コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「求め、捨てさせられ、転ぜられる」

2008-11-21 14:45:54 | 真宗カウンセリング

先日の月例会で感じたことを、あとで思い返したので書いて見ます。

担当のSさんがジェンドリン氏の書いたものを参考資料として添えてくださいました。
その中の一説です

私たちには方法があるし、
フォーカシングも知っているし、
資格も持っているし、博士号ももっている。
私たちはこんなものをいっぱいもっています。
だから二人の間に、こういうものをはさみこんで
座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。
それをどけなさい。
 (セラピープロセスの小さな一歩)

こう聞かされると、私は一生懸命「関係を作るために」いっぱいはさみこむものを身につけようとしているのが判ります。
ならば、そういうものをはさみこまないようにがんばらないといけないのでしょうか?

これより前の部分にこういう一説がありました。

私は情緒的に安定していて、
しっかりそこにいる必要はないのです。
私がただそこにいることが必要なのです。
(中略)
そこで私は「それならなれる」と
次第に確信してきました。
 (同上)

というものがありました。
この部分に感銘を受けた方が、「わたしも、それならなれると勇気をもらいました」とおっしゃったのですが、先生は「そういう気持ちも挟み込んじゃうんですね」というようなことをおっしゃいました。
うーん、いろいろ気づけば気づくほど、それを頼りにしてしまう。
頼りにするということは、それを関係に利用しようとしているんですね。
「挟み込まないように意識する」という時点で、自然でなくなってしまう。
難しいです。

他の話題で、「禅問答のようだ」という話もあったのですが、この「はさみこまない」というのも言葉で理解しようとすると「禅問答」の世界に落ち込んでしまいそうです。
「無」を求めていこうとする「我」に悩まされる「有我」ですね。


そう考えるうちに、これと近い感覚を思い出しました。
自力と他力のせめぎあいです。
他力になろうとすればするほど、それは自力でしかない。
他力が目的だと思い込むと、それを目指してしまう。
目指すのは「我」だから、それは自力の域を出ない。
他力は、自分がまったく役に立たないというところの翻りなんですね。


ということは、「はさみこむ」というのも、その意識から開放される時が「はさみこまない」状態なんでしょう。
やはり、前回書いたように、そこは技法や態度ではなく、その大元の「人間観」による「尊重」があるときに、なにも障りがない関係が「出来上がる」のかもしれません。
関係を「作る」のではなく「出来上がる」

その「人間観」が「パーソン・センター」であるならば、私をそういう人間観にならしめるものは「ダルマ・ベースド」なんだなと。
うーん、言葉にするとうまくいえないのですが、大きなことに触れた気がします。

「求め、捨てさせられ、転ぜられる」という言葉が、今私の中で大きく響いています。