じゃないだろうなと。
とここまで書いてみて、そんな自分こそそんな形のことばかり話して、肝心の中身はどうだったんだと自問しちゃいますね。
うん、こんなことに煩わされるアホなやつだとますます痛感し、ますます「それがおめあて」の声が頼もしくあります。
南無阿弥陀仏