寺町通りと並行して・ながれる、さいがわ(犀川)は、
金沢を代表する、一本目の川
(なに あのキレイなはし(橋)・・)
そこには、「犀川大橋」という、水色のキレイなはし(橋)
が
かかっています
この川をあい(愛)し、川の名前を ペンネームにした
という、
「金沢三文豪」の一人、
むろうさいせい(室生犀星)。
大正~昭和に かつやくしたその作家は、
じつにここ、
さいがわ(犀川)のほとりで、生まれ育ちました
むろうさいせい(室生犀星)は、「加賀藩の下級武士」
だった・お父さんと、
下ばたらきのお母さん、との間に生まれました。
のぞまれない子だったから、小さいころに お寺にやられて、
大きくなるまで
たいへん
苦労したそうです
(※写真は、犀星が暮らした雨宝院)
彼の文しょう(章)には、苦労人のつよさと弱さ、こどく(孤独)が
にじんでいる
と
言われてるらしい・・。
クリン、「室生犀星」なんて言われても、作品なんて
ひとつも
思いつかなかったのですが、、
「ふるさとは、遠きにありて 思ふもの。」という
有名なし(詩)の
いっせつ(一節)を
きいて、
(あ~、これの人か~~) と、わかりました
(生家跡にたつ、記念館に 行きます)
< 室生犀星 「抒情小曲集」より 小景異情 その二>
「 ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして 悲しく うたふもの
よしや うらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰るところに あるまじや ・・・ 」
・・・・・
ホロっとする、
というよりも、
後半は、いこじ(意固地)なまでに なにやら・けつい(決意)
してる
うた(詩)
これは、さいせいが、まだ・むめい(無名)だった、若いころ、
自分の苦しみをうたった・うた(詩)、だそうです。
さいせい(犀星)は、20さい(歳)で上京しますが
なかなか・めが出ず、
不安とざせつ(挫折)の中で、このし(詩)を よんだらしい・・
おそらくは、「帰るところなんて、ないんだぞ!」と 自分に
言いきかせるため・・
そして
おそらくは、
「帰らないんだぞ!」
と
まわりに せんげん(宣言)するために・・
とはいえ 東京の 夏のあつさは お手上げで、
さいせいは
体ちょう(調)を
くずしてしまい、
いったん、金沢に かえったみたいです。。
「・・100年くらい前は、真夏でも すずしかったのかな
金沢」
「今日なんて、東京より暑いぞ。」 (これじゃ、かえってこないかも・・)※ただいま、34度
さいせいは、成功してからの晩年・20年間は、 金沢に
かえらず、
さいがわ(犀川)のシャシン(写真)を見て、なつかしむ
だけだった そうです
東京でのくらしは、
かく(確)立されてるし、
子ども時代の
かなしい
思い出もある 金沢の地に、
わざわざ、かえる気もちにまでは、なれなかったのかもしれないな・・
と
クリンたち、
すいそく(推測)しました。
でも ようかん(羊羹)にまつわる、さいせいの
エピソードをきいて、
クリン、やっぱり、さいせいは、こみあげる・
こきょう(故郷)・金沢への
甘い思いが
あったのではないか
って、
あとから
おもったのです
それは、金沢の「老舗和菓子店・森八」で、「黒羊羹」を買ったさい、
うちのチットが
はなしたこと・・
「 室生犀星って、とっても甘党だったらしくて、
東京に来てからも、
夜の隅田川を見て
『羊羹のように流れている』
って
称えたんだって~。
まさしく、言いえて妙 和菓子王国・金沢の出身だけある
巧みな表現だ
と
絶賛されたみたい
芥川龍之介が金沢に来たときは、森八に 連れて行って
お汁粉で 接待してるし・・
残されている書簡からも
『羊羹くれ』とか、羊羹に関する私信が 多いそうだけど、
そのとき、
この森八の羊羹を イメージしてたかな?」(チット談)
・・・・・
(それぞ、まさしく、ぼうきょうの念・・)
さいせいは、きっと、東京でも おいしいようかんを
たくさん食べてた
だろうから、
すみだ川に なぞらえたのは、
東京で買える羊羹だったのかも、しれない・・。
でも・・
さいせいが
昔、
毎日のように見ていた、
さいがわの 夜の黒々とした ながれは、、
金沢のようかんのながれに、まちがいないのです
(その15、「尾山神社と、たろうの羊羹」に、つづく。)