処分する本も、愛する本である。
ただ、古いから処分するのではない。スペースがないから仕方なのである。今、気がついたが、本を詰め込みすぎたカラーボックスの板が裂けていた!このままでは、部屋の床が抜けてしまう。だから、許して欲しい。
処分する前に、パラパラめくっていると、「生命と医療倫理」と言う本のp.114に「死の問題とその現代的事情」というものがあった。
>死の問題は、中身が覗けない玉手箱のようである。
>死は一人の例外もなく厳然として万人に訪れる。
>それは老若男女、貧富貴賎を問わない。
>ところが、死は必ず訪れるものでありながら、
>それがいつなのかは誰にもわからない。
>死の到来は確実だが、その時期は不確実である。
>死の問題には、確実性と不確実性が同居しているのである。
死ぬのは確実。でも、時期は不確実。至言である。その通りである。人間がモチベーションを高く、生きていけるもの、「きっと、まだ明日は死なないだろう」という楽観性があるからであろう。
万人、人生において「死の前日」は必ず訪れる。されど、ほとんどの人は、「まだ明日は死にはしない」と思い込んでいる。しかし、明日になれば、この現世において、少なからぬ人が、確実に死んでゆく。ひょっとしたら、私も明日、お迎えがくるやもしれぬ。この微妙なギャップこそ「死の恐怖」の正体なのだが、このギャップの影に怯える必要はないのだ。何故なら、人間である以上、逃げることはできない運命なのだから。
また、個々の人をとらえてクローズアップすると、どんなにがんばっても、わずか100年程度の時間しか生きることはできない。だが、視点を変えて「人類の歴史」として考えると、かなり長い時間を人類は成長を重ねながら生き続けているのだ。
ひとりひとりの生き方が、人類の歴史においては、思い出の一コマとなって積み上げられていく。だからこそ、自分の人生という限られた時間を、大切に、そして意味のあるものとして使うべきではないだろうか。そして・・・そういう生き方をしていれば、いつ、「不確実」が「確実」なものになったとしても、後悔することなく、何とか、その運命を受容できると思っている。
ただ、古いから処分するのではない。スペースがないから仕方なのである。今、気がついたが、本を詰め込みすぎたカラーボックスの板が裂けていた!このままでは、部屋の床が抜けてしまう。だから、許して欲しい。
処分する前に、パラパラめくっていると、「生命と医療倫理」と言う本のp.114に「死の問題とその現代的事情」というものがあった。
>死の問題は、中身が覗けない玉手箱のようである。
>死は一人の例外もなく厳然として万人に訪れる。
>それは老若男女、貧富貴賎を問わない。
>ところが、死は必ず訪れるものでありながら、
>それがいつなのかは誰にもわからない。
>死の到来は確実だが、その時期は不確実である。
>死の問題には、確実性と不確実性が同居しているのである。
死ぬのは確実。でも、時期は不確実。至言である。その通りである。人間がモチベーションを高く、生きていけるもの、「きっと、まだ明日は死なないだろう」という楽観性があるからであろう。
万人、人生において「死の前日」は必ず訪れる。されど、ほとんどの人は、「まだ明日は死にはしない」と思い込んでいる。しかし、明日になれば、この現世において、少なからぬ人が、確実に死んでゆく。ひょっとしたら、私も明日、お迎えがくるやもしれぬ。この微妙なギャップこそ「死の恐怖」の正体なのだが、このギャップの影に怯える必要はないのだ。何故なら、人間である以上、逃げることはできない運命なのだから。
また、個々の人をとらえてクローズアップすると、どんなにがんばっても、わずか100年程度の時間しか生きることはできない。だが、視点を変えて「人類の歴史」として考えると、かなり長い時間を人類は成長を重ねながら生き続けているのだ。
ひとりひとりの生き方が、人類の歴史においては、思い出の一コマとなって積み上げられていく。だからこそ、自分の人生という限られた時間を、大切に、そして意味のあるものとして使うべきではないだろうか。そして・・・そういう生き方をしていれば、いつ、「不確実」が「確実」なものになったとしても、後悔することなく、何とか、その運命を受容できると思っている。