和田萬吉『謡曲物語』です。
最初の版(右側、前編・後編)と普及版(左側)です。
最初の版は、明治45年、発行です。大判で、前編と後編に分かれています。
普及版は片手で持てるサイズで、大正12年発行、版を重ねています。
なお、2000年に、白竜社より新装版(1004頁)が発行されているので、入手可能です。
さて、大部の『謡曲物語』がですが、大部の本に馴染みやすくするためでしょうか、木版彩色の能画が多く挿入されています(木版画を本体に簡易糊付けしてあります)。
作者、月岡耕漁は、明治、大正期に活躍した浮世絵画家で、能画を得意としました。この時代の木版能画は人気があるので、これだけでも元は取れたでしょうか(^^; なお、普及版、新装版の能画は印刷物です。
「羽衣」
「嵐山」
「桜川」
「望月」
「隅田川」
「鉢木」
「松風」
他に、古画(印刷)も多数挿入されています。たとえば、
「国栖」
「百万」
『謡曲物語』には、155番の謡曲(能)が、物語形式で載っています。もちろん、すべて、和田萬吉が書き下したものです。
例によって、謡集の最初にくる『高砂』の冒頭部分です。
相当する謡曲本の部分です。
謡曲の一部を取り入れなをら、たくみにストーリー展開がなされています。
これまで、大和田健樹『謡曲評釋』、野上豊一郎『謠曲全集』、佐成謙太郎『謠曲大観』を紹介してきました。これらと、『謡曲物語』との違いは、各謡曲の解説ではなく、それぞれの謡曲を咀嚼し、物語として展開していることです。能や謡曲のあらすじであれば、謡本などに記されています。能(謡曲)のストーリー展開は単純ですから、それで事足ります。しかし、味も素っ気もありません。能の面白さや謡いの味わいは、あらすじでは表せません。物語が必要なのです。しかし、能は余分な物をギリギリまでそぎ落とした芸術ですから、最終的に物語を造り上げるのは、能の観客であり、謡いを謡う人になります。だからこそ面白いのですが、なかなか難しいのも事実です。
和田萬吉が『謡曲物語』を書いたのは、謡曲愛好者が、謡曲の節や抑揚をマスターするのに終始して、謡曲が能とは別個のものになっている状況を何とかしたいという思いからです。世阿弥のいう能の本質は、「物真似」です。登場人物が、男女、老幼、貴賤、凡聖、神人などの別を十二分に心得て謡い、舞わねばなりません。そのためには、その謡曲(能)が、どのようなストーリー展開になっているかを、謡曲の章句との関係で理解する必要があります。『謡曲物語』を著したのはそのためです。
和田萬吉の著書を、もう一冊紹介します。
和田萬吉『能と謡』(白竜社、2004年)です。昭和18年に発行された物の新装版です。この中で、和田は、能が武士とともに生まれてきた事、明治維新以来、武士の精神が失われ、それに伴い、能や謡曲の本質的なものが見失われていると繰り返し説いています。失われた武家気質をなげき、武家の精神世界を能や謡曲の中に見出そうとしたのかもしれません。その意味では、和田萬吉は、明治文化人の一典型といえるでしょう。彼は、日本における図書館学の草分けでもあります。郷土の生んだ近代偉人の一人ですが、今では、地元でもほとんど知る人はありません。
和田萬吉(慶応元年(1865)ー昭和9年(1934))は、美濃大垣藩士の子。東京帝大卒、文学博士、国文学者、東大図書館の館長を長く勤める。謡曲、能に造詣が深く、梅若流の顧問も勤めた。
その頃、このような本から剥がして、版画だけが売られたかもしれませんね(^_^)
その頃は版画が高かったですから、十分に採算があったわけですね(^_^)
もっとも、その代わり、本体の本は失われたのでしょうけれど、、、。
昔、大宰府天満宮前の骨董屋に月岡耕漁の能版画集があったので無理して買ったら、帰りの旅費がギリギリでした(^^;