遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高札場と火事1.高札守護役はつらいよ

2019年03月04日 | 高札
高札場の実際



            歌川芳虎 「東京日本橋風景」(明治3年)

 明治初期の高札場の様子を描いた錦絵です。

 明治政府は、江戸幕府の高札場をそのまま使っていたので、この絵は、江戸時代の高札場の様子を表していると考えて良いでしょう。

 日本橋は五街道の起点であったので、特に立派な高札場が設けられていました。とにかく高い。人々を見下ろす位置にあり、江戸幕府の権威を象徴しています。

 このような重要な高札場は、大高札場とよばれ、江戸には6カ所ありました。そのうちでも、日本橋の高札場は、最も重要とされていました。

 描かれている高札は、地面にさしてあるように見える物が数点あります。が、よく観察すると、やはり、柱に掛けて固定されています。



 一方、現在、全国各地、特に、旧街道筋では、街興しの一環として、高札場の復元がなされています。

                復元された高札場

 この写真のような高札場が当時としては平均的な規模のものだったでしょう。基本的には、各村に一カ所。人の多く集まるところや往来の激しい場所に設置されました。



火事と御高札守護役

   宿場や町中など、家が密集している場所に、高札場は設置されました。このような所は、高札場には適していましたが、その一方で、火事が頻発しました。そのため、大きな高札場では、火事の際、高札を避難させる役割の人が決まっていたようです。

 残された文献資料はわずかですが、そのうちの一つ、岩国藩柳井町(現、山口県柳井市)の大野家文書をもとに、火事の際の高札についてみてみます(『御高札守護役 大野家文書』柳井市立柳井図書館、2003年)。

 柳井奉行(代官)所があった柳井町(現、岩国市柳井)には、奉行所の脇に巨大な高札場が設けられていました。





              柳井津町屋敷割図(文化初年頃)



             奉行所附近、高札場は南東端

 柳井奉行所脇の高札場は、巾7m、高さ3mもの巨大なものであり、16枚の高札が掛けられるようになっていました。
 これは、当時、最大級の規模の高札場ではないかと思います。

 この高札場の管理を、奉行所から命じられたのが大野家です。大野家には、当時の貴重な文書が多く残されて、高札や高札場管理の様子を知ることができます。

 染物屋を生業とする大野家は、代々、御高札守護役をつとめていました。

 御高札守護役の任務は、高札場の管理全般でしたが、特に重要なのは、大風、火事などの緊急時に、高札を避難させることでした。

 大野家文書の中に次のような一節があります。

「・・・・・・右御高札守護役仕候ニ付、平生心得の事、万一出火の節ハ第一遠近を聞き、風なみに気を付、近火は申ニ不及、遠火たり共風なみ悪くして、はげ敷時ハ、本人の儀ハ早束御高札をはずし、御蔵番所へ届け、御蔵の戸まへニ置、夜中成ば此方の烑ちんを燈、気を付候事。依て手伝役えも早束被参候様、手堅く申合置候事也。」

 「御高札守護役を仰せつかっているのだから、常日頃からその事をわきまえ、万一出火の場合には、まず、火事が遠いか近いかを感じとり、風波に気をつけて、近火は当然だが遠火であっても、風波が激しい時は、直ちに高札をはずし、御蔵番所へ届けて、御蔵の戸の前に置き、夜中なら提灯をともして、用心すること。手伝い役もすぐに馳せ参じる事ができるように、しっかりと打ち合わせをしておくこと。」

 御高札守護役は、どんな火事にも細心の注意をはらい、緊急時には、急いで高札をはずさねばならなかった。
 巾7m、高さ3mにもなる巨大な高札場から、16枚もの高札をはずして避難させる作業は、時に、命がけであったでしょう。
 夜中は、退避させた高札の傍に、提灯を置いて用心をした。
 「御高札」守護とあるように、高札は大切に扱われたのです。
 手伝い役もいたらしい。

 このように緊急時の対応が求められたのですが、そのためには、毎日、常に気を配っておかねばなりません。大変、神経をつかいます。家を空けることもままならない。
 高札を守る責務は非常に重く、大野家歴代当主は大変な役目を負っていたのです。

 そんなわけで、大野家四代勘右衛門は、他の人に役を変わって欲しいと奉行所に願い出ました。
 しかし、結局、適当な人材がいないと慰留されてしまうのです。

 やめたいけど、やめさせてもらえない。

        高札守護役はつらいよ!



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現存品これだけか?火事にあった高札

2019年03月03日 | 高札
焼け木売るバカ、それを買うバカ


売る方も売る方なら、買う方も買う方です。
単なる焼け焦げた板。しかも、万札1枚。



裏側は


表面が焼け、ススで黒くなっています。裏側の方がひどい。一部は、炭化。

 横90cm、縦45cm、厚さ2.5cm。重さは6kgもあります。
 オリジナルの丸い吊り金具も残っていて、これは間違いなく、高札。

 でも、文字らしきものは見えません・・・・・・かすかに1文字か2文字それらしきものが。


そこで、いつもの強力ライトの登場です。





お、おーーーーー・・・・・・・・

大の男3人(この作業は一人ではできないので、助っ人が他に二人)が、期せずして、感動の大声をあげました(笑)。

これほど劇的に変化する高札板は初めてです。

奉行の文字もくっきりと・・・なんとか、全体が把握できそうです。


高札の内容

何日間も格闘して、やっと読めました。

                 定
       何事によら須よろしからさることに
       百姓大勢申合せ候をととうととなへ 
       ととうしてしゐてねかひ事くわたつるを
       こうそといひあるひハ申合村方
       たちのき候をてうさんと申前々より御法度に
       候條右類の儀これあらハ居村他村に
       かきら須早々その筋の役所へ申出べし 
          御ほうひとして
          ととうの訴人        銀百枚
           こうその訴人       同断
           てうさんの訴人      同断
      右之通下されその品により帯刀苗字も
      御免阿る遍き間たとへ一旦同類に成とも
      発言いたし候ものゝ名まへ申出るにおゐてハ
      その科をゆるされ御ほうひ下さる遍し
      右類訴人いたすものなく村々騒立候節
      村内のものを差押へととうにくわゝらせ須
      一人もさしいたさゞる村方これあらハ
      村役人にても百姓にても重にとりしつめ候ものハ
      御ほうひ銀下され帯刀苗字御免さしつゞき
      しつめ候ものともこれあらハそれそれ御ほうび
      下しおかる遍き者也
         明和七年四月         奉 行


            
何事によらず、良くない事を企み
大勢が申し合わせることを徒党と言い、
徒党して、強引に願い事を企てることを
強訴という。また、示し合わせて居町居村を脱走することを逃散といい、これらはいずれも厳禁である。右の類のことがあれば、居町居村に限らず、すぐさまその筋の役所に通報せよ。
ご褒美として
   徒党の通報者      銀百枚
    強訴の通報者     同断
    逃散の通報者     同断
右のとおり与える。さらに、通報内容によっては、苗字帯刀も許されるので、たとえ、一度仲間になった者であっても、首謀者の名前を申し出れば、その罪をゆるし、ご褒美を与える。また、右の類の通報をする者がなく、あちこちの村々が騒ぎ立った時でも、村内の者を取り鎮め、徒党に加わらせず、一人も咎人を出さなかった村があるならば、村役人であれ百姓であれ、主になって取り鎮めた者にはご褒美を与え、苗字帯刀も許し、続いて鎮めた者達がいるならば、それぞれにご褒美を与える。
  明和七年四月  奉 行

 

 明和七年四月発布の徒党強訴逃散禁止札です。

 徒党、強訴、逃散の禁止を定め(恒久法)として命じ、通報者には褒美を与えると述べています。
  また、通報の内容次第では、苗字帯刀が許され、騒ぎに加わった者でも首謀者の名を知らせれば罪が免除となりました。村内を鎮め、咎人を出さなかった場合、百姓であっても功労者には褒美を与え、苗字帯刀を許すなど、手厚い優遇策を用意していたのです。

 江戸中期以降は、幕府や諸藩にとって、切支丹よりも、民衆が徒党を組んで事を起こすことの方が厄介だったのでしょう。


火事と高札

 江戸時代、家の密集した場所では、火事が非常に多かったので、町中に設けられた高札場は、しばしば、火事の被害を受け、高札も火にまみれました。
 災害時に、高札場から高札をはずして避難させる担当の役も決まっていたようです。

 焼失をまぬがれた高札はそのまま掲げ、一部破損品は補修して再利用、焼けのひどい高札は廃棄処分されました。
 
 この明和の徒党禁止高札は、火事にあいながらも、再利用されることも、処分されることもなく、200年余保管され、偶然、私の手許に来たのです。

 高札の掲示場所や来歴は不明ですが、品物の出所からして、関東地方の高札場の物らしい。

 火事にあった高札。
 現存するのはこの品のみか?

 



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サンシイの花が咲きました

2019年03月02日 | 故玩館日記
サンシイの花


故玩館裏のサンシイに花がつきました。




サンシイ、正式にはサンシュユと言うんだそうですが、この辺りでは誰もそう呼ばない。

でも、この木、とても小さいのです。


高さは2m以上あるのですが、幹はこんなに細い。

 実は、かつて、ここから5mほど離れた所に、幹回り、2mはあろうかというサンシイの巨木が立っていました。
もちろん、われわれ子供の遊び場。けれども、サンシイの木にはトゲがあって、それをあしらいながら木登りするには、相当のテクニックを要しました。

 毎年、この時期、街の花屋さんが来て、枝ごと伐採して、買っていったそうです(戦前の話しです)。

 その木も、伊勢湾台風で倒壊。

 10年前に、写真のサンシイの木を植えました・・・・10年たって、どれほども大きくなっていない。
 あの巨木にまで育つには、一体、どれくらいの年月がかかるのでしょうか。


コメント (4)
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