8月も終わり、早、今年も9月。
12ヶ月中8ヶ月が終了したということで、8/12=2/3が終わったこととなります。何もしていないように見えて、よくよく思い返すと、日本福祉大学を卒業したのが3月ということで、まだ、半年経過していないわけでして。そのタイミングで、放送大学の合格通知をいただいているということは、ほとんど、学修にブランクなく過ごしているということとなります。
ただ、日本福祉大学に入学するまでの10年間が壮絶であったため、学修の途絶がほとんどないにもかかわらず、満たされない感じがするのでしょう。自分でいうのもなんですが、10年間、大学院で5つの専攻を修了した「奇人」は見たこともないし、あるいは、その10年間で19もの学位を取得した「変人」も聞いたことがありませんから。
あまりにも生き急いでしまい、ほぼ、1年で2つの学位を取得していたことから、放送大学の3年次編入のように、2年で1つの学位を取得するのが、ゆるく、ぬるく思えてしまったのです。だから、日本福祉大学を卒業してからも、放送大学再入学を躊躇し、あるいは、京都産業大学大学院に入学を夢見て、完全2重学籍禁止の大学院であることから、機構の学位を狙ってしまったのだと推測します。
でも、よくよく自分の立ち位置を見極め、再度、「何のために生涯学習を目指しているのか」という命題を確認した結果、未来の学びを望むがために、現在の学習をないがしろににしている己を見極めることができました。いわば、未来に届くまで、自分を殺す=自殺行為ということに気が付いたわけです。
「自殺は絶対にダメだ!」と言っていたとしても、今、この瞬間を「生かした時間」にしなければ、その時間を殺してしまうこととなります。無論、「仕事を通じて社会に貢献している」とか、「稼いだお金で家族を養っている」とか、「税金を払って義務を果たしている」とか、色々と「自分の人生」をモノやサービス、あるいはお金に等価交換し、「人生という時間」を意味のあるものとして「消化」しています。
ただ、それは、多くのサラリーマンや社会人がやっていることであり、己の独自性が欠落しています。「自分」が、「自分」として生きていることを疎明する手段。それは人それぞれ、色々あるのですが、私の場合、「生涯学習」に答えを求めた訳です。
そして、気が付いたことが、いつの間にか「学位の数」という「数の魔力」に魅入られてしまい、危うく、己を見失いかけてしまったということ。資格の時と、同じ過ちに陥りかけたのですが、半年で戻ってくることができました。
本当に「数」は強いし、恐ろしい。その「優位性」というか、「優越性」というか・・・その「数」だけで、相手を黙らせるだけのインパクトがあります。特に、常識を逸脱した「数」は、圧倒的な力を発揮するので、麻薬のごとく、人々を「数」に走らせてしまう。日本一の称号を得るために、中身ではなく、「数字のいたちごっこ」が始まり、もともとあった崇高な理想をズタズタにしてしまうのです。
半年かけて、そのことを悟ったので、これからは、放送大学で「好きな科目」や「苦手な科目」も含めて、ちょっとずつ、学修を再開するつもりです。ですので、一旦、「学位の数」における戦線から離脱します。
私も今年で50歳。論語で言うなら「天命を知る」年齢です。若い人に混ざって、数の勝負の世界で暴れるのではなく、真の意味での「生涯学習」に身を投じることができれば・・・と願っております。