MBAコースに在籍していたとき、毎週、数本のケーススタディをこなしたものだ。
経営上のケース(事例)を読み込み、学生同士が討議するものである。有名なものなら、ジリ貧のアサヒビールがスーパードライで復活したもの。企業が業績を上げているケーススタディもあれば、逆に、破綻したり低迷している状況について考えるケーススタディもある。記憶にあるのは自転車パーツ世界最大企業である㈱シマノは自転車製造に出るべきかでないべきかといったケースや、ユニクロとファッションセンターシマムラの戦略を比較するもの。
経営戦略ケーススタディは上記のような内容だが、それ以外にも、人材・組織、会計、IT等々授業でケースが討議される。ケースを読み込むのは必須であるし、ケース以外の情報をネット等で調べるのはご法度である。この限られた事例の冊子の情報だけで勝負することができるようになると、名前も知らない海外の企業のことでも、与えられた情報だけで判断することができる。
ケースは大切である。本当は、その現場にいないと体得できない知識をわずかな時間で吸収できることができる。無論、修羅場を乗り越えるといった経験を得ることは難しいが、事前にそのようなシーンを想像する訓練はムダではない。
で、今の私は「うつ病」や「ガン」といった、重い内容の本を毎日5冊程読んでいる。ちょっと、溜め込みすぎたので、必要なものと必要でないものを識別し、保存しておく必要のないものは処分している。
ふと、この読書もケースの習得なのではないか・・・と思うようになってきた。例えば、『「家族力」がうつから救う』のp.188に以下の記載があった。
>うつ病の患者さんが回復期に入ったら、二週間後にどうでもいい予定を入れるように
>しましょう。自殺抑止になります。律儀な性格の人が多いので、自殺したくなったら
>「あの用事を済ませてから死のう」と考えたりしてくれます。
>どんな予定でもかまいません。ショッピングに行く。子どもの運動会に行く・・・
>約束した予定の日が過ぎれば、また、新しい予定を入れましょう。
こんなこと知らなかった。回復期というのがポイントなのかもしれない。色々と考えさせられる。
カウンセリングについてもそうだ。ただ単に、相手の言ったことを鏡のように繰り返すだけではダメな場合もある。クライエントが「私、自殺したいんです」といった場合、カウンセラーが「そう、自殺したいんですね」と繰り返すようではダメである。相手の心理状況を鑑み、「そう、自殺したいと思ってしまうほど、悩んでらっしゃるんですね」といった風に、少しは考えて返すべきであろう。
死についても、何百というケースを紐解くことで、「悲嘆のプロセス」というものが、少しずつ理解できてきたと思っている。
日本においては、「死」について、口に出すことすらタブーという風習が残っている。口にすることで、言葉が言霊としての力を得て、「死」を呼び込むという考え方である。だから、デス・エデュケーションが非常に遅れている。
「うつ病」についてもそうだ。最近になって、ようやく、メンタルヘルスは重要だという考え方が定着しつつあるが、「精神科に通院しているのは会社に知られたくない」と思う人は、未だに多いと感じる。「うつは心の風邪」といった誤った情報が広まってしまったがために、「風邪なら自然に治るだろう」とか「根性で治せる」といった考えを持つ人もいる。
本で得る知識は、その事例のすべてではない。言葉では語りつくせないものがあるし、体験してみないとわからないことは必ずあるのだ。しかし、本を読むことで、今まで見てこなかった、あるいは目を伏せてきたことについての膨大な知識を得ることができるのも、また事実であう。
特に、本になっている、あるいは論文になっていることは、その筆者が感じた、最も伝えたいことの総集編のようなものである。「百聞は一見に如かず」ということわざもあるが、別に仕事を持ち、現場での「一見」ができない立場としては、「百聞」を「千聞」に増やしていくことでしか、己の知識を向上させることはできないのだから・・・
経営上のケース(事例)を読み込み、学生同士が討議するものである。有名なものなら、ジリ貧のアサヒビールがスーパードライで復活したもの。企業が業績を上げているケーススタディもあれば、逆に、破綻したり低迷している状況について考えるケーススタディもある。記憶にあるのは自転車パーツ世界最大企業である㈱シマノは自転車製造に出るべきかでないべきかといったケースや、ユニクロとファッションセンターシマムラの戦略を比較するもの。
経営戦略ケーススタディは上記のような内容だが、それ以外にも、人材・組織、会計、IT等々授業でケースが討議される。ケースを読み込むのは必須であるし、ケース以外の情報をネット等で調べるのはご法度である。この限られた事例の冊子の情報だけで勝負することができるようになると、名前も知らない海外の企業のことでも、与えられた情報だけで判断することができる。
ケースは大切である。本当は、その現場にいないと体得できない知識をわずかな時間で吸収できることができる。無論、修羅場を乗り越えるといった経験を得ることは難しいが、事前にそのようなシーンを想像する訓練はムダではない。
で、今の私は「うつ病」や「ガン」といった、重い内容の本を毎日5冊程読んでいる。ちょっと、溜め込みすぎたので、必要なものと必要でないものを識別し、保存しておく必要のないものは処分している。
ふと、この読書もケースの習得なのではないか・・・と思うようになってきた。例えば、『「家族力」がうつから救う』のp.188に以下の記載があった。
>うつ病の患者さんが回復期に入ったら、二週間後にどうでもいい予定を入れるように
>しましょう。自殺抑止になります。律儀な性格の人が多いので、自殺したくなったら
>「あの用事を済ませてから死のう」と考えたりしてくれます。
>どんな予定でもかまいません。ショッピングに行く。子どもの運動会に行く・・・
>約束した予定の日が過ぎれば、また、新しい予定を入れましょう。
こんなこと知らなかった。回復期というのがポイントなのかもしれない。色々と考えさせられる。
カウンセリングについてもそうだ。ただ単に、相手の言ったことを鏡のように繰り返すだけではダメな場合もある。クライエントが「私、自殺したいんです」といった場合、カウンセラーが「そう、自殺したいんですね」と繰り返すようではダメである。相手の心理状況を鑑み、「そう、自殺したいと思ってしまうほど、悩んでらっしゃるんですね」といった風に、少しは考えて返すべきであろう。
死についても、何百というケースを紐解くことで、「悲嘆のプロセス」というものが、少しずつ理解できてきたと思っている。
日本においては、「死」について、口に出すことすらタブーという風習が残っている。口にすることで、言葉が言霊としての力を得て、「死」を呼び込むという考え方である。だから、デス・エデュケーションが非常に遅れている。
「うつ病」についてもそうだ。最近になって、ようやく、メンタルヘルスは重要だという考え方が定着しつつあるが、「精神科に通院しているのは会社に知られたくない」と思う人は、未だに多いと感じる。「うつは心の風邪」といった誤った情報が広まってしまったがために、「風邪なら自然に治るだろう」とか「根性で治せる」といった考えを持つ人もいる。
本で得る知識は、その事例のすべてではない。言葉では語りつくせないものがあるし、体験してみないとわからないことは必ずあるのだ。しかし、本を読むことで、今まで見てこなかった、あるいは目を伏せてきたことについての膨大な知識を得ることができるのも、また事実であう。
特に、本になっている、あるいは論文になっていることは、その筆者が感じた、最も伝えたいことの総集編のようなものである。「百聞は一見に如かず」ということわざもあるが、別に仕事を持ち、現場での「一見」ができない立場としては、「百聞」を「千聞」に増やしていくことでしか、己の知識を向上させることはできないのだから・・・