名君のほまれ高かった
5代はん(藩)主・「前田綱紀
」
の時に
つくられはじめた、
金沢・けんろくえん(兼六園)
それが、現在の形に 近くなったのは、13代はん(藩)主、
前田なりやす(斉泰)
の
時だそうですが、
彼が、けんろくえん(兼六園)のとなりに こしらえたのが、
血のつながらない
お母さんのための
いんきょ・やしき(隠居屋敷)
せいそんかく(成巽閣)です
(内部撮影不可)
「
父の正室のために、こんなすばらしいお屋敷を建てるなんて・・
さすがは、
儒学を重んじる家柄。。
ここの広間、『敬』っていう字が大書きされた、掛け軸が
かかっているんだよ~。」
と
チットが言いました。
しかし・・・、前田家のざいせい(財政)が
ゆたかでなかった
江戸末期、
わざわざこんな、「孝行御殿」を
たてたのは、
(もしかして、あの人のことが かんけいしているのではなかろうか
)
クリンたち、
かんぐりました
「あの人」というのは、将軍家から、前田家にとついできた、
やすひめ(溶姫、ようひめとも。)
のことです。
やすひめは、子だくさんの11代将軍「徳川家斉
」
の
55人いる子どもの一人として
江戸で生まれました。
将軍家は、27人いた姫たちを、「大名にとつがせよう」
としたので、
大名たちは
(どうやって、ことわろうか)
と
当時、しんけんに
なやんだそうです・・。
「将軍の娘なんか嫁いできたら、結婚式から新居から、
金がかかってしょうがない」
時に、くろふね・らいこう(黒船来航)の26年前
。
ばくふ(幕府)の力も
おちてるし、
今ごろ、将軍家とごえん(ご縁)をむすんでも、メリットなんか
ないのです
しかし
、このときの前田家は タイミングわるく
ことわれず、
やすひめが、
とついでくることに
なりました・・
そのために、江戸の「加賀屋敷」につくられた・おこしいれ(輿入れ)門
が、
現在の「東大の赤門」
です。
やすひめ
とのけっこん(結婚)は、やはり、
ばくだい(莫大)なお金が
かかりました。
また、将軍家との しんせき(親戚)づきあいは
たいへんでした。。
さらに、やすひめのシュウトメ(姑)になる、「前田家・前藩主の
正室」は
お公家さん出身
で、
「この場合、どっちが上になるの
」 という、
むずかしい・もんだい(問題)
が
もちあがりました。。
身分の高い、つま(妻)と母・・
両方に
気をつかい、
13代なりやす(斉泰)は
つかれてしまいます。
やすひめは、わるい女ではなかったそうですが、江戸からついてきた
侍女たちが、
将軍家をかさにきて
やたら
上から目せん(線)
・・・どうやら、奥向きは、いろいろなバトルが
くりひろげられた
らしい
そして、時はすすみ、ばくまつ(幕末)
やすひめの産んだ子
は、前田家のあたらしい・はん(藩)主に
なりますが、
やすひめの実家・「徳川家」と みっせつ(密接)な関係と
見られた、
かがはん(加賀藩)は、
「反・徳川勢力」から とおざけられ、外様さい(最)大
で
ありながら、
明治いしん(維新)後の かつやく(活躍)の場は
与えられませんでした。。
かが(加賀)の人々は、「溶姫のせいだ
あのお荷物女
」
と、おこり、
夫・なりやす(斉泰)も、
(溶姫と離婚しようかな)
と
かんがえたらしい・・。
さらに、ばくふ(幕府)を完全にしょうめつ(消滅)させるための
ぼしんせんそう(戊辰戦争)
が
はじまると、
「江戸は危ない」
ってことで、
やすひめが
金沢にかえってこようとしました
ですが、
金沢につく直前、
「こら
溶姫のとりまき
お前ら江戸の者は
金沢に入るな
引き返せ~~」
と
かがはん(加賀藩)から
ことわられてしまい、
やすひめ・ピンチ
・・・・・
およめ(嫁)入りより
このかた、
だれよりも
大切にされてきたのに。。
徳川のお供とわかれ、金沢に入った・やすひめですが、
手のひら返され
こりつむえん(孤立無援)
となり、
その後、
まもなく 亡くなっています・・。
やすひめは、生前、前田家のよめ(嫁)として
どういう生き方を
していたのでしょうか?
さまざまなそうどう(騒動)にかかわった、、とも言われてる
みたいですが、
やすひめが どんな性格だったか
については、
ほとんど
伝えられていません。。
しかし、やすひめと江戸の人々が、もう少し・けんきょ(謙虚)で
かしこく
立ちふるまっていれば、
さいごに
守ってもらえたのでは・・
と
甘くかんがえてしまう、クリンです。
だって・・・
時代のしゅくめい(宿命)とはいえ、もし、良い子
が
守ってもらえなかったのだと
したら、
かわいそうすぎる。。
このさい、同じょう(情)もわかないくらい、ワガママ
で、イジワル
で、
身がって(勝手)な
やすひめであればいい
クリンは、そう おもいました。
(その22、「金沢の名前の由来」に、つづく)