「ルーブルで遊ぶシリーズ」
国立新美術館でおこなわれているポンピドー所蔵の「シュルレアリスム展」を観てきました。
この展覧会は、一人で観るには孤独感が増しそうな予感がしたので、気の合う友達と一緒にシュールを楽しんできました。
一人で行くと何が孤独かというと、「シュールだね」という声を発せないからです。
違和感を感じたり、突飛な表現に共感したり、青さとか若さを感じたり、そのような感情を「シュールだね」という共通言語で表すことで、その場に居る自分を許せるようなそんな気分になるわけです。
シュルレアリストが作成した「エッフェル塔を舞台に時空を超越し操作する内容」のフィルムやシュルレアリスムを代表する「アンダルシアの犬」を今回初めて観ることができたことは幸運でした。
美術を語り合いながら生活していた学生時代を思い出し、懐かしい気分になったのは想定内のことでしたが、この展覧会で自分の成育史に心理学が入り込んできた要因のような原型が同時に見えてもきたのです。
ギリシャ神話、戦いの歴史、キリスト教文化、それらの抑圧からの解放を目指すような、または自己の防衛機制を皮肉ったような表現の中にも、しっかりとアイデンティティの中に揺るぎの無い歴史の厚みが素地としてあり、それらが分化を生みそれぞれの主義を作り上げていきます。19世紀末から20世紀にかけては、そのカオスが想像力・創造力をかき立てたと言っても過言ではないと思います。
シュルレアリストが描くアモールとプシュケ(ギリシャ神話の神様)に、何故か妙な安堵感を感じるのも、それらの素地のせいかもしれません。
創造と破壊をもたらしていく愛と疑惑と嫉妬がいつの世も繰り返され、再生復活していくには、カオス「混沌」の時期が必ず必要な通過儀礼だとしたら、シュルレアリスムという欲求は自然の摂理だったという思いが湧いてきました。
混沌から生みだすもの
見えてくるもの
それらを「シュールだね」と、呟くことは、平素のストレス発散と受容に繋がっていくようにも思います。
心理学者のカール ロジャーズは、自分の目の前に見えていることが自分にとってのリアリティだ、と云っています。
私が私であることは、私の現在を受容することから始まっていくのです。行きつくところも「私は私」です。
他者の「シュール」だけでなく「シュール」な自分を楽しむことを忘れたくないものです。
(シュルレアリスム=超現実主義)
理屈はどうでもいいとして「シュールだね!」と言い合える友達の存在に感謝(ΛωΛ)
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