日曜礼拝でした。
この日の午前中、用事も兼ねて東山の大谷本廟、西本願寺にお参りしてからの参加です。
4月と言うことで、新たに進学した子もいるし、今回初めて参加した子も。
先生陣も、就職して参加しにくくなった先生もいれば、代わりに新たに先生として手伝ってくれる人も。
大人のほうも、北陸からのお参りの方や前日の「輪読会法座」(私は残念ながら不参加)から続けてお参りの方も多数。
とてもにぎやかな日曜礼拝でした。
これだけの多くの人が、何をしにこの場に集まっているのか…
そんなことを思わしてもらえる法座です。
先生のお話は「こころのべんきょう」と言うテーマで。
新学期、新たに小学生や中学生になった子らは、今までと違うものを勉強し始めます。
そういうことを確認した後で、この日曜礼拝はそういうお勉強とは違います、というお話。
大人の場合でしたら、「勉強」と言われるとどうしても知識のことになるので、聴聞と勉強の間に違和感を持つのですが(逆にそこに違和感がなくて問題のある人もいることでしょう)子どもらにとっては、こうやって先生のほうに向かって、そこから伝えられるものに心をかけていくというのは「こころのべんきょう」と言う言葉がぴったりだと思います。
いろんな心の状態を道具を使ってビジュアル的に見せてくださったあと、先生自身にとっての「辛い体験」を通して「こころ」ということを教えてくださいます。
そういう「辛いこころ」を直面することも、仏さまがいてくださることでできると言うことも。
私自身は、このご法話を通して結構いろんなことを味あわせてもらえました。
午前中に行った浄土真宗の本丸とでも言うべき場所には、納骨堂にお参りされる方や本堂に参拝される方が、それこそ何千人もいたんじゃないでしょうか。
供養と言う形だったり、参拝という形だったり。
その中でどれだけの人が「自分自身の問題」として、「機」に向き合い、「法」に向き合いしているのか…
いや、そんな不特定多数の他人のことはどうでも良くて、そういう人の姿を通じて、私は「こころのべんきょう」に出会わせてもらっていることのありがたみを感じずにおれません。
法に照らされるから、自分自身の闇も見ていくことが出来る。
法に護られているから、自分自身に向き合っていける。
そんな機(自分自身)があるから、法が光り輝いている。
機という中にある「恩・おかげ」そして「罪悪」が大きく、深ければ深いほど、それをまるまる受け止めるという「法」が頼もしくなってくる。
無理に、自分の「機」を探ったり、責めたりすることじゃなく、知らされることで、「法」に立ち返っていける。
これがまさに「機」と「法」が一体になった姿なんだと。
がんばって計ったり、量ったり、しなくても無量の命であり、無量の光であり。
自分の持ち物が、計り知れなくても、それをまるまる抱え込むだけのものがある。
「機」と「法」を別々に理解して合わせようとしたり、比べたりすることなど必要なく、「機」が知れるということは「法」が働いているし、「法」が感じられるということはおめあての「機」がハッキリしてくる。
うーん、こちらに出来ることは何もないなと。
普段はなかなか触れようとしない「仏法」ではあるけれど、こちらが向いていないだけで常に法は働いておられる。
ふとしたことで、いただいた目、いただいた耳が、それに触れたときに「あぁ恥ずかしいな」「あぁ勿体無いな」「あぁ申し訳ないな」と…そう思わせていただいたなら、責めるでも、悔やむでもなく、「南無阿弥陀仏」と返させていただくだけ。
日曜礼拝の最初に、聖典の使い方とお念珠の使い方を先生が教えてくださっていた。
最初は知らないで当たりまえ。
そうやって教えてもらって、いつの間にか当たり前のようにしているだけ。
だから、「南無阿弥陀仏」と教えてもらったら、そのまま返させてもらう。
その「南無阿弥陀仏」をどうこう計る力も知恵もないのだから。
そんなことを、座談会でご一緒させていただいた皆様と、深めていけた気がします。