本を整理するついでに家にあった「勉強法」と名のつく本を5冊ほど読んでみた。
くだらぬ・・・
勉強法といいつつ、その目標は「カネ」ということらしい。
勉強⇒キャリアアップ⇒高リターン(カネ)⇒幸せ
・・・といった感じの流れ。何か、まちがっていないだろうか?「⇒」は、本当に、その結果を担保するものであろうか?
確かに、学びは幸せをもたらしてくれるだろう。知らないことを知る幸せ、あるいは、ともに学びを競い合う友、教えを請うべき師。すなわち、学習は「知」への遭遇、「友」への遭遇、「師」への遭遇という、新たな3つの出会いを生む、尊い遭遇機能を持ち合わせる「神の見えざる手」なのである。
自分のキャリアをアップさせるって何なのだ?キャリアは自分の人生の軌跡であり、アップもダウンもない。では、キャリアアップしない、己の人生は、その存在さえ忌むべき、不幸な存在なのか?消し去るべき、悪夢なのか?いや、違うはずだ。生きてきた、その時間は、遡ることはできず、修正することも、変えることも、消し去ることもできない、ありのままの存在である。否定するくらいの「意志」があるなら、残りの人生を意味のあると信ずる何かに等価交換すればいい。
で、その等価交換の対象が「カネ」でいいのか・・・あるいは、地位や名誉、羨望される生活が、自分の、わずか、100年もありはしない人生と、信念を持って等価交換すべきものなのか?
全くもって、この勉強法という本には、「失望」を通り越して「絶望」すら感じてしまう。ましてや、「脳にいい食べ物」や「残業を回避して勉強する時間を確保」、「悔しさをバネにしてリベンジ」とか書かれているのを見ると、無念さが、全身を覆い尽くしてしまう・・・
これが、「勉強」と「学習」の違いなのだろうか・・・いや、そうじゃない、これは「勉強」に対する冒涜であり、どのような形でも「勉強すれば勝ち」という誤った認識から派生する悪意であろう。
勉強とは、自己実現の方法であり、手段であり、そのとるべき工程である。そう、残念ながら、勉強しない限り、自己実現はできないのである。だから、義務教育があり、その中で、自分の進むべき指針を掴み取り、そのベクトルに沿った「学習」を開始する必要があるのだ。その勉強が、余りにないがしろにされるからこそ、今の、ニートや、3年で退職する膨大な数の若者を生み出しているのではないのだろうか。
「勉強」の進化形が「学習」と思っている。そして、「勉強」も「学習」も自己実現のために必要不可欠のものである。「勉強」のやらされ感は、ある意味辛いものかもしれないが、新しい知識を得るため、半ば強制的に知識を詰め込まされることは、仕方がないことなのである。「勉強、、、ありがたや、ありがたや~」という奇特な人がいれば別だが、我々人間は、好奇心がある反面、未知の出来事に対しては臆病なのだから仕方がない。
でも、勉強で知識を詰め込むことで、ジグソーパズルのパーツが繋がり始め、それが、楽しくなってくる。そして、そのやり方や考え方を教えられるレベルにまで到達すれば、自己実現は目前である。そうやって、人類は、先人達の知識を教わり、教えることで発達してきた。その工程こそが、人類を人類として支える、尊い「学びの連鎖」なのである。それが途切れれば、人類はサルに逆戻りしてしまうからこそ、本能的に「学ぶ」のではないだろうか。
なら、学ぶことが人類が人類であるための使命なのである。辛いとか、苦しいとか、弱音を吐くのは仕方がないが、人類に生まれてきたことを宿命と思い、何かしら学び続けるしかないのだろう。
くだらぬ・・・
勉強法といいつつ、その目標は「カネ」ということらしい。
勉強⇒キャリアアップ⇒高リターン(カネ)⇒幸せ
・・・といった感じの流れ。何か、まちがっていないだろうか?「⇒」は、本当に、その結果を担保するものであろうか?
確かに、学びは幸せをもたらしてくれるだろう。知らないことを知る幸せ、あるいは、ともに学びを競い合う友、教えを請うべき師。すなわち、学習は「知」への遭遇、「友」への遭遇、「師」への遭遇という、新たな3つの出会いを生む、尊い遭遇機能を持ち合わせる「神の見えざる手」なのである。
自分のキャリアをアップさせるって何なのだ?キャリアは自分の人生の軌跡であり、アップもダウンもない。では、キャリアアップしない、己の人生は、その存在さえ忌むべき、不幸な存在なのか?消し去るべき、悪夢なのか?いや、違うはずだ。生きてきた、その時間は、遡ることはできず、修正することも、変えることも、消し去ることもできない、ありのままの存在である。否定するくらいの「意志」があるなら、残りの人生を意味のあると信ずる何かに等価交換すればいい。
で、その等価交換の対象が「カネ」でいいのか・・・あるいは、地位や名誉、羨望される生活が、自分の、わずか、100年もありはしない人生と、信念を持って等価交換すべきものなのか?
全くもって、この勉強法という本には、「失望」を通り越して「絶望」すら感じてしまう。ましてや、「脳にいい食べ物」や「残業を回避して勉強する時間を確保」、「悔しさをバネにしてリベンジ」とか書かれているのを見ると、無念さが、全身を覆い尽くしてしまう・・・
これが、「勉強」と「学習」の違いなのだろうか・・・いや、そうじゃない、これは「勉強」に対する冒涜であり、どのような形でも「勉強すれば勝ち」という誤った認識から派生する悪意であろう。
勉強とは、自己実現の方法であり、手段であり、そのとるべき工程である。そう、残念ながら、勉強しない限り、自己実現はできないのである。だから、義務教育があり、その中で、自分の進むべき指針を掴み取り、そのベクトルに沿った「学習」を開始する必要があるのだ。その勉強が、余りにないがしろにされるからこそ、今の、ニートや、3年で退職する膨大な数の若者を生み出しているのではないのだろうか。
「勉強」の進化形が「学習」と思っている。そして、「勉強」も「学習」も自己実現のために必要不可欠のものである。「勉強」のやらされ感は、ある意味辛いものかもしれないが、新しい知識を得るため、半ば強制的に知識を詰め込まされることは、仕方がないことなのである。「勉強、、、ありがたや、ありがたや~」という奇特な人がいれば別だが、我々人間は、好奇心がある反面、未知の出来事に対しては臆病なのだから仕方がない。
でも、勉強で知識を詰め込むことで、ジグソーパズルのパーツが繋がり始め、それが、楽しくなってくる。そして、そのやり方や考え方を教えられるレベルにまで到達すれば、自己実現は目前である。そうやって、人類は、先人達の知識を教わり、教えることで発達してきた。その工程こそが、人類を人類として支える、尊い「学びの連鎖」なのである。それが途切れれば、人類はサルに逆戻りしてしまうからこそ、本能的に「学ぶ」のではないだろうか。
なら、学ぶことが人類が人類であるための使命なのである。辛いとか、苦しいとか、弱音を吐くのは仕方がないが、人類に生まれてきたことを宿命と思い、何かしら学び続けるしかないのだろう。